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『ゲドガキのバケモン』①「一人前になったら食わすで」
夜更けになっても、丑松は泣き止まない。
丑松は数えで五つだ。
玉之浦中須の農家の古びた家屋では、囲炉裏の火が弱々しく揺れている。土間の隅には鍬と草刈り鎌が立てかけられ、お勝手には干し魚の匂いがかすかに漂う。
丑松がまだ赤ん坊のうちに母親は亡くなっており、この家には父と子の二人きりだ。
「まだ泣くか」
父親は眠そうな顔で、むしろを敷いた寝床から身を起こした。丑松は鼻水をすすりながら、なお声を張り上げる。
「うるさいのう、子は疲れる。そんなに泣くと、ゲドガキのバケモンに食わすぞ」
すると、戸の向こうから、腹に響くような太い声がした。
「そんなら俺に喰わせろ」
不思議なことに丑松の泣き声が止まった。
父親はゾッとして、両腕がワナワナと震えだした。
「だ、誰じゃ」
返事は無い。
父親はしばらく戸を見つめ、それからしわがれた声をふりしぼった。
「こ、これはまだ小さい。今は待て、い、一丁前の大人になったら食わすで...」
外から、低い笑い声が轟いた。
幼い丑松は父親の着物をつかむ。父親は子の手を振りほどきはしなかったが、恐ろしさに駆られて抱きしめるゆとりは無い。
翌朝になると、父親は夜更けの事をもう忘れたのか、妙に機嫌よく飯を食う。
麦の混じった玄米と、沢庵、菜っ葉の汁。
丑松は椀を抱えたまま、じっと父親を見る。
「父ちゃん、俺を食わせると言うたな」
「知らんな。夜中じゃったから、聞き違えたんじゃろ」
「外から声がしたぞ」
「狸か何かじゃ」
「狸が喋るんか」
父親は丑松から目を逸らし、天井の方を見つめ、少し考えた。
「古い狸なら喋るかもしれん」
それ以上は何を聞いても、父親は飯をかき込むばかりだった。
それから何年も過ぎた。
丑松は、肩幅のある丈夫な若者に育った。とはいえ性根はのんびりしていておおらかで、畑仕事の途中に木陰で横になり陽が傾き出してから目が覚めたり、頼まれた用事も二つ三つ重なると一つ以外は忘れたりした。
「丑松、お前ももう一丁前の男じゃな」
近頃よく近所の大人たちに言われる。
そう言われた時には、昔の夜のことがふっと浮かぶ。
『一丁前の大人になったら食わすで...』
晴れた空、畑の向こうでは女たちがお喋りをしながら洗った布を干し、道端では鶏がバタバタしている。
「まあ、あんなのは昔の話じゃ」
そうつぶやいて、丑松は鍬を振るった。
それでも気にはなる。
ある日、村外れに住む古老を訪ねた。
「ゲドガキのバケモンを退治する方法、知らんか?」
囲炉裏端で縄をなっていた老人は、顔も上げずに答えた。
「知らんのぉ」
「知らんか」
「見たこともないもの。退治など知らんがな」
「爺さまは言い伝えや魔物に詳しいと聞いたぞ」
「詳しいからと、何でも知っとるわけでもないわな」
しばらくして老人は手を止めた。
「そういや昔、バケモンに襲われて、酒のおかげで命を拾った者がおったそうな」
「飲ませたんか?」
「細かいことは聞いとらん」
「ぶっかけた?」
「知らんがな」
丑松は肩を落とし、ため息をついた。
「役に立たんのう」
「昔話なんぞ、大雑把なことしか伝わらんじゃろ」
帰り道、畑の脇で幼馴染のお澄に呼び止められた。
お澄は、ちょっと前までは子供子供していたのに、いつの間にか落ち着いた娘に成長していた。
「丑松さん、また畑で寝とったでしょ」
「寝とらん。考え事じゃ」
「いびきまでかいて?」
「深く深く考えとったら、ちょっと眠くなった」
お澄が笑う。丑松も笑った。
その夕方、丑松は荷を背負い家路を歩いていた。
海からの風が山あいに入り、ネコジャラシやススキの穂を揺らしている。西の空はまだ赤いが、谷あいの道はもう薄暗くなり始めていた。
「暗くなる前に帰れと言われとったなあ」
丑松は、そうつぶやきながら歩く。そして二本楠と荒川との間にあるゲドガキという場に至った。
道が急に細くなり、山腹を削ったような坂道がかろうじて繋がっている。
片側には土が崩れて赤茶けた岩肌がのぞき、反対側は崖になって木や藪の生い茂った谷が連なる。
道の上には椎や樫の枝が覆いかぶさっている。
まだ西の空には夕陽が残っているのに、ゲドガキの道だけはひと足先に夜が来たように薄暗かった。
藪がザワザワと鳴った。
振り返るが、何もいない。
「猪か?」
再び歩き出した時、すぐ後ろから太い割れ鐘のような声が響いた。
「命をもらう。お前の父との取り決めじゃ」
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