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第一話
くわばら、くわばら。
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頭が痛い。
どうしてこんなことに。
げっそりと目の下にクマを作り、報告書を読み終えたばかりの弥上は目元をもみほぐすと、ぶつぶつと呟きながらその束を勢いよく机の上に投げた。
「っ」
びくん、と反応したのは天音の方で、隣に立ち、欠伸を一つしている武見はどこ吹く風である。
図体と態度ばかりでかい黒髪の男は、こめかみあたりをガラスで切ったらしく、鳥の巣のような頭に包帯が巻かれている。
そっぽを向き、我関せずを決め込もうとする姿に、傍らに立つ天音は気が気ではない。
弥上の、静かなる怒りのオーラがビシビシと体にあたるのだ。雷雲のように張り詰めた空気が、部屋の隅々まで充満している。
課に到着するや否や、武見は瀬津に耳をひっつかまれてどこぞに連れて行かれた。その姿を合掌して見送った後、超高速で事案の顛末を報告書に書き上げ、恐る恐る弥上に提出に行った。
その天音に、弥上は目を薄く開き、薄い笑顔で留まるように声をかけた。
直前まで扉の向こうにいたはずの三ノ海はいつの間にか消え、瀬津の姿もない。
薄暗く、わずかに電灯が灯る地域怪異相談課の室内は、いつにも増して冷え冷えと閑散としていた。
「さて……諏佐くん」
「はいっ!」
入局して間もない頃、共感や先輩たちに鬼の如くみっちり絞られた教育期間の訓練を思い出すほどの緊張感である。
なお、天音も当然無傷ではなく、武見ほどのケガはないものの体のあちこちにばんそうこうを貼っている。擦り傷や切り傷程度の小傷だが、鼻の頭や頬にもぺったりと負傷の印がある。
「こういうことにならないように、手綱として君を武見につけたのですがねぇ」
「え? どういうことですか?」
天音は混乱した。普通は逆ではないだろうかと目を丸くする。
「えっと……その。武見さんは同僚ですが課の先輩で、勤続年数は――」
「武見はかれこれ十一年、この仕事に就いている。ちなみに干支はイノシシだ」
「あー、えーっと……猪突猛進の……」
星占いや血液型占いを信じるほど乙女ではないが、干支的な性質は若干あるのではないかと、この一ヵ月。いや今日一日の数時間で天音は思い知らされた。
「君は、午年だったな」
「あ、はい。ええっと、確かそうだったかと」
一体何の話なのか。けれど迂闊に反論して地雷を踏めば、今度はこちらに雷が落ちることは確実だと直感する。触らぬ弥上に何とやら。ここは上司の話を黙って聞いておくのが最善である。
「勤続年数やら干支は関係ないと思うんですがね」
頭の後ろで両手を組んで、反省の色すら見せない武見を天音は心の中で呪う。
「ほぉ」
「それに、係長。現行犯ですよ。現行犯。アイツ、自分は何も悪くないとか言いながら逃走しようとしやがって」
「それで?」
「それでって。あと数メートルずれてたら、俺もこいつもまとめてお陀仏だったのに、正気でいろっていう方がおかしくないですか?」
天音は凍り付いた薄ら笑いのまま、唇をキュッと噛んでおいた。
「――お前はどうしていつもそうなんだ! 新人がいれば、ブレーキがかかって無茶をしないと踏んでいたのに」
大声とは無縁だと思われた弥上の雷が、突然落ちる。
室内の空気がビリビリと震え、頭上の蛍光灯がチカチカと明滅する。髪の毛が逆立つのを感じ、ふと弥上のデスクのパソコン画面に目を向ければ、淡く静電気を帯びたように縁取りが光っていた気がする。
「道隆さん。ちょっと待ってくださいよ。車が突っ込んできたのは俺のせいじゃない。それに逃げるやつを捕まえるのは当たり前でしょう」
さも当然。正論とばかり武見が一言。
――真実だが、もう少し言いようがあるだろうと、天音は心の中で悲鳴を上げる。
ぶつん、と上司のパソコン画面が突然ブラックアウトした。
「それでは武見くんは、犯人を暴力よろしく、現行犯だからとボコボコに殴って捕縛してもいいとでも?」
「時と場合によりますが、今回は相手も逃げようと俺に殴りかかろうとしてきたので、正当防衛。……だと判断しました。なぁ、諏佐。お前も見てたよな?」
な、と念を押されるように覗き込まれ、天音はプチンと、これまで堪えていたものが自分の中で弾き切れる音を聞いた。
「こっちに矢を向けないでくださいませんか!? 第一、武見さんが独断専行で相談もなく勝手に動くからこんなことになったんですよ。それにあの状態じゃ、相手が殴りかかろうとしてきたなんて、見えな――」
「正当防衛だ。殴られる前に、殴る」
「それじゃ、ただのタチの悪い当たり屋じゃないですか! そのうち、殺られる前に殺るとか言いかねないですよ!」
「犯罪の芽は早めに潰すに限ると、お前は思わないのか?」
「犯罪を未然に防ぐことは重要ですが、これとそれとは話が別ですー!!」
「ほぉ」
冷水のような声音だった。
天音はその声に、ハッと我に返り顔を強張らせる。
しまった、これはまずい。
独断専行。
相談もなく勝手に、という言葉が完全に自分にブーメラン状態である。
今ならわかる。
あの時自分が、どんなに危険なことをしでかしていたのか。
だが今は、過去の自分の失態を振り返る暇はない。
一刻も早く、この場から退避しなければ――。
天音はそう直感し、ゆっくり、できるだけ気取られないように後退ろうとした、が。逃げるには遅すぎた。相手が非常に悪かった。
「諏佐くんも、そう思うのかね?」
「は、はい!! あ、いえ!! えっと、犯人はボコボコに半殺しに――じゃなくて、異局のルールに則って捕縛するのが最善だと」
「通常は、普通は、真っ当な人間の場合は、そう思うよね? ね?」
逃げ場は、最初から存在しなかった。
武見と天音はその後、弥上に一時間半こってりと絞られ、陽が昇りきるまでに、正式な報告書を二人で協力して作成するよう厳命された。
その鈍器並みの報告書が仕上がるころには、夜はすっかり明けていた。
白み始めた薄青の空が、皮肉なほど清々しい。
提出すべきものをすべて出し終えた頃には、武見に嫌味を言う気力すら残っていなかった。
むしろ、あれだけ書類仕事を嫌がって逃げ続けていたはずの武見が、尋常ではない速度で、しかもほとんどミスなく仕上げていたことに、軽い殺意を覚えたくらいだろうか。
その黒い大きな塊は、デスク横の床の上で死んだように転がっている。とりあえず、外に出れば厄介ごとを引き連れてくる種類の人間なのだと察した天音は、数か月外に出ないでほしいと切実に願った。
身だしなみもくそもない、ぼさぼさの頭を、薄く開けた窓から入り込む朝の冷気がざっと攫って行く。
少しずつ明るくなっていく空の色に目を細め、天音は疲れた体を引きづって、バルコニーへ足を向けた。
この場所は、本当に眺めだけは最高だ。
朝陽に照らされていく街を見下ろし、天音は眠気を振り払うよう大きく背伸びをし、爽快な笑顔を天に向け、頷いた。
――独断専行。ダメ。絶対。
固く、そう心に誓った。
なお、諸々警察側の調書に協力する必要があるため、諏佐天音の公休日は、呆気なく消えた。
どうしてこんなことに。
げっそりと目の下にクマを作り、報告書を読み終えたばかりの弥上は目元をもみほぐすと、ぶつぶつと呟きながらその束を勢いよく机の上に投げた。
「っ」
びくん、と反応したのは天音の方で、隣に立ち、欠伸を一つしている武見はどこ吹く風である。
図体と態度ばかりでかい黒髪の男は、こめかみあたりをガラスで切ったらしく、鳥の巣のような頭に包帯が巻かれている。
そっぽを向き、我関せずを決め込もうとする姿に、傍らに立つ天音は気が気ではない。
弥上の、静かなる怒りのオーラがビシビシと体にあたるのだ。雷雲のように張り詰めた空気が、部屋の隅々まで充満している。
課に到着するや否や、武見は瀬津に耳をひっつかまれてどこぞに連れて行かれた。その姿を合掌して見送った後、超高速で事案の顛末を報告書に書き上げ、恐る恐る弥上に提出に行った。
その天音に、弥上は目を薄く開き、薄い笑顔で留まるように声をかけた。
直前まで扉の向こうにいたはずの三ノ海はいつの間にか消え、瀬津の姿もない。
薄暗く、わずかに電灯が灯る地域怪異相談課の室内は、いつにも増して冷え冷えと閑散としていた。
「さて……諏佐くん」
「はいっ!」
入局して間もない頃、共感や先輩たちに鬼の如くみっちり絞られた教育期間の訓練を思い出すほどの緊張感である。
なお、天音も当然無傷ではなく、武見ほどのケガはないものの体のあちこちにばんそうこうを貼っている。擦り傷や切り傷程度の小傷だが、鼻の頭や頬にもぺったりと負傷の印がある。
「こういうことにならないように、手綱として君を武見につけたのですがねぇ」
「え? どういうことですか?」
天音は混乱した。普通は逆ではないだろうかと目を丸くする。
「えっと……その。武見さんは同僚ですが課の先輩で、勤続年数は――」
「武見はかれこれ十一年、この仕事に就いている。ちなみに干支はイノシシだ」
「あー、えーっと……猪突猛進の……」
星占いや血液型占いを信じるほど乙女ではないが、干支的な性質は若干あるのではないかと、この一ヵ月。いや今日一日の数時間で天音は思い知らされた。
「君は、午年だったな」
「あ、はい。ええっと、確かそうだったかと」
一体何の話なのか。けれど迂闊に反論して地雷を踏めば、今度はこちらに雷が落ちることは確実だと直感する。触らぬ弥上に何とやら。ここは上司の話を黙って聞いておくのが最善である。
「勤続年数やら干支は関係ないと思うんですがね」
頭の後ろで両手を組んで、反省の色すら見せない武見を天音は心の中で呪う。
「ほぉ」
「それに、係長。現行犯ですよ。現行犯。アイツ、自分は何も悪くないとか言いながら逃走しようとしやがって」
「それで?」
「それでって。あと数メートルずれてたら、俺もこいつもまとめてお陀仏だったのに、正気でいろっていう方がおかしくないですか?」
天音は凍り付いた薄ら笑いのまま、唇をキュッと噛んでおいた。
「――お前はどうしていつもそうなんだ! 新人がいれば、ブレーキがかかって無茶をしないと踏んでいたのに」
大声とは無縁だと思われた弥上の雷が、突然落ちる。
室内の空気がビリビリと震え、頭上の蛍光灯がチカチカと明滅する。髪の毛が逆立つのを感じ、ふと弥上のデスクのパソコン画面に目を向ければ、淡く静電気を帯びたように縁取りが光っていた気がする。
「道隆さん。ちょっと待ってくださいよ。車が突っ込んできたのは俺のせいじゃない。それに逃げるやつを捕まえるのは当たり前でしょう」
さも当然。正論とばかり武見が一言。
――真実だが、もう少し言いようがあるだろうと、天音は心の中で悲鳴を上げる。
ぶつん、と上司のパソコン画面が突然ブラックアウトした。
「それでは武見くんは、犯人を暴力よろしく、現行犯だからとボコボコに殴って捕縛してもいいとでも?」
「時と場合によりますが、今回は相手も逃げようと俺に殴りかかろうとしてきたので、正当防衛。……だと判断しました。なぁ、諏佐。お前も見てたよな?」
な、と念を押されるように覗き込まれ、天音はプチンと、これまで堪えていたものが自分の中で弾き切れる音を聞いた。
「こっちに矢を向けないでくださいませんか!? 第一、武見さんが独断専行で相談もなく勝手に動くからこんなことになったんですよ。それにあの状態じゃ、相手が殴りかかろうとしてきたなんて、見えな――」
「正当防衛だ。殴られる前に、殴る」
「それじゃ、ただのタチの悪い当たり屋じゃないですか! そのうち、殺られる前に殺るとか言いかねないですよ!」
「犯罪の芽は早めに潰すに限ると、お前は思わないのか?」
「犯罪を未然に防ぐことは重要ですが、これとそれとは話が別ですー!!」
「ほぉ」
冷水のような声音だった。
天音はその声に、ハッと我に返り顔を強張らせる。
しまった、これはまずい。
独断専行。
相談もなく勝手に、という言葉が完全に自分にブーメラン状態である。
今ならわかる。
あの時自分が、どんなに危険なことをしでかしていたのか。
だが今は、過去の自分の失態を振り返る暇はない。
一刻も早く、この場から退避しなければ――。
天音はそう直感し、ゆっくり、できるだけ気取られないように後退ろうとした、が。逃げるには遅すぎた。相手が非常に悪かった。
「諏佐くんも、そう思うのかね?」
「は、はい!! あ、いえ!! えっと、犯人はボコボコに半殺しに――じゃなくて、異局のルールに則って捕縛するのが最善だと」
「通常は、普通は、真っ当な人間の場合は、そう思うよね? ね?」
逃げ場は、最初から存在しなかった。
武見と天音はその後、弥上に一時間半こってりと絞られ、陽が昇りきるまでに、正式な報告書を二人で協力して作成するよう厳命された。
その鈍器並みの報告書が仕上がるころには、夜はすっかり明けていた。
白み始めた薄青の空が、皮肉なほど清々しい。
提出すべきものをすべて出し終えた頃には、武見に嫌味を言う気力すら残っていなかった。
むしろ、あれだけ書類仕事を嫌がって逃げ続けていたはずの武見が、尋常ではない速度で、しかもほとんどミスなく仕上げていたことに、軽い殺意を覚えたくらいだろうか。
その黒い大きな塊は、デスク横の床の上で死んだように転がっている。とりあえず、外に出れば厄介ごとを引き連れてくる種類の人間なのだと察した天音は、数か月外に出ないでほしいと切実に願った。
身だしなみもくそもない、ぼさぼさの頭を、薄く開けた窓から入り込む朝の冷気がざっと攫って行く。
少しずつ明るくなっていく空の色に目を細め、天音は疲れた体を引きづって、バルコニーへ足を向けた。
この場所は、本当に眺めだけは最高だ。
朝陽に照らされていく街を見下ろし、天音は眠気を振り払うよう大きく背伸びをし、爽快な笑顔を天に向け、頷いた。
――独断専行。ダメ。絶対。
固く、そう心に誓った。
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