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1.やさぐれ魔女は未来を憂う。

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 深い緑林に囲まれた空のような色彩の湖がある。

 ほど近い町の人々はその湖のことを「色変わりの湖」と呼んでいた。

 安全とはとても言えない鬱蒼とした獣道のような小道を通り抜けねば辿り着けないその湖は、近くに住む町の者たちからは別名「悪魔の棲み処」とも囁かれている。

 荒れ放題の細い森の中の道には、季節を問わず夕方から朝まで深い霧が覆い、道を行く者の視界を妨げる。

 狼や野党はもちろんのこと、人によれば幽霊や霊魂の欠片を見たという者までいる始末である。

 このような場所であるがゆえに、近寄る酔狂な人間はいなかったし、無知ゆえに森に入ろうとする旅人はさておいて町の人間は誰もが忌避して足を踏み入れることすらなかった。

 ただ、危険な場所であると言う一方で景色だけを取れば確かにその湖畔の風景は美しい。

 季節ごとに移り変わる木々の色彩もさることながら、湖畔に揺らぎながら描かれる色とりどり咲き乱れる草花の美しさはたとえようもないほどすばらしいものだった。

 晴れの日の昼間にはたゆたう白い雲と抜けるように青い空を写し取り、夜ともなれば白い月と闇夜に散らばる星粒を波のない水鏡にそっくりそのまま受け止めるのだ。

 その湖の畔に小さな館が一つ在る。

 館と呼ぶべきか、邸と呼ぶべきか。

 苔むした赤レンガ造りの煙突が目を惹く、白い外壁に蔦や植物が見事に絡みつく壮麗な館だった。規模としては大きなものでないにしろ、湖に面して大きな玻璃の窓が張られており、二階建ての堅牢な作りの洗練された住居である。

 縁取りに精緻なレリーフが彫り込まれた正面玄関の扉を押し開けて、今一人紳士のような服装をした一人の少女がひょっこり顔を出した。

 ただの人間ではない。

 ―――魔女である。

 魔女の名はルシアン・ホーネット。

 薄く淹れた紅茶色の髪に角度によって色合いが変わる金朱緑色スファレライトの美しい瞳を持つ二十にも満たない若き娘である。

 魔女であることを示す階級が刻まれた瞳と同じ色のペンダントを首から下げ、白いシャツに臙脂色の仕立のいいガウン、ダークブラウンのズボンに編み上げブーツといういで立ちである。

「んー、今日もいい天気」

 扉を押し開いてさっと肌を刺す清涼な空気を思いきり吸いこんで、ルシアンは大きく背伸びをした。

「さぁて、仕事の依頼は」

 言いながら、玄関横に置いてある三角屋根の郵便受けを覗いてみるのだが、もちろん中は空っぽである。

「今日も来てないわね」

 まるでいつも通りの出来事であるかのようにルシアンは小さく息を吐くと、郵便受けの下に置いてある籠を片手に持ち、なんだか気だるそうな足取りで玄関前の階段を下り、さくさくと湖まで歩いていく。

 普通魔女というと町や大きな都市に移り住んで、階級によって割り振られる仕事をこなすことで生計を立てているものである。が、この娘ときたら人が滅多に寄り付かない非常に辺鄙な場所に居を構えている。

 人の寄り付かない森のさらに奥に座す、人の訪れを拒絶しているようなその家に一体誰が、どんな人物が仕事を依頼するというのだろうか。

 それとも、この娘が名の知れた指折りの魔女であり、辺鄙な場所に住んでいても仕事の依頼が降って湧くとでもいうのだろうか。

 否、彼女が一人前になってからすでに半年。

 受けた依頼はもとより、依頼自体が来ない日々であった。

「あー。街に行きたいー。依頼沢山やっつけて、仕事してるー!っていうの実感したいー!」

 風が凪いで揺らぐ湖の水面に視線を下ろしながら、ルシアンはほとりに座り込んでぶちぶち、と薬草を採り始めて横の籠に乱雑に入れていく。

 本来であればルシアンだってこんな場所はご免なのだ。

 もっと人が多く、流通が多く、そして困っている人が多い都市部に移り住んで魔女として人の助けになりたい。その為に、家族の強い反対を押し切って「魔女」という仕事に就いたのに。

「なんで邪魔してくるかな」

 ぶちぃ、と根っこがしつこい種類の細い葉の薬草を引きちぎるようにして採取して、ルシアンは舌打ちした。


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