となりの黒い瞳

風見楽奈

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距離の変化

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土曜日の午後、約束通り黒川さんの部屋を訪れた。

インターホンを押す指が、なぜか震えている。ただのお茶なのに、どうしてこんなに緊張しているんだろう。

「いらっしゃい。どうぞ」

ドアを開けた黒川さんは、休日らしくカジュアルな格好をしていた。黒いTシャツにグレーのスウェット。それでも、どこか品のある雰囲気は変わらない。

初めて入る隣の部屋は、思った以上に洗練されていた。シンプルだけど、一つ一つの家具にこだわりを感じる。そして、部屋全体に漂う甘い香り。アロマディフューザーから立ち上る香りが、私の緊張を和らげていく。

「素敵な部屋ですね」

「ありがとうございます。紅茶でいいですか?」

「はい、お願いします」

黒川さんがキッチンに立つ間、私はリビングを見回した。本棚には心理学や哲学の本が並んでいる。その中に、催眠術に関する本も見えた。

「藤原さんは紅茶はお好きですか?」

「普通に飲みますよ」

「これ、この前デパートで見つけたんです。香りがいいでしょう?」

確かに、部屋中にいい香りが広がっていく。ベルガモットの爽やかな香りの中に、どこか官能的な甘さが混じっている。深く吸い込むと、頭がふわっと軽くなるような感覚。

「本当ですね。いい香り」

「リラックス効果があるんですよ。疲れた心を癒してくれる」

黒川さんがソファに座って、私の向かいに腰を下ろした。思ったより近い距離。膝と膝が触れそうなくらい。でも、不思議と不快ではない。むしろ、この距離感が心地よく感じる。

「藤原さんは、彼氏さんとはどれくらい付き合ってるんですか?」

「3年くらいです。同棲を始めて1年ですね」

「そうですか。仲がいいんですね」

「まあ、最近は仕事が忙しくて、あまり会えないんですけど」

つい愚痴っぽくなってしまった。でも、黒川さんの前では、なぜか本音が出てしまう。

「それは寂しいですね」

黒川さんの言葉に、胸が少し痛んだ。図星だったから。その瞳が私を見つめている。深い理解と共感を込めた眼差し。

「でも、仕方ないです。政宗も頑張ってるから」

「藤原さんは優しいんですね。でも、我慢ばかりしていると疲れちゃいますよ」

その言葉に、なぜか涙が出そうになった。最近、誰にも言えなかった気持ちを見透かされたような気がして。政宗には言えない本音。友達にも相談できない寂しさ。

「時には、自分の気持ちを大切にすることも必要です」

黒川さんが身を乗り出して、私の手に自分の手を重ねた。大きくて温かい手。その温もりが、じんわりと伝わってくる。

「すみません、余計なことを言って」

「いえ、大丈夫です」

手を離されて、なぜか物足りなさを感じた。もう少し、あの温もりを感じていたかった。

紅茶を飲んで、気持ちを落ち着ける。甘い香りが喉を通り、体の中に広がっていく。不思議と心が軽くなっていく。

「そういえば、この前宅配便が来てたみたいですよ。不在票が入ってました」

「あ、本当ですか?」

「はい。もし受け取れない時は、私が預かりますよ。隣人同士、そういう時こそ助け合わないと」

また、あの言葉。でも今は、その言葉がとても心地よく響いた。

「当然のことです。困った時に頼り合える、それが正しい隣人関係ですから」

正しい隣人関係。その言葉を聞くたびに、心の中で何かが変わっていく気がする。

「ありがとうございます。助かります」

「一人で抱え込まないで、困った時は頼ってください。それが隣人として正しい在り方です」

黒川さんの目を見ていると、なんだか引き込まれそうになる。深い漆黒の瞳に、自分の意識が吸い込まれていくような感覚。慌てて視線を逸らした。

その後も他愛のない話をして、気がつけば2時間も経っていた。政宗とは最近、こんなにゆっくり話すこともない。

「あ、もうこんな時間」

「楽しい時間はあっという間ですね」

「本当に。じゃあ、そろそろ」

立ち上がろうとすると、少しふらついた。紅茶の香りのせいか、頭がぼんやりとしている。

「大丈夫ですか?」

黒川さんが支えてくれる。腕に回された手の感触に、ドキッとする。筋肉質な腕。男性的な力強さ。

「すみません、ちょっとぼーっとしちゃって」

「リラックスしすぎたかもしれませんね。また来てくださいね。いつでも歓迎です」

「はい、ありがとうございました」

ドアまで送ってもらって、自分の部屋に戻る。振り返ると、黒川さんがまだこちらを見ていた。その視線に、なぜか顔が熱くなる。

部屋に入ると、政宗からのメッセージが入っていた。

『今日も遅くなる。夕飯は外で食べるから大丈夫』

また一人か。ため息が出た。せっかくの週末なのに、また一人で過ごすことになる。

その時、ピンポーンとインターホンが鳴った。

「はい?」

『藤原さん、黒川です。さっき話してた宅配便、今来たみたいですよ』

「あ、すみません」

急いでドアを開けると、黒川さんが私の荷物を持って立っていた。

「預かっておきました」

「ありがとうございます。本当に助かります」

受け取る時、また手が触れた。今度は少し長く。その感触に、心臓が跳ねる。

「いえいえ。ところで、夕飯はもう済ませました?」

「いえ、まだです」

「よかったら、一緒に食べませんか?一人で食べるのも寂しいので」

政宗は外で食べると言っている。私も一人で食べることになる。断る理由が見つからない。それに、正直一人は寂しかった。

「でも、ご迷惑では」

「全然。むしろ嬉しいです。簡単なものしか作れませんが」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

なぜか、罪悪感よりも期待感の方が大きかった。

黒川さんの部屋に戻って、一緒にキッチンに立った。

「手伝います」

「ありがとうございます。じゃあ、野菜を切ってもらえますか?」

並んで料理をしていると、時々体が触れ合う。肩が、腕が、かすかに触れるたびに、電気が走るような感覚。なんだか懐かしい気持ちになった。政宗とは最近、こんなふうに一緒に料理をすることもない。

「藤原さんは料理が上手ですね」

「そんなことないです」

「いえ、包丁の使い方を見ればわかりますよ。手つきが丁寧で美しい」

「味見してもらえますか?」

黒川さんがスプーンを差し出す。口を開けると、優しく口元に運んでくれた。親密な行為。でも、嫌じゃない。むしろ、ドキドキする。

「美味しいです」

「よかった」

出来上がったパスタを食べながら、また色々な話をした。仕事のこと、趣味のこと、最近見た映画のこと。政宗とは話題が尽きてしまうことが多いけど、黒川さんとは話が尽きない。

「楽しかったです」

「こちらこそ。一人で食べるより、ずっと美味しく感じました」

「私も、久しぶりにこんなに楽しい食事でした」

つい、本音が出てしまった。

片付けも一緒にして、気がつけば夜の9時を過ぎていた。外は真っ暗で、部屋の中は二人だけの空間。

「遅くまですみません」

「いえ、本当に楽しかったです。また一緒に食事しましょう」

「はい」

「隣人同士、こうやって時間を共有するのも大切なことですから」

また、その言葉。でも今は、その言葉がすっと心に入ってくる。そう、これは隣人として当然のこと。

部屋に戻ると、政宗はまだ帰ってきていなかった。

シャワーを浴びながら、今日のことを思い返す。黒川さんといると、本当に楽しい。寂しさを忘れられる。それに、私のことを見てくれている。大切にしてくれている。

お湯が肌を流れていく。黒川さんの手の感触を思い出して、体が熱くなる。

「何考えてるの、私」

頭を振って、雑念を払う。黒川さんはただの隣人。親切な人なだけ。

でも、心のどこかで、明日も会えたらいいなと思っている自分がいた。そして、それは間違ったことじゃない。隣人同士の正しい関係なのだから。

ベッドに入ってスマホを見ると、黒川さんからメッセージが来ていた。

『今日はありがとうございました。楽しかったです。おやすみなさい』

なぜか、胸が温かくなった。政宗からのメッセージより、ずっと嬉しく感じてしまった。

『こちらこそ、ご馳走様でした。おやすみなさい』

返信をして、目を閉じる。

隣の部屋から、かすかに音楽が聞こえてきた。子守唄みたいな優しい音楽。その音に包まれて、私は深い眠りに落ちていった。

政宗が帰ってきた音にも気づかないくらい、安らかな眠りだった。

夢の中で、私は黒川さんと一緒にいた。それが、とても自然なことのように感じられた。

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