国一番のカタブツ閣下(四十路)は、陽だまりの庭で不器用な初恋を知る

冬苑

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第33話:その背中に、心寄せて

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 二人の生活は、穏やかに満ち足りていた。
 だが清純が、この国の法を司る法務局長であるという厳然たる事実は変わらない。
 彼の地位が上がれば上がるほど、その責務は重く、そして時に、非情なものとなってその双肩にのしかかった。

 その日、清純が屋敷に帰ってきた時、その身に纏う空気はまるで、抜き身の刃のように鋭く張り詰めていた。

 屋敷中の使用人たちが息を殺し、遠巻きに主の様子を窺っている。
 春もまた、庭仕事の手を止め、そのただならぬ気配を肌で感じていた。

 何かがあったのだ。
 この誰よりも公正で理性的であろうとする人の、臓腑が煮えくり返るような、理不尽な出来事が。

 春は、何も聞かなかった。
 ただ、いつも通り、夜を待った。

 清純の私室を訪れると、彼は縁側に面した障子を開け放ち、闇に沈む庭を見つめていた。
 傍らには、いつもより少しだけ濃い酒の香りを放つ徳利と、盃が置かれている。

 春は音を立てぬよう部屋に入ると、黙って茶の支度を始めた。
 茶葉を急須に入れ、湯を注ぐ。
 いつもと変わらぬ静かな所作だけが、この張り詰めた部屋に許されているように思えた。

 淹れたての茶を、清純の前に、そっと置く。
 その時、清純が初めて口を開いた。

「……今日は早めに、戻りなさい」

 その声は低く、硬かった。
 視線は一度も春の方を向くことなく、ただ窓の外の闇に注がれたままだ。

 春は、はい、とも、いいえ、とも言わなかった。
 ただ、心の中で彼の言葉を吟味する。

 この屋敷で共に暮らすようになって、春は知っていた。
 清純が本当に一人になりたい時。
 それは例えば、どうしても今宵中に目を通さねばならぬ重要な書状がある時など。

 そういう時の彼は、春の目をまっすぐに見て、諭すようにこう言うのだ。
『すまないが、春。今夜は仕事に集中せねばならん。君がいると、私が甘えてしまうからな』
 と。その声は冷静で、優しい。

 だが、今夜は違う。
 視線を合わせず、突き放すような短い言葉。

 これは、彼が己の内に渦巻く激しい怒りや無力感といった、負の感情から春を遠ざけようとしている時の、不器用な優しさなのだ。

 本当は心の奥底で、『そばにいてほしい』と叫んでいることを、春はもう、知っていた。

 春は立ち上がらなかった。
 静かに、清純の後ろへと回り込む。
 そして岩のように凝り固まった、広い背中の両肩に、そっと自分の両手を置いた。

 ぴくり、と、清純の体がこわばる。
 だが、彼は振り払わなかった。

 春は何も言わず、ただその肩を揉み始めた。
 指先に力を込めて、ゆっくりと、深く。
 彼の職務の重圧と、今日の心の痛みを、すべて解きほぐすように。

 言葉など、いらない。
 同情も、慰めも、今の彼には何の助けにもならないだろう。

 ただ自分は、ここにいる、と。
 あなたのそばにいます、と。
 その想いだけを、手のひらから伝えるように。

 どれくらいの時間が、経っただろうか。
 清純の、固く強張っていた肩から、ふっと力が抜けたのが分かった。

 彼は長い、長い息を吐き出した。
 それは今日一日、ずっと胸の内に、溜め込んでいた苦いため息だった。

 彼はまだ、何も語らない。
 春も、何も聞かない。

 ただ静かな部屋に、衣擦れの音と、時おり清純の深く、安堵したような呼吸音だけが響いていた。

 それで、十分だった。
 嵐の中にいる彼の、唯一の避難場所として。

 春はただ、黙ってその背中に寄り添い続ける。
 夜が明けるまで、あと、もう少し。
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