国一番のカタブツ閣下(四十路)は、陽だまりの庭で不器用な初恋を知る

冬苑

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第16話:書庫の片隅、乱れた呼吸

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 法務庁の広大な書庫は、この国の歴史と法のすべてが眠る静寂の聖域だった。
 天井まで届く書架には、古い紙と墨の匂いを纏った巻物や書物が、びっしりと並んでいる。
 昼間でも薄暗く、人の気配はほとんどない。

 その日の昼下がり。
 清純は過去の判例を調べるため、書庫の奥深くへと足を踏み入れた。
 目当ての書物を探し、重いそれを書架から引き出す。
 ぱらぱらと頁をめくっていた、その時だった。

「……局長さま」

 背後から、ひそやかな声がした。
 振り返ると、そこにいたのは春だった。
 いつもと違う、少し緊張した面持ちで清純を見上げている。

「どうした。ここは、庭師の仕事場ではないぞ」
 清純は、努めて平静を装って言った。
 だが二人きりの、この密やかな空間に、彼の心臓もまた、静かに鼓動を速めていた。

「あの……お届けものです」
 春はそう言うと、小さな包みを差し出した。
 中身は、いつもの薬草茶だろう。

 だが今日の春の目的は、それだけではないように見えた。
 その瞳には、何かを決意したような、強い光が宿っている。

「わざわざ、すまないな」
 清純が包みを受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間。
 春は一歩踏み込み清純の腕を掴むと、彼を書架の壁へと、ぐい、と押し付けた。

「……!?」

 どん、と背中に書物が当たる、鈍い音。
 清純は驚きに目を見開いた。
 いつもは従順で控えめな春が見せた、予想外の行動。
 その力は弱々しいものだったが、清純の虚を突くには十分すぎた。

「春……何を……」
「……しーっ」

 春は、人差し指を自分の唇に当て、悪戯っぽく微笑んだ。
 そして掴んだ腕を離さないまま、ゆっくりと顔を近づけてくる。
 薄暗い書庫の中、窓から差し込む一筋の光が春の銀にも似た髪を照らし、幻想的な光の輪を作っていた。

「夜まで、待てませんでした」

 囁くような声と共に、春の唇が清純のそれに、強く押し当てられた。
 東屋での、あの羽のように軽い口付けとは違う。
 もっと深く、もっと貪欲に、相手を求める熱を帯びている。
 清純の唇をこじ開け侵入してくる小さな舌に、清純の頭の中で、ぷつりと何かが音を立てて切れた。

 清純の脳裏から、法も、立場も、年齢も消え去った。
 ただ目の前の愛しい存在を己のものにしたいという、心の奥底に封じ込めてきた生のままの衝動が、堰を切って溢れ出した。

 清純は春の細い肩を、壊れそうなほど強く掴んだ。
 そして春がした以上に激しく、その唇を貪り返す。
 決して手慣れたものではない。どうすればいいのか分からないまま、ただ衝動に突き動かされるような、不器用で必死な口付けだった。

「ん……っ、ふ……」
 角度も、呼吸の仕方もめちゃくちゃだ。
 それでも二人は互いを確かめ合うように、何度も、何度も、その唇を重ね合わせた。

 古い紙と、墨の香り。その中で、唇をついばむ音が幾度と拍を打つ。
 やがてどちらからともなく唇が離れると、二人の間には、銀色の糸がきらりと光って、すぐに消えた。

「はぁ……っ、は……っ」
 清純はかつてないほど呼吸を乱し、肩で息をしていた。
 その顔は赤く上気し、いつもは冷静な瞳も、今は激しい熱を帯びて潤んでいる。

 春もまた、腰が砕けたようにその場にへたり込みそうになるのを、清純の胸に寄りかかってかろうじて耐えていた。

「……すまない」
 ようやく清純が絞り出したのは、謝罪の言葉だった。
「……我を、見失った」

 その声は掠れ、震えていた。
 己の内にあるこれほどの激情に、彼自身が一番動揺し、戸惑っているのだ。

 清純は春の肩を掴む手をそっと離すと、まるでその場から逃げ出すかのように、くるりと背を向けた。

「……今夜、東屋で」

 それだけを言い残すと、春からの返事も聞かずに、乱れた足取りで書庫の出口へと去っていく。
 その背中は余裕のある大人の男のものではなく、初めて知った感情の嵐に、どうしていいか分からずにうろたえる一人の初な男のそれだった。

 一人残された春は、まだ熱い唇を自分の指でそっと押さえながら、その場にへたり込んだ。
「……かわいい、ひと」
 そんな不敬なことを思いながらも、愛おしくて、たまらない。
 今夜、彼とどうなってしまうのだろう。
 その甘く少しだけ恐ろしい予感に、春の心臓は喜びで張り裂けそうだった。
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