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本章

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彼と再会して二ヶ月ほどたってから、私たちは初めて一緒に九重壁を訪れた。残念ながら今日は曇りで、海の色は、灰色の絵の具が大量に流し込まれたような、かなりくすんだ青色だ。本当はもっと綺麗なのに。少し残念に思った私とは反対に、
『綺麗だね、海の匂いがする』
高橋くんは笑顔で大きく息を吸い込んだ。

『ここで鈴木さんに声をかけてもらったんだよ』

これであっていたかな、と迷いながら手と指を動かす。彼と再会して勉強し始めた手話は、なかなか難しい。簡単な挨拶や単語は覚えられたけれど、言いたいことを言えない時はまだまだある。それでも高橋くんは『そうなんだ』と答えてくれたから、きっと今の言葉は伝わったのだろう。

彼と再会して驚いたことはたくさんあった。
元々、こちらの世界でも電車で30分ほどの、比較的近い場所に住んでいたこと。高橋くんも鈴木さんに声をかけられて世界交流体験をしたこと。あちらの世界では私と同様、高橋くんも時々鈴木さんとコミュニケーションをとっていたこと。ちなみに、「高校生が寮に入らず一人暮らしをしているケースはあまりないので、変に怪しまれないように、両親が外国に住んでいる設定にしましょう」と提案したのは、鈴木さんだったらしい。

『私もね、本当はあちらの世界へ戻るつもりだったんだ。でも、鈴木さんに止められたの。”よく考えて”って』

白い鳥たちが、優雅に海の上を飛んでいく。どんどん小さくなっていくその姿は、まるで未来へ羽ばたいて行ったように見えた。

『鈴木さんは知っていたのかな。俺たちが、元の世界で出会うこと』

『どうだろう。もしかしたら知っていたのかもしれないね。私たちのこと、よくみてくれていただろうから』

飛び降りようとした私を止めてくれた鈴木さん。
あちらの世界でも、こちらの世界でも、いつでも見守ってくれていた鈴木さん。
幸せになってほしいと笑顔で願ってくれた鈴木さん。

もう一度会いたいな。いつか会えたら、もう一度感謝を伝えたい。

鈴木さんが声をかけてくれた場所まで歩いていく。

もしかしたらこの先、あの時とおなじように、また生きることに絶望する日がやってくるかもしれない。それでも二度と、この崖から飛び降りようとは思わないだろう。

後からゆっくりとやって来た彼が隣に並ぶ。手を繋ぎ、指先に力を込めると、高橋くんは『どうしたの』とかすかに首を傾げる。「何もない」と首を振ると、彼はドキッとするほど穏やかで優しい笑みを見せた。その笑みを見て、強く願う。

この先も、きみの隣にいたい。
この先も、きみの笑顔を見ていたい。

だから、これからも私は生きていく。
きみと一緒にいたいから、生きていく。

きみがいる、この世界で。
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