15 / 44
第2章 2
しおりを挟む
赤子は、一度も泣こうとしなかった。
空腹を訴えることも、排泄を催した際も、おくびの不快を示すために泣き声一つ上げることもなく、どういうわけか母だけが気配で察しそれらの世話をしていたが、他の者達には、ただ赤ん坊が始終ニコニコと微笑ましく笑みを浮かべているようにしか見えなかった。思い切って心を鬼にし、軽く平手で頬を張ってみた。すると一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、またケラケラと笑い出す。
下に年の離れた弟妹が三人いて、多少は子守を弁えている父は真っ先に我が子の異常に気づき蒼白になった。よく泣く子の方が余程健やかに育つというのは、腕白過ぎて手がつけられなかった末の弟を見てきているので知っている。しかし泣かずに笑うばかりとは。
直に医者を呼ぼうとする父を祖父がやめた。この先どこまで無事で行きるか分からぬものを下手に人目に晒すものではない。我が家の不栄誉となるかもしれぬではないか。
耳を疑う舅の言葉に父は目を剥いたが、祖父は有無を言わせなかった。
例の産婆は、あの夜以来、まるで物に憑かれたように人が変わった。
もともと寡黙だったものが、急に何か鬼気迫る様相となり、目玉ばかりをぎょろつかせ、集落の至るところを徘徊しては、誰彼構わずあの夜のことを吹聴して回った。
――長者の娘が蛇の子を産んだ。真っ白な肌に鱗を光らせ、赤い舌をちろちろさせながら娘の股から這い出てきた。
――これというのも長者の当主が、鎮守の祠を潰したからだ。祠に住まう姫神様の祟りを受けたに違いない。
――ああ恐ろしい。あの赤子は必ず、次の子を喰らうぞ。長者の家に生まれた次の子を、その次の次の子を、必ず喰らうことになるぞ。
村人たちは仰天した。老婆の繰り言の内容にではない。相手は近隣随一の名士。かつて天保飢饉の猛威の折、蔵の全てを開放し、家財の全てを投げ打って、自分らが食うに事欠くのも厭わず、救民の為に総てを捧げ、その功認められ時の領主より苗字帯刀の栄誉を賜ったという、村にとっての大恩人、同時に郷里の誇りである長者の家。それを謂われなく誹謗中傷するとは何事か。
無論、一番肝を潰したのは産婆の家族であった。ただでさえ日頃特に目をかけて頂き足向けて寝られぬような相手に、よりによって恩を仇で返す真似をするとは。おまけに、鎮守の祠と聞いても、既に村人皆、はてな? といった塩梅だが、そもそも合祀下令の際、いつものように胡麻を擦って、今に取り潰された跡地を御国に適当な名目で安く買い叩かれるのではないか、などと耳打ちしたのはこの家の主人なのだから。
程なく老婆は家の者たちに取り押さえられ納屋に監禁される運びとなったが、既に噂は村の端まで知れ渡り、当の長者の家の者の耳にも届いていた。
しかし、村に持ち切る噂話も頭から否定することはできない。何しろ、あの夜生まれた赤子が明らかに普通ではない様子でここに居るのだから。
赤子は決して泣かず、ただ笑っているのだ。
汚れひとつもない純真無垢な赤ん坊の笑み。それは見る者さえも思わず釣られて笑みを浮かべてしまうものだ。
しかし、どんなに福々とした笑顔であっても、例えば薄暗い古民家の梁に掛けられた恵比寿大黒の笑い面を独り延々と凝視し続けて、やがてじわじわと平常心を蝕む得体の知れぬ恐怖を一片も覚えずにいられる者が、果たしてどれだけいるだろうか。常軌を逸した陽の感情というのは、下手な無表情、陰の感情よりずっと見る者の心胆寒からしめる。
もしや何か先天的な負担を受けて生まれてしまったのではないか。
しかし赤子の眼差しだけ見れば、なんら生まれつきの障がいを負っているようには見受けられず、それどころか、決して身内の贔屓目だけでなく、寧ろ普通の赤子よりもずっと美しく秀でているようにさえ見える。
ただ、「わらい」以外の感情を母親の腹の中にうっかり忘れてきてしまったのかと思うほど、この赤子は他の表情を浮かべない。
――もし、この赤子がこのまま成長したならば、一体どんなモノに成るのか。
肥立ちが落ち着いたばかりの母は号泣した。父はただ途方に暮れ母の肩を抱くばかりで、祖母は仏間で念仏ばかり唱え、祖父は腕を組んで黙っていた。
空腹を訴えることも、排泄を催した際も、おくびの不快を示すために泣き声一つ上げることもなく、どういうわけか母だけが気配で察しそれらの世話をしていたが、他の者達には、ただ赤ん坊が始終ニコニコと微笑ましく笑みを浮かべているようにしか見えなかった。思い切って心を鬼にし、軽く平手で頬を張ってみた。すると一瞬きょとんとした表情を浮かべた後、またケラケラと笑い出す。
下に年の離れた弟妹が三人いて、多少は子守を弁えている父は真っ先に我が子の異常に気づき蒼白になった。よく泣く子の方が余程健やかに育つというのは、腕白過ぎて手がつけられなかった末の弟を見てきているので知っている。しかし泣かずに笑うばかりとは。
直に医者を呼ぼうとする父を祖父がやめた。この先どこまで無事で行きるか分からぬものを下手に人目に晒すものではない。我が家の不栄誉となるかもしれぬではないか。
耳を疑う舅の言葉に父は目を剥いたが、祖父は有無を言わせなかった。
例の産婆は、あの夜以来、まるで物に憑かれたように人が変わった。
もともと寡黙だったものが、急に何か鬼気迫る様相となり、目玉ばかりをぎょろつかせ、集落の至るところを徘徊しては、誰彼構わずあの夜のことを吹聴して回った。
――長者の娘が蛇の子を産んだ。真っ白な肌に鱗を光らせ、赤い舌をちろちろさせながら娘の股から這い出てきた。
――これというのも長者の当主が、鎮守の祠を潰したからだ。祠に住まう姫神様の祟りを受けたに違いない。
――ああ恐ろしい。あの赤子は必ず、次の子を喰らうぞ。長者の家に生まれた次の子を、その次の次の子を、必ず喰らうことになるぞ。
村人たちは仰天した。老婆の繰り言の内容にではない。相手は近隣随一の名士。かつて天保飢饉の猛威の折、蔵の全てを開放し、家財の全てを投げ打って、自分らが食うに事欠くのも厭わず、救民の為に総てを捧げ、その功認められ時の領主より苗字帯刀の栄誉を賜ったという、村にとっての大恩人、同時に郷里の誇りである長者の家。それを謂われなく誹謗中傷するとは何事か。
無論、一番肝を潰したのは産婆の家族であった。ただでさえ日頃特に目をかけて頂き足向けて寝られぬような相手に、よりによって恩を仇で返す真似をするとは。おまけに、鎮守の祠と聞いても、既に村人皆、はてな? といった塩梅だが、そもそも合祀下令の際、いつものように胡麻を擦って、今に取り潰された跡地を御国に適当な名目で安く買い叩かれるのではないか、などと耳打ちしたのはこの家の主人なのだから。
程なく老婆は家の者たちに取り押さえられ納屋に監禁される運びとなったが、既に噂は村の端まで知れ渡り、当の長者の家の者の耳にも届いていた。
しかし、村に持ち切る噂話も頭から否定することはできない。何しろ、あの夜生まれた赤子が明らかに普通ではない様子でここに居るのだから。
赤子は決して泣かず、ただ笑っているのだ。
汚れひとつもない純真無垢な赤ん坊の笑み。それは見る者さえも思わず釣られて笑みを浮かべてしまうものだ。
しかし、どんなに福々とした笑顔であっても、例えば薄暗い古民家の梁に掛けられた恵比寿大黒の笑い面を独り延々と凝視し続けて、やがてじわじわと平常心を蝕む得体の知れぬ恐怖を一片も覚えずにいられる者が、果たしてどれだけいるだろうか。常軌を逸した陽の感情というのは、下手な無表情、陰の感情よりずっと見る者の心胆寒からしめる。
もしや何か先天的な負担を受けて生まれてしまったのではないか。
しかし赤子の眼差しだけ見れば、なんら生まれつきの障がいを負っているようには見受けられず、それどころか、決して身内の贔屓目だけでなく、寧ろ普通の赤子よりもずっと美しく秀でているようにさえ見える。
ただ、「わらい」以外の感情を母親の腹の中にうっかり忘れてきてしまったのかと思うほど、この赤子は他の表情を浮かべない。
――もし、この赤子がこのまま成長したならば、一体どんなモノに成るのか。
肥立ちが落ち着いたばかりの母は号泣した。父はただ途方に暮れ母の肩を抱くばかりで、祖母は仏間で念仏ばかり唱え、祖父は腕を組んで黙っていた。
0
あなたにおすすめの小説
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる