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本章

19

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翌朝のクリスマス兼終業式当日、普段よりずっと早くに家を出た。最寄駅に着いて改札を通り抜け、電光掲示板を見る。ちょうど後2分で電車が来る。ゆっくりとホームへ続く階段を登ると、ホームへ着いたのと同時に、電車の到着を知らせるメロディーが構内に流れた。

いつもとは逆方面の電車に乗り込む。転校前の高校に通っていた時によく見ていた景色だ。なんだかひどく懐かしい。お気に入りの音楽を聴きながら久しぶりの景色をぼんやりと眺めていると、あっという間に目的地に着いた。

昨日もらったばかりのリングをはめた中指を、もう片方の手で包み込むようにしながらゆっくり歩いていく。入口を通り過ぎると、ふわっと潮の香りがした。

「おはようございます」

早朝のランニングの途中に寄ったのか、ランニングウェアを着た若い女性の人から笑顔で声をかけられる。

「おはようございます」
「……お散歩ですか?」

彼女は私の姿を見て、ほんの少しだけ、爽やかな笑顔に曇りをみせた。よく考えると当たり前だ。こんな早朝に制服姿の女の子が一人、絶壁を訪れるのは珍しいだろう。余程のことがあるのか、と思われたのかもしれない。例えば、5ヶ月前、私が九重壁を訪れたような理由とか。

「はい。近所に住んでいて、今日は早くに目が覚めたので学校前に散歩しに来ました」

少しだけ嘘をついた。散歩、というよりは、自分の気持ちの整理のためにやってきた。
でもいいだろう。きっとこの女性の心配を取り除く方が大切だ。それに早とちりされて警察なんて呼ばれたらたまったもんじゃない。

精一杯穏やかな笑みをみせた私に、彼女はほんの少しの戸惑いを含めながら「そう、ですか」と笑みを返してくれた。

「今日の九重壁、とても綺麗でしたよ。でも風が強いので気をつけてくださいね」

彼女は最後に優しい気遣いの言葉を私に残し、「それでは」とゆっくり走り出した。


彼女の言葉通り、今日の九重壁は息をのむほど素晴らしかった。冬の澄み切った青空の下をそのままうつした太平洋は、冬にしては珍しいほど穏やかで、朝日を浴びて宝石を散りばめたように輝いている。目を瞑って、朝日を全身に浴びるように天を仰ぎながら両手を上げる。少しだけ開いた目には、感動してしまうほど鮮やかな青空がうつった。


5ヶ月、かかった。
決心をするまで、5ヶ月、かかった。


あの世界から帰ってきた日、私はこの世界を捨てて、あちらの世界へ戻りたいと鈴木さんに願った。

あの時は、その決断に後悔しないと思っていた。
だって、会いたかった。どうしても会いたかった。そばにいたかった。いつでもそばにいて欲しかった。

「会いに来る」真剣な目で約束をしてくれた彼に。

でも。

そっと、リングに触れる。

あの時決めていたら、きっと鈴木さんが言うように、後悔していたかもしれない。
これからも続いていく自分の未来を、そう簡単に決めていいものではなかったはずだから。
けれど、きっとこれだけ考え抜いて決めたのなら、私はこの決断に後悔はしないだろう。
あちらの世界へ行って、苦しいことがあっても、たとえ高橋くんに会えなくても、それでもきっと今の自分の決断を受け止められる。


「決めたんですね」


急に背後からかけられた声に、私は驚いて振り向く。そこには予想もしていない人物が立っていたから、なおさら私は驚いてしまった。

「鈴木、さん……」

「お元気でしたか?」

鈴木さんは、驚く私とは正反対に、記憶の中にあるものと全く同じの穏やかな笑みを浮かべた。
何も言えない私に、彼は「泉本さん」と真っ直ぐ私を見つめてから、ふわりともう一度微笑んだ。

「僕の仕事は、違う世界に住む住民を交流させて、より良い世界を作ることです。でも、それとは別に、仕事を行う上で、僕個人が大切にしていることがあります」

鈴木さんはカバンの中から一枚の紙を取り出す。

「勇気を持って世界交流体験に参加した人には、できることなら全員がとびっきり幸せな人生を送ってほしい。特に、自分がどうなりたいか、5ヶ月もかけて悩み、決断した人には」

目が合うと、鈴木さんはにっこり微笑んだ。

「泉本さん、今日は誰の誕生日か知っていますか?」

彼は、先ほど自分のカバンの中から取り出したメモを、私に手渡した。
そのメモには、見覚えのある住所が書かれていた。

「この住所……私の通っている高校のものですよね……?」

どうしてこんなメモを渡されたのか分からず、首を傾げる。

怪訝な表情をする私とは異なり、鈴木さんは穏やかにゆっくりと頷いた。

「僕からのクリスマスプレゼントです。もしその場所で、泉本さんにとって大切な誰かに会えたら、その人に伝えてください。『お誕生日おめでとう』と」

「それって……」

知っている。誰の誕生日か。

クリスマスに生まれたから、甘いものが好きなのかな。
そう柔らかく温かく笑う、私にとって特別な人の誕生日。
自己嫌悪に陥った時に、辛い時はそばにいると、優しく寄り添ってくれた人。
「会いに来る」「忘れない」力強く約束してくれた、大好きな人の、誕生日。


「うそ……そんなこと……」

力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまう。

「会えるんですか……彼に」

鈴木さんは私の質問には答えず、私と視線をあわせるように腰を下ろした。

「泉本さん。あなたは、自分を育ててくれた両親と、自分が想う大切な人、みんなと幸せになってください」

鈴木さんは今まで見せてくれた中でもとびっきり優しい笑顔を最後に見せてくれると、私に背を向けて歩き出した。

しっかりお礼を伝えたいのに、込み上げてくる熱い何かでうまく声がだせない。

「泉本さん!」

ぼやける視界の中で、鈴木さんが微笑むのがわかった。

「頑張れ!」

いつの日か彼がくれた「生きてくださいね」あの声が、もう一度頭の中に響いた。


全速力で駅に戻り、学校へ向かう。九重壁に寄ってからの登校だけど、かなり早くに家を出たからか、校門から校舎へ続くまでの道に、生徒はまだほとんどいない。今になって、この高校のどこに彼がいるのか、いつ来るのか、肝心なことを聞いていなかったことを思い出した。

さすがにこんなに朝早くにはまだいないか。そもそもどうしてここで会えるんだろう。ここで会えるどころか、どうしてこの世界に彼がいるのだろう。……彼も、世界交流体験をしに来た?それでこの高校に通うことになった?そんな都合のいいこと起こりうるのだろうか?

とりあえず一旦教室に荷物を置いて落ち着こう。少しだけ心に余裕ができたら、本当はすごく疲れていることに気がついた。教室へ着いたらゆっくりお茶でも飲もう。それから彼を探そう。

はあ、と大きく息を吐きながら階段を登りはじめた時、

「この演奏……」

どこからとなく聞こえてきたピアノの音色に、ハッとする。

知っている。この演奏を、知っている。

ノクターン、第二番。
ショパンが残した楽譜よりも、ゆっくりめのテンポ。強弱が緩やか。楽譜にはないところで少しだけ力強く音が発せられる。

階段を駆け上る。

ありえない。
でも、この演奏をできるのは、私以外に一人しかいない。

私自身の癖が反映された演奏を、ここまで忠実に再現できる人は、一人しかいない。

音楽室のドアを勢いよくあける。
あまりの大きな音に、少し離れた場所にいた一人の生徒が勢いよく振り返る。

けれど、ピアノを弾いている本人はこちらをみない。

「嘘……」

こんなこと、起きるはずがないと思っていた。
むしろ、起きる可能性すら考えたことがなかった。

演奏を終えた彼の肩を叩くと、誰もいないと思っていたのか、彼は振り返る前に慌てふためき、椅子から転げ落ちそうになった。
その姿に、彼と出会った日を思い出す。じわりと視界がぼやけた。

「高橋くん……」

名前を呟いてから、相手は私のことはわからないのだと気づいた。私があちらの世界を去ったと同時に、彼の頭の中から私の存在は消えているはずで。
名乗らなければ、と彼を見つめると、彼は私よりもずっと大きく目を見開いた。

『いずもと、さん?』

確かに彼の口はそう動いたはずで。

「どうして……」

どうして、私のことを覚えているの。
どうして、ここにいるの。

驚きのあまり、お互いに見つめたまま固まり合う。それはすごい長い時間のように思えた。
そんな静止した時間を解いたのは、高橋くんだった。彼はピアノのそばに置いていたスマートフォンを手に取ると、文字を打ち込む。

テキストでのやりとりが懐かしく、胸がいっぱいになる。

【もしかして、泉本さんも世界交流、していたの?】

彼の質問を見て、ようやく働かない頭でも状況を理解し始めた。

世界交流体験では、被験者は、別の世界での記憶を忘れない。
彼には私の記憶があって、私にも彼の記憶があるということは。

【高橋くんも、世界交流であっちの世界へ行っていたの?】

私の言葉に、高橋くんは深く頷く。
彼の言葉を見て、また涙が溢れ出る。

もう二度と会えないかもしれないと思っていた。
でも、彼はここにいる。彼は、この世界にいる。

彼の存在を確かめるように、彼の長く綺麗な指を掴む。すると高橋くんは、ギュッと私を抱きしめてくれた。

「泉本さん」

ささやくような、小さな声。不明瞭で弱々しい声。
それでも、今まで生きてきて、間違いなく一番と言えるほど嬉しかった。大好きな彼に、名前を呼んでもらえたことが。初めて彼の声を聞くことができた。

【俺、後悔していたことがある。泉本さんにあったらすぐに伝えたいと思っていたことがある】

高橋くんは抱きしめていた腕を緩めると、優しい目で私を見つめた。

「泉本さんが、好きです」

たどたどしい言葉。それでも十分すぎるほど気持ちは伝わった。だって、話すことをやめた彼が、”声”で伝えてくれたのだから。

「ありがとう……」

また涙が溢れる。彼は「もう、いつまで泣くの」と言いたそうに苦笑したけれど、彼の目にもうっすらと涙の膜が張っている。
私の涙が止まるまで高橋くんは隣で背中をさすってくれた。

高橋くんが自販機で買って来てくれたお水を飲み、やっと落ち着くと、私たちは新たに連絡先を交換した。

【それで……ここにいるということは、この学校に通っていたの?】

私が在校生となって4ヶ月。4ヶ月もあれば、クラスが違うといえど、廊下などですれ違いそうなものだ。

【ううん、実は3学期から転入するんだ。今までは聾学校に通ってた】

【そうなんだったんだ……。どうして転校することにしたの?】

【音がたくさんある生活も悪くないかな、って。あちらの世界で、泉本さんや石川さんがたくさん話しかけてくれて、やっと深い海の底から陸に上がれたような気がした。だからこれからもそんな生活ができたらいいな、って】

あちらの世界で、彼がいる”音のない世界”はどんな世界なのかを尋ねた時。【深い海の底にいる感じかな】と答えたことは思い出した。

【でも実は俺、もう少ししたらあちらの世界へ行くつもりだったんだよ。泉本さんに会いに】

【私に?】

【うん。前、約束したでしょ。”泉本さんが辛い時は一緒にいる”って。泉本さんが頼ってくれるかはわからないけれど、泉本さんが頼りたいと思った時に、そばにいたかったから】

【でも、】と彼は続ける。

【またあえてよかった。向こうの世界に戻っても、また泉本さんと会える保証はなかったから。だからあえて本当によかった】

音楽室に差し込んだ夕陽の光が、私たちを照らす。あまりの綺麗さに目を細めていると、

「泉本さん」

オレンジ色に照らされた彼が、私の名前を呼ぶ。彼はとても真剣な目で私を見つめた。

「俺と、付き合ってくれませんか」
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