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第2話:雨宿りの縁側
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あの日、庭で言葉を交わして以来、清純の日課にささやかな変化が生まれた。
執務の合間、ふと窓の外に目をやること。
そこに春の姿を見つけると、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じるようになったのだ。
春は実直な働き手だった。
先代の老庭師が長年かけて作り上げた庭の様式をよく学び、木々や草花と真摯に向き合っていた。
彼が手入れをした後の庭は、どこか空気が澄み、陽光が柔らかく降り注ぐように感じられる。
清純は、春と直接言葉を交わすことはなかった。
法務局長という立場が、それを許さない。
ただ遠くから、その姿を見守るだけ。
それだけで、乾いた心に染み渡るような、不思議な充足感があった。
そんなある日の昼下がり。
空を覆っていた灰色の雲が、ついに堪えきれなくなったかのように、大粒の雨を落とし始めた。
執務室の窓を叩く雨音は次第に強くなり、やがて庭の景色を白く煙らせるほどの豪雨となる。
「……あの少年は、どうしているだろうか」
雨具の用意はあっただろうか。
濡れて風邪など引かなければよいが。
柄にもない心配が胸をよぎり、清純は筆を置いた。
いてもたってもいられず、執務室を出て、東屋(あずまや)へと続く渡り廊下へと向かう。
雨に煙る庭を眺めていると、案の定、軒下の縁側で小さな影が雨をしのいでいた。
春だった。
膝を抱え、空を見上げている。
その横顔はどこか心細げで、清純の胸をちくりと刺した。
気づけば、足が自然とそちらへ向いていた。
「……雨が、強くなってきたな」
背後からの声に、春の肩が小さく跳ねる。
振り返ったその瞳が、清純の姿を捉えて驚きに見開かれた。
「きょ、局長様……!」
慌てて立ち上がろうとする春を、清純は手で制した。
「よい、そのままで。……雨宿りか」
「は、はい。すぐに止むかと思ったのですが……」
しどろもどろになりながら、春は少しだけ身を縮こませて、清純が座るための場所を空けた。
そのいじらしい仕草に、清純の口元が微かに和らぐ。
促されるまま、春の隣に腰を下ろした。
ぎこちない沈黙が、二人の間に落ちる。
雨音だけが、やけに大きく響いていた。
「……この庭は、お好きですか」
先に口を開いたのは、春だった。
「いつも、お部屋から見てくださっていますよね。ぼくが手入れをした場所を、じっと」
「……!」
見られていた。
清純の頬に、かすかな熱が上る。
四十を過ぎて、まるで童子のような動揺を覚えている自分に、内心で深くため息をついた。
「……先代の仕事ぶりと、比べていただけだ」
「そう、ですか」
春は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに微笑んだように見えた。
その表情が、清純の心に小さな棘のように刺さる。
「……そういう意味ではない」
思わず、否定の言葉が口をついて出た。
「君の仕事は、丁寧だ。この庭を、心から慈しんでいるのが伝わってくる」
言ってから「しまった、」と思う。
あまりに率直な、普段の自分からは考えられない言葉だった。
春の目が、ゆっくりと清純に向けられる。
玻璃(はり)玉のように透き通った瞳が、驚きと淡い喜びの色を映して、きらきらと揺れていた。
「……嬉しい、です」
ぽつり、と呟かれた言葉は、雨音に消されそうなほどか細い。
「ぼくのお仕事をそんな風に褒めてくださった方は、局長様が、初めてです……。ぼく、この国に来てから、ずっと一人だったので」
その言葉に、清純ははっとした。
異国の血を引くその容姿。この国で生きていくには、見えない苦労も多かったに違いない。
「……故郷は、遠いのか」
「はい。もう、帰れない場所にあります。……でも、この国で生きていくって決めたから。今はこの庭が、ぼくの新しい居場所なんです」
雨足が、少し弱まってきた。雲の切れ間から、薄日が差し込む。光の筋が、春の白銀の髪を照らし、まるで後光のような輝きを放った。
清純は、その光景から目を離すことができなかった。
守ってやりたい、と思った。
この小さな庭師が、この国で、この場所で、穏やかに生きていけるように。法という名の、自らが持つ最大の力で。
それは、法務局長としての職務感からか。
あるいはもっと別の、名付けようのない感情からか。
清純自身にも、まだ分からなかった。
「……風邪を引く。早く、暖かい場所へ」
「あ……はい!」
雨上がりの、湿った土の匂いが、辺りに満ちていた。
立ち上がった春が、深々と頭を下げる。
「あの、局長様。ありがとうございました」
「……礼を言われるようなことは、何も」
「いいえ。……お話しできて、嬉しかったです」
はにかむように笑って、春は駆け足で庭の出口へと向かっていった。
その小さな背中を見送りながら、清純は縁側に一人、佇んでいた。
胸の奥に残る、温かい感触。
それは雨上がりの陽光のように、清純の凝り固まった心を静かに溶かし始めていた。
二人の距離が、雨粒ひとつ分だけ、近くなった。そんな気がした。
執務の合間、ふと窓の外に目をやること。
そこに春の姿を見つけると、張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩むのを感じるようになったのだ。
春は実直な働き手だった。
先代の老庭師が長年かけて作り上げた庭の様式をよく学び、木々や草花と真摯に向き合っていた。
彼が手入れをした後の庭は、どこか空気が澄み、陽光が柔らかく降り注ぐように感じられる。
清純は、春と直接言葉を交わすことはなかった。
法務局長という立場が、それを許さない。
ただ遠くから、その姿を見守るだけ。
それだけで、乾いた心に染み渡るような、不思議な充足感があった。
そんなある日の昼下がり。
空を覆っていた灰色の雲が、ついに堪えきれなくなったかのように、大粒の雨を落とし始めた。
執務室の窓を叩く雨音は次第に強くなり、やがて庭の景色を白く煙らせるほどの豪雨となる。
「……あの少年は、どうしているだろうか」
雨具の用意はあっただろうか。
濡れて風邪など引かなければよいが。
柄にもない心配が胸をよぎり、清純は筆を置いた。
いてもたってもいられず、執務室を出て、東屋(あずまや)へと続く渡り廊下へと向かう。
雨に煙る庭を眺めていると、案の定、軒下の縁側で小さな影が雨をしのいでいた。
春だった。
膝を抱え、空を見上げている。
その横顔はどこか心細げで、清純の胸をちくりと刺した。
気づけば、足が自然とそちらへ向いていた。
「……雨が、強くなってきたな」
背後からの声に、春の肩が小さく跳ねる。
振り返ったその瞳が、清純の姿を捉えて驚きに見開かれた。
「きょ、局長様……!」
慌てて立ち上がろうとする春を、清純は手で制した。
「よい、そのままで。……雨宿りか」
「は、はい。すぐに止むかと思ったのですが……」
しどろもどろになりながら、春は少しだけ身を縮こませて、清純が座るための場所を空けた。
そのいじらしい仕草に、清純の口元が微かに和らぐ。
促されるまま、春の隣に腰を下ろした。
ぎこちない沈黙が、二人の間に落ちる。
雨音だけが、やけに大きく響いていた。
「……この庭は、お好きですか」
先に口を開いたのは、春だった。
「いつも、お部屋から見てくださっていますよね。ぼくが手入れをした場所を、じっと」
「……!」
見られていた。
清純の頬に、かすかな熱が上る。
四十を過ぎて、まるで童子のような動揺を覚えている自分に、内心で深くため息をついた。
「……先代の仕事ぶりと、比べていただけだ」
「そう、ですか」
春は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、少しだけ寂しそうに微笑んだように見えた。
その表情が、清純の心に小さな棘のように刺さる。
「……そういう意味ではない」
思わず、否定の言葉が口をついて出た。
「君の仕事は、丁寧だ。この庭を、心から慈しんでいるのが伝わってくる」
言ってから「しまった、」と思う。
あまりに率直な、普段の自分からは考えられない言葉だった。
春の目が、ゆっくりと清純に向けられる。
玻璃(はり)玉のように透き通った瞳が、驚きと淡い喜びの色を映して、きらきらと揺れていた。
「……嬉しい、です」
ぽつり、と呟かれた言葉は、雨音に消されそうなほどか細い。
「ぼくのお仕事をそんな風に褒めてくださった方は、局長様が、初めてです……。ぼく、この国に来てから、ずっと一人だったので」
その言葉に、清純ははっとした。
異国の血を引くその容姿。この国で生きていくには、見えない苦労も多かったに違いない。
「……故郷は、遠いのか」
「はい。もう、帰れない場所にあります。……でも、この国で生きていくって決めたから。今はこの庭が、ぼくの新しい居場所なんです」
雨足が、少し弱まってきた。雲の切れ間から、薄日が差し込む。光の筋が、春の白銀の髪を照らし、まるで後光のような輝きを放った。
清純は、その光景から目を離すことができなかった。
守ってやりたい、と思った。
この小さな庭師が、この国で、この場所で、穏やかに生きていけるように。法という名の、自らが持つ最大の力で。
それは、法務局長としての職務感からか。
あるいはもっと別の、名付けようのない感情からか。
清純自身にも、まだ分からなかった。
「……風邪を引く。早く、暖かい場所へ」
「あ……はい!」
雨上がりの、湿った土の匂いが、辺りに満ちていた。
立ち上がった春が、深々と頭を下げる。
「あの、局長様。ありがとうございました」
「……礼を言われるようなことは、何も」
「いいえ。……お話しできて、嬉しかったです」
はにかむように笑って、春は駆け足で庭の出口へと向かっていった。
その小さな背中を見送りながら、清純は縁側に一人、佇んでいた。
胸の奥に残る、温かい感触。
それは雨上がりの陽光のように、清純の凝り固まった心を静かに溶かし始めていた。
二人の距離が、雨粒ひとつ分だけ、近くなった。そんな気がした。
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