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一話
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か細い糸を手繰り寄せるような縁がある。
それは、一年に一度の逢瀬で。
まるで織姫と彦星のような僕らの縁は、あの物語のように切なくも美しくもなかった。
毎年、夏休みになると、僕は都会のマンションで一人暮らしをする兄の元を訪れる。
兄と僕は二人兄弟で、八歳ほど歳が離れていた。
その年齢差は、僕がなかなかできなかった子でも、予定外にできた子というわけでなく、単に母親が違うからだ。
つまりは、異母兄弟。
兄の母が亡くなった後、父が僕の母と再婚してできた子が僕だ。
海に近く、新幹線の駅は遠く、都会とも田舎とも言えない半端な街に僕——進藤一(イチ)は住んでいる。
一応、観光地と言われているが、駅前の店はいつのまにかポツポツと閉店していて、年々廃れていっているような気がしてならない。
若者にとっては娯楽のない、つまらない街だ。
十数年前、この街に転勤で兄を連れて引っ越して来た父が、喫茶店で働いてた母に一目惚れして再婚。そんな漫画のような馴れ初めで僕は生まれた。
僕が生まれた時、兄は八歳だったが、兄と一緒に暮らしたのは十年にも満たない。なぜなら、兄は前に住んでた都会の高校を受験して、合格して、この街を出てしまったからだ。そのまま大学に進学して、就職して、この街に戻って来ることはなかった。
兄は家が居心地悪かったのかもしれない。
兄弟であからさまに差別されてたわけではないが、兄は母と折り合いが良くなかったのだろうとは思う。
だって、僕に『一(イチ)』なんて名前を付けるくらいの母だから。長男の兄がいるのに、弟である僕に一(イチ)なんて名前を普通は付けないだろう。一番に生まれたわけでもないのに。
だから、僕は自分の名前があまり好きではない。
兄の『つむぎ』と言う名が羨ましかった。
——進藤つむぎ。
それが兄の名だ。
縁を紡いでいって欲しいと願って付けられたらしい。
僕も兄のような優しい由来だったらよかったのに——いつもそう思う。
兄と僕は八歳も歳が離れているせいか、一緒に暮らしていた間に遊んだ記憶はない。ともかく、兄は物静かで大人びていて、ずっと部屋にこもって本を読んでいるような人だった。僕も外で遊び回るよりかは、家で絵を描く方が好きだったから、僕はよく兄の部屋に入り浸っていた。勉強や読書をする兄の横で、僕は絵を描く。その時間が妙に居心地よくて好きだった。
部屋にやってくる僕を、兄は歓迎するわけでもなく、かと言って拒むわけでもなく。僕が行く度、いつも冷えた麦茶を出してくれた。
高校入学を機に家を出た兄は、亡くなった実母の両親——祖父母の家に住んで、そこから高校に通うことになった。そして、新幹線代が高いから、勉強で忙しいと理由をつけて、長期休みでも地元になかなか帰って来なかった。
さすがに父も思うところがあったのか、夏休みに僕を連れて祖父母の家に一週間ほど滞在するようになった。
祖父母も良い人たちで、血の繋がってない僕を兄と同じように可愛がってくれた。そんな祖父母だったからか、父と母には素っ気ない兄も、祖父母だけにはよく懐いていた気がする。
兄と僕の関係は、会う場所が変わっても特に変化もなく続いていた。ただ同じ空間にいて、同じ時間を過ごすだけだった。
だって、部屋に行けば、当たり前のようにそっと麦茶を出してくれるから。
それが、側にいることを許されているようで嬉しかったのだ。
そんな夏休みの恒例行事は、突然終わりを告げられた。
兄が大学二年生の時に祖父母が相次いで亡くなって、家が売却されることになったからだ。
必然的に、兄は一人暮らしをすることになった。
そして、兄の一人暮らしを機に、父は兄に会いに行くのを辞めた。兄も成人したことだし、もういいだろうと判断したようだった。
でも、僕は兄に会いに行きたかった。
兄と過ごす夏休みのあの時間は、パブロフの犬のようにすっかり僕の中で染み付いてしまっている。
寧ろ焦った。
一度辞めてしまったら、あの大切な時間を永遠に失ってしまいそうな気がして。
僕は渋る父を何とか説き伏せて、一人で兄の家に泊まりに行かせてもらうことにした。父がいないなら、一週間じゃなく、三週間は滞在したいと駄々を捏ねた。
いつになく必死な僕の様子に、父は不思議そうな顔をして「二人ともそんな仲良かったんか?」と首を捻っていた。
側から見れば、そう思われるんだろう。
僕らは一緒にいても各々好きなことをして、ポツリポツリと言葉を交わすくらいなのだから。
兄がこの時間をどう思ってるのかわからない。
でも、僕は。
いつまでも兄というぬるま湯の中に身体を沈めていたかった。
◇
高校二年生の夏休み。
今年も新幹線に乗って、僕は兄に会いに行く。
そろそろ受験勉強も本腰入れないといけない時期だが、兄の家でも勉強はできる。寧ろ、口うるさい母の小言がない分、集中しやすい気がする。
ボストンバッグに勉強道具、絵描き用のタブレット、着替えを詰め込んで、僕は新幹線に乗り込んだ。
新幹線を降りた途端、耳を貫く音の洪水に僕は顔を顰めた。
スピーカーから流れるアナウンスと発車メロディ、スーツケースを引くゴロゴロ音、それにひしめきあった人々の会話が混じる。
地元の駅とは大違いだ。
こんな咽せ返るような街に、兄は住んでいる。
——よくこんなとこ住めるね。
前に一度、兄に溢したことがある。その時、兄には『お前には無理だろうなぁ。イチは地元でのんびり暮らしたらいい』って返されたけど、僕はそうは思わない。
都会が好きではない。でも、かと言って地元が好きというわけでもない。
僕が住んでる場所は、砂埃が舞うようなつまらない街で。
——なにより、兄がいない街だ。
騒音にうんざりしながら、人の流れに乗って何とか改札まで辿り着くと、柱に寄りかかって携帯を弄る兄の姿を見つけた。白のTシャツに黒いシャツを羽織って、下は黒のジーンズとシンプルな出立ちだ。どこにでもありそうな無地の服なのに、兄が着た途端におしゃれに見えるのが不思議だった。
僕が声をかける前に、兄が顔を上げた。
視線が絡む。
一年ぶりの再会だというのに、兄は嬉しそうに笑うでもなく、ただ無表情で小首を傾けただけだった。
「ごめん、お待たせ」
改札を抜け、僕が駆け寄って行くと、兄はちらりと僕のボストンバッグを一瞥してから「ん」と手を出して持とうとする。
「大丈夫」
兄の身長には全然届かないけど、これでも少しは成長したのだ。
差し出された手に、僕はボストンバッグの代わりに紙袋を引っ掛けた。
「ん、これ父さんから」
「あぁ……」
紙袋の中身を覗き込んで、すぐに兄は渋い顔をする。
「あの人、いっつも変なお土産選ぶよな」
僕も先に中身を見たが、地元の有名所の土産でなく、新商品らしき土産が入っていた。若者は新しい物が好きだろうと、父の勝手な思い込みのせいだ。毎度持たされるその土産は、どれも特徴のない量産品の味がした。
「んじゃ、行くぞ」
紙袋を片手に揺らして、兄はさっさと先に歩き出してしまう。
「あ、うん」
一年前と変わらぬ兄の背中を、僕は慌てて追いかけた。
兄の家は、新幹線から地下鉄に乗り換えて、三十分ほどの距離にある。
午前の中途半端な時間のせいか、地下鉄の車内は人も疎らで空いていた。
隣に座っていても、兄は終始無言のままだった。
兄の口数が少ないのはいつものことだし、僕も特に話しかけることなく、向かいの窓に写る僕らの姿をぼんやりと眺めた。
僕らを知らない人が見れば、きっと兄弟だとは思わない。そうはっきり言えるほど、兄と僕は似ていなかった。
兄は背が高く、艶のあるサラサラの黒髪に、涼しい目元が特徴のイケメンで。
対して、僕は背は平均より低く、トイプードルみたいに茶色がかった癖毛に、眼鏡かけた地味顔だ。
一応、半分は同じ血が流れている筈なのに、それぞれ母親似のせいか全く似ていない。さらには年齢差もあって、兄弟と思われないことの方が多かった。
三十分揺られて最寄駅に着いて外に出ると、嘘のように静かな街に出る。静かと言っても、地元のように寂れた空気が感じられないのが、さすが都会だなと思う。
——あっついな。
今日は雲一つない快晴で、一歩踏み出せば、強い日差しが僕らに降り注ぐ。
茹だるような蒸し暑さに辟易しながら、さらに十分ほど歩いていくと、兄の住むマンションに辿り着いた。
古くもなく、かと言って新しいわけでもなく、そこそこ駅が近いせいか、学生が多く住んでいるようなマンションだった。エレベーター無しの三階まで階段を上がり、一番奥に進んだ先にあるのが兄の部屋だ。
慣れた手付きで兄が鍵を開けて、ドアを引けばキーッと軋んだ音が辺りに響く。
兄に続いて玄関に足を踏み入れた途端、一年ぶりの兄の部屋の空気が僕を包み込んだ。
狭い玄関は、酷く蒸し暑くて、どっと汗が吹き出してくる。
僕が後ろ手にドアを閉めれば、兄がくるりと身体を回転させて、こちらを向いた。
「イチ……」
覆い被さるように身体を寄せられて、背中が玄関のドアにガンッと当たる。
そのまま、兄の端正な顔が近づいてきて、僕の唇に柔らかなものが優しく触れる。
「ン……」
一年ぶりの、兄の唇だった。
少しカサついた唇は、擽るように僕の唇を何度か啄んでから、名残惜しそうに離れていく。
遅れて視線が絡み合って。
間近で揺れる瞳は、コーヒー色をしていた。
その時、ほんの僅かに漂う香りに気づいて、僕は「あ」と小さく声を上げた。
どうしたのかと、兄が目だけで訴えてくる。
照れ臭さも相まって、僕は視線を逸らしてから、「……コーヒー飲んだ?」とボソッと聞いてみた。
それに、兄は控えめに喉奥でクククと笑う。
「よくわかるな。お前来るまでカフェで時間つぶしてた」
そう言って、僕の癖毛をワサワサと優しく掻き回してから、先にドアを開けてリビングへ入って行ってしまったら、
当たり前に唇に触れて、当たり前にそのことに触れない。
一年経っても、兄の態度は変わらない。
僕だけが唇に僅かに残る感触を噛み締めて、慌てて兄を追いかけた。
ドアを通り抜ければ、そこには一年前と全く変化のないキッチンとリビングダイニングが広がっていた。
角部屋のおかげで窓が多く、日当たりはいい。薄い光がレースカーテン越しに差し込んで、電気を付けなくてもいいくらい明るい。
リビングダイニングにあるのは、テレビとソファとローテーブル、キッチンに面したダイニングテーブルくらいで、キッチンも必要最低限のものしか置かれていない。そのせいで、部屋全体が酷く殺風景に思える。
昔から兄は物欲がなく、本以外に興味が薄いせいだろう。
兄がエアコンを付けてくれたが、冷えるまではもう少しかかりそうだった。
汗をぬぐいながら、僕がボストンバッグをソファの横に置いて、必要なものを出していると、兄がいつものように麦茶の入ったグラスをソファの前のローテーブルに置いてくれる。
「あ、ありが……」
礼を言い終わる前に、僕は正面から兄に抱き竦められた。
兄の匂いに包まれて、どうしようもなく胸が高鳴る。大人びたその匂いに引き寄せられるように、僕は兄の胸に顔を埋めた。眼鏡が下に落ちたけど、今はそんなものはどうでもいい。
胸の匂いをスゥと吸い込んで、グリグリと額を押し付ける。汗をかいているのに、兄は匂いまでイケメンなのかとちょっとだけ悔しい。
「イチ……」
頭一つ分小さな俺の癖毛に顔を埋めて、兄は「もう成長は止まったか?」と意地悪に聞く。
「気にしてんのに」
わざとらしく不貞腐れた声で言えば、上からクスクスと笑う振動が伝わってきた。
エアコンを付けたばかりの部屋は汗がしたたるほどに暑いのに、目の前の熱がもっと欲しくて堪らなくなる。
縋るように、その湿った背中に手を伸ばした。
でも、手が背中を捉える前に、その熱はあっさりと離れていってしまう。
「じゃ、俺は部屋で仕事してるから。イチは好きにしてて。今日は俺が昼飯作るから」
そう言い残して、さっさと兄は寝室兼仕事部屋に行ってしまった。
バタンと扉が閉じて、兄の姿が見えなくなると、溜まりに溜まった身体の熱がブワッと全身を駆け巡っていく。
耐え切れずに、僕は両手で顔を覆いながら、ふらふらとソファに倒れ込んだ。
——嗚呼、寂しい。
兄の熱と匂いがすぐ側にあるのに。
三週間後の別れを思って、寂しくなる。
——ずっと側にいられたらいいのに。
この感情はきっと、兄弟に対して抱いてはいけない感情なのだろう。
僕らを繋げる糸は歪で、儚くて。
いとも容易く、切ってしまえるものだ。
そんないつ切られてもおかしくない糸を、僕はずっと離せないでいる。
それは、一年に一度の逢瀬で。
まるで織姫と彦星のような僕らの縁は、あの物語のように切なくも美しくもなかった。
毎年、夏休みになると、僕は都会のマンションで一人暮らしをする兄の元を訪れる。
兄と僕は二人兄弟で、八歳ほど歳が離れていた。
その年齢差は、僕がなかなかできなかった子でも、予定外にできた子というわけでなく、単に母親が違うからだ。
つまりは、異母兄弟。
兄の母が亡くなった後、父が僕の母と再婚してできた子が僕だ。
海に近く、新幹線の駅は遠く、都会とも田舎とも言えない半端な街に僕——進藤一(イチ)は住んでいる。
一応、観光地と言われているが、駅前の店はいつのまにかポツポツと閉店していて、年々廃れていっているような気がしてならない。
若者にとっては娯楽のない、つまらない街だ。
十数年前、この街に転勤で兄を連れて引っ越して来た父が、喫茶店で働いてた母に一目惚れして再婚。そんな漫画のような馴れ初めで僕は生まれた。
僕が生まれた時、兄は八歳だったが、兄と一緒に暮らしたのは十年にも満たない。なぜなら、兄は前に住んでた都会の高校を受験して、合格して、この街を出てしまったからだ。そのまま大学に進学して、就職して、この街に戻って来ることはなかった。
兄は家が居心地悪かったのかもしれない。
兄弟であからさまに差別されてたわけではないが、兄は母と折り合いが良くなかったのだろうとは思う。
だって、僕に『一(イチ)』なんて名前を付けるくらいの母だから。長男の兄がいるのに、弟である僕に一(イチ)なんて名前を普通は付けないだろう。一番に生まれたわけでもないのに。
だから、僕は自分の名前があまり好きではない。
兄の『つむぎ』と言う名が羨ましかった。
——進藤つむぎ。
それが兄の名だ。
縁を紡いでいって欲しいと願って付けられたらしい。
僕も兄のような優しい由来だったらよかったのに——いつもそう思う。
兄と僕は八歳も歳が離れているせいか、一緒に暮らしていた間に遊んだ記憶はない。ともかく、兄は物静かで大人びていて、ずっと部屋にこもって本を読んでいるような人だった。僕も外で遊び回るよりかは、家で絵を描く方が好きだったから、僕はよく兄の部屋に入り浸っていた。勉強や読書をする兄の横で、僕は絵を描く。その時間が妙に居心地よくて好きだった。
部屋にやってくる僕を、兄は歓迎するわけでもなく、かと言って拒むわけでもなく。僕が行く度、いつも冷えた麦茶を出してくれた。
高校入学を機に家を出た兄は、亡くなった実母の両親——祖父母の家に住んで、そこから高校に通うことになった。そして、新幹線代が高いから、勉強で忙しいと理由をつけて、長期休みでも地元になかなか帰って来なかった。
さすがに父も思うところがあったのか、夏休みに僕を連れて祖父母の家に一週間ほど滞在するようになった。
祖父母も良い人たちで、血の繋がってない僕を兄と同じように可愛がってくれた。そんな祖父母だったからか、父と母には素っ気ない兄も、祖父母だけにはよく懐いていた気がする。
兄と僕の関係は、会う場所が変わっても特に変化もなく続いていた。ただ同じ空間にいて、同じ時間を過ごすだけだった。
だって、部屋に行けば、当たり前のようにそっと麦茶を出してくれるから。
それが、側にいることを許されているようで嬉しかったのだ。
そんな夏休みの恒例行事は、突然終わりを告げられた。
兄が大学二年生の時に祖父母が相次いで亡くなって、家が売却されることになったからだ。
必然的に、兄は一人暮らしをすることになった。
そして、兄の一人暮らしを機に、父は兄に会いに行くのを辞めた。兄も成人したことだし、もういいだろうと判断したようだった。
でも、僕は兄に会いに行きたかった。
兄と過ごす夏休みのあの時間は、パブロフの犬のようにすっかり僕の中で染み付いてしまっている。
寧ろ焦った。
一度辞めてしまったら、あの大切な時間を永遠に失ってしまいそうな気がして。
僕は渋る父を何とか説き伏せて、一人で兄の家に泊まりに行かせてもらうことにした。父がいないなら、一週間じゃなく、三週間は滞在したいと駄々を捏ねた。
いつになく必死な僕の様子に、父は不思議そうな顔をして「二人ともそんな仲良かったんか?」と首を捻っていた。
側から見れば、そう思われるんだろう。
僕らは一緒にいても各々好きなことをして、ポツリポツリと言葉を交わすくらいなのだから。
兄がこの時間をどう思ってるのかわからない。
でも、僕は。
いつまでも兄というぬるま湯の中に身体を沈めていたかった。
◇
高校二年生の夏休み。
今年も新幹線に乗って、僕は兄に会いに行く。
そろそろ受験勉強も本腰入れないといけない時期だが、兄の家でも勉強はできる。寧ろ、口うるさい母の小言がない分、集中しやすい気がする。
ボストンバッグに勉強道具、絵描き用のタブレット、着替えを詰め込んで、僕は新幹線に乗り込んだ。
新幹線を降りた途端、耳を貫く音の洪水に僕は顔を顰めた。
スピーカーから流れるアナウンスと発車メロディ、スーツケースを引くゴロゴロ音、それにひしめきあった人々の会話が混じる。
地元の駅とは大違いだ。
こんな咽せ返るような街に、兄は住んでいる。
——よくこんなとこ住めるね。
前に一度、兄に溢したことがある。その時、兄には『お前には無理だろうなぁ。イチは地元でのんびり暮らしたらいい』って返されたけど、僕はそうは思わない。
都会が好きではない。でも、かと言って地元が好きというわけでもない。
僕が住んでる場所は、砂埃が舞うようなつまらない街で。
——なにより、兄がいない街だ。
騒音にうんざりしながら、人の流れに乗って何とか改札まで辿り着くと、柱に寄りかかって携帯を弄る兄の姿を見つけた。白のTシャツに黒いシャツを羽織って、下は黒のジーンズとシンプルな出立ちだ。どこにでもありそうな無地の服なのに、兄が着た途端におしゃれに見えるのが不思議だった。
僕が声をかける前に、兄が顔を上げた。
視線が絡む。
一年ぶりの再会だというのに、兄は嬉しそうに笑うでもなく、ただ無表情で小首を傾けただけだった。
「ごめん、お待たせ」
改札を抜け、僕が駆け寄って行くと、兄はちらりと僕のボストンバッグを一瞥してから「ん」と手を出して持とうとする。
「大丈夫」
兄の身長には全然届かないけど、これでも少しは成長したのだ。
差し出された手に、僕はボストンバッグの代わりに紙袋を引っ掛けた。
「ん、これ父さんから」
「あぁ……」
紙袋の中身を覗き込んで、すぐに兄は渋い顔をする。
「あの人、いっつも変なお土産選ぶよな」
僕も先に中身を見たが、地元の有名所の土産でなく、新商品らしき土産が入っていた。若者は新しい物が好きだろうと、父の勝手な思い込みのせいだ。毎度持たされるその土産は、どれも特徴のない量産品の味がした。
「んじゃ、行くぞ」
紙袋を片手に揺らして、兄はさっさと先に歩き出してしまう。
「あ、うん」
一年前と変わらぬ兄の背中を、僕は慌てて追いかけた。
兄の家は、新幹線から地下鉄に乗り換えて、三十分ほどの距離にある。
午前の中途半端な時間のせいか、地下鉄の車内は人も疎らで空いていた。
隣に座っていても、兄は終始無言のままだった。
兄の口数が少ないのはいつものことだし、僕も特に話しかけることなく、向かいの窓に写る僕らの姿をぼんやりと眺めた。
僕らを知らない人が見れば、きっと兄弟だとは思わない。そうはっきり言えるほど、兄と僕は似ていなかった。
兄は背が高く、艶のあるサラサラの黒髪に、涼しい目元が特徴のイケメンで。
対して、僕は背は平均より低く、トイプードルみたいに茶色がかった癖毛に、眼鏡かけた地味顔だ。
一応、半分は同じ血が流れている筈なのに、それぞれ母親似のせいか全く似ていない。さらには年齢差もあって、兄弟と思われないことの方が多かった。
三十分揺られて最寄駅に着いて外に出ると、嘘のように静かな街に出る。静かと言っても、地元のように寂れた空気が感じられないのが、さすが都会だなと思う。
——あっついな。
今日は雲一つない快晴で、一歩踏み出せば、強い日差しが僕らに降り注ぐ。
茹だるような蒸し暑さに辟易しながら、さらに十分ほど歩いていくと、兄の住むマンションに辿り着いた。
古くもなく、かと言って新しいわけでもなく、そこそこ駅が近いせいか、学生が多く住んでいるようなマンションだった。エレベーター無しの三階まで階段を上がり、一番奥に進んだ先にあるのが兄の部屋だ。
慣れた手付きで兄が鍵を開けて、ドアを引けばキーッと軋んだ音が辺りに響く。
兄に続いて玄関に足を踏み入れた途端、一年ぶりの兄の部屋の空気が僕を包み込んだ。
狭い玄関は、酷く蒸し暑くて、どっと汗が吹き出してくる。
僕が後ろ手にドアを閉めれば、兄がくるりと身体を回転させて、こちらを向いた。
「イチ……」
覆い被さるように身体を寄せられて、背中が玄関のドアにガンッと当たる。
そのまま、兄の端正な顔が近づいてきて、僕の唇に柔らかなものが優しく触れる。
「ン……」
一年ぶりの、兄の唇だった。
少しカサついた唇は、擽るように僕の唇を何度か啄んでから、名残惜しそうに離れていく。
遅れて視線が絡み合って。
間近で揺れる瞳は、コーヒー色をしていた。
その時、ほんの僅かに漂う香りに気づいて、僕は「あ」と小さく声を上げた。
どうしたのかと、兄が目だけで訴えてくる。
照れ臭さも相まって、僕は視線を逸らしてから、「……コーヒー飲んだ?」とボソッと聞いてみた。
それに、兄は控えめに喉奥でクククと笑う。
「よくわかるな。お前来るまでカフェで時間つぶしてた」
そう言って、僕の癖毛をワサワサと優しく掻き回してから、先にドアを開けてリビングへ入って行ってしまったら、
当たり前に唇に触れて、当たり前にそのことに触れない。
一年経っても、兄の態度は変わらない。
僕だけが唇に僅かに残る感触を噛み締めて、慌てて兄を追いかけた。
ドアを通り抜ければ、そこには一年前と全く変化のないキッチンとリビングダイニングが広がっていた。
角部屋のおかげで窓が多く、日当たりはいい。薄い光がレースカーテン越しに差し込んで、電気を付けなくてもいいくらい明るい。
リビングダイニングにあるのは、テレビとソファとローテーブル、キッチンに面したダイニングテーブルくらいで、キッチンも必要最低限のものしか置かれていない。そのせいで、部屋全体が酷く殺風景に思える。
昔から兄は物欲がなく、本以外に興味が薄いせいだろう。
兄がエアコンを付けてくれたが、冷えるまではもう少しかかりそうだった。
汗をぬぐいながら、僕がボストンバッグをソファの横に置いて、必要なものを出していると、兄がいつものように麦茶の入ったグラスをソファの前のローテーブルに置いてくれる。
「あ、ありが……」
礼を言い終わる前に、僕は正面から兄に抱き竦められた。
兄の匂いに包まれて、どうしようもなく胸が高鳴る。大人びたその匂いに引き寄せられるように、僕は兄の胸に顔を埋めた。眼鏡が下に落ちたけど、今はそんなものはどうでもいい。
胸の匂いをスゥと吸い込んで、グリグリと額を押し付ける。汗をかいているのに、兄は匂いまでイケメンなのかとちょっとだけ悔しい。
「イチ……」
頭一つ分小さな俺の癖毛に顔を埋めて、兄は「もう成長は止まったか?」と意地悪に聞く。
「気にしてんのに」
わざとらしく不貞腐れた声で言えば、上からクスクスと笑う振動が伝わってきた。
エアコンを付けたばかりの部屋は汗がしたたるほどに暑いのに、目の前の熱がもっと欲しくて堪らなくなる。
縋るように、その湿った背中に手を伸ばした。
でも、手が背中を捉える前に、その熱はあっさりと離れていってしまう。
「じゃ、俺は部屋で仕事してるから。イチは好きにしてて。今日は俺が昼飯作るから」
そう言い残して、さっさと兄は寝室兼仕事部屋に行ってしまった。
バタンと扉が閉じて、兄の姿が見えなくなると、溜まりに溜まった身体の熱がブワッと全身を駆け巡っていく。
耐え切れずに、僕は両手で顔を覆いながら、ふらふらとソファに倒れ込んだ。
——嗚呼、寂しい。
兄の熱と匂いがすぐ側にあるのに。
三週間後の別れを思って、寂しくなる。
——ずっと側にいられたらいいのに。
この感情はきっと、兄弟に対して抱いてはいけない感情なのだろう。
僕らを繋げる糸は歪で、儚くて。
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