春に嵐。――特別怪異犯罪捜査課 諏佐天音の事件簿

雲井咲穂(くもいさほ)

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第一話

イイ笑顔の「男」

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 立ち上がれば武見の姿がない。少女を連れて先に脱出したのだろう。
 周囲を見渡し、少し冷静になって状況を捉えれば、あまりの惨状に息をのむ。さすがに長居しすぎるのは危険だ。

「真ん中に……座らなくてよかった」

 店に深刻な被害をもたらしたのは、一台の車だけではなかった。赤と黒。二台の車両が絡み合うように突撃していたのだ。

 黒い車は店内に侵入せず、外壁に激しく衝突して停止していた。ただ、窓ガラスは粉々に砕け、柱は歪み、コンクリートがむき出しになっている。赤い車と同様に、白い煙がボンネットから立ち上り、焦げた匂いが混ざった熱気があたり一面に漂う。

 瓦礫や衝撃で通路にせり出した机やソファを避けながら慎重に進む。一瞬だけ、先ほどまで自分が座っていた席を見ると、一番被害が少なかった場所だとわかる。武見が座っていた場所の窓ガラスは大きく砕けていたが、天音の座っていた場所はだった。

「――諏佐。急げ」
「え?」

 手が伸ばされる。

 声に弾かれるように顔を上げて目を見開けば、いつの間に戻ったのか、額から鮮血を滴らせている状態の武見が不機嫌そうに片手を延べている。先に出たのではなかったのか、と口を開きかける前に、ぐっと手首を掴まれた。引き寄せられる格好で、ドンと武見の体にぶつかる。

「武見さん、どうして。先に出たはずじゃ。それに、怪我をしてます。早く手当てをしないと」
「問題ない。少し切っただけだ。お前は――ケガはないな?」

 ごく間近で武見の漆黒の瞳とかち合う。
 確認するような強い瞳に気圧されて、天音は即座に頷いた。

 そしてふと気づく。
 ガソリンの他に、台所でよく嗅いだことのある――ガスの匂いがしていることに。

「ガス……」

 これはまずい、と爆発の一文字が脳裏に過る、そのタイミングで、頭上から水が噴射された。どうやら店内の天井に設置されていた消火用スプリンクラーが作動したらしい。とはいえ、爆発や火災の危険性が完全になくなったわけではない。

 全身ずぶ濡れになりながら、車の前にせり出した一番大きな瓦礫を避けるため、天音は武見の手を借りて一気に飛び越え、促されて店を出た。

 外に出ると、澄んだ空気が肺に一気に入り込み、破片や煙の匂いの混ざった店内の緊迫感から解放される。どこからともなく集まったやじ馬で辺りは騒然としていた。

 ぱたぱたと音を立てて前髪や横髪から水が滴って落ちていく。外気より体温の方が高いのだろう。全身から白い湯気が立ち昇っているのが嫌でもわかる。

 けれど、対処しなければならないことは山ほどある。

「警察を。消防車、ええっと。救急車も」

 一刻も早く通報しなければ、と状況を整理していると、視界の端に赤い点滅が見える。きっと事故を目撃した誰かが呼んだのだろうと思うが、到着が早すぎる。

「大丈夫ですか!? すぐに消防隊と救急車が到着します。中に他に人は!?」

 人垣をかき分けるようにして、警察の制服を着た男性二人がこちらに駆け寄ってくる。

「私が最後です」
「怪我はありませんか?」

 近づいた警察官が、天音の頭からつま先までをざっと一瞥する。天音も頷き返しながら、特に痛む箇所がないことを確認し、それより先に保護すべき対象があることを伝える。店主と店員、それから武見と先に出たはずの少女だ。

「中に何人いたかわかりますか?」
「店内には我々を含めて五名です。私ともう一人の男性。喫茶店の店主、店員。それから……女性の学生さんです」

 視線を巡らせれば、すぐ近くの街灯の陰で、猫の姿に戻ったあやかしを両腕でぎゅっと抱きしめ、宥める店主の姿が見えた。

 その脇で座り込んで泣きじゃくる女学生を宥める女性の姿が何人かある。
 日も暮れかけで遠目にはわかりにくいが、致命傷になるような外傷はなさそうだ。少しほっとする。

「もう一人の……男性?」
「ええ。黒くて、背の高い、三十過ぎの……あ、です!」

 気づけば隣にいない。先ほどまでいたはずなのに。

 だが探せばすぐわかった。天音と同じように全身から白い湯気を迸らせ、野次馬の方に向けて歩く黒い男だ。――否、正確には、店に突き刺さったままの赤い車の方へ、ゆっくりと歩を進めている。
 天音はその背中に向けて、声を張り上げた。

「武見さん! 救急車が来てくれるそうです。武見さんも、けがの手当てをしないと。――ん? 武見さん?」

 天音の呼びかけに応じることもなく、歩を進めていた武見がぴたりと動きを止めた。と思えば、「ギャー」と叫び声が轟く。

「「え」」

 天音の隣で同じように武見の後姿を目線で追っていた警官が、同じタイミングで声を発する。

「ゴォラァアアア! 逃げんなタコがぁああ!」
「ぎゃぁあああああああああああああああ」
「掴まえたからな。もう逃がさねぇぞ」

 低くドスの効いた声音が、清涼な空気を叩き切るように辺りに響き渡った。
 何のことはない。この距離でもパトライトの赤い点滅灯と街灯に照らされてよくわかる。武見が全身で押しつぶす格好で何かを組み伏せている。

「おい諏佐!」

 鋭く。それははっきりと天音の耳に届いた。

「拘束具借りてきてくれ。だからいいんだよな」

 武見が今まで見たこともないようなを向けている。

 水も滴るなんとやら、とは大きな語弊があるだろうが――、武見の横顔からは、水とも鮮血とも区別がつかない液体が汗のように滴り落ちていた。
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