白蛇の化女【完全版】

香竹薬孝

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第2章 5

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 ……姉が、全ての日常から消えてしまった。
 学校が終われば鞄を家に放り出し、皆と連れ立って里の田畑の隙間を縦横無尽に駆け回り遊び呆ける僕らの姿を、ふと気づくと遠くからにこにこと眺めている姉の姿はもう何処にも見つからない。
 家の中でも、今までは姿は見えずとも気配はあって、時折ヒョイと視界を横切ることもあればひとの意表をついてはケラケラ喜ぶ姉の空気は消え失せた。
 首を傾げる友もいた。特にあの喇叭吹きの挙動は見ものだった。姉を探しに再び家に忍び込むのではないかと思ったほどだ。
 それとなく姉の所在を聞いてくる者もいた。
 しかし僕は曖昧に濁し首を傾げるのみに止めた。
 母の言いつけがなくても仲間たちに姉の現在を話してやるつもりは微塵もなかった。仲間たちにしても、近頃友達の姉を見かけなくなった程度、さほど深く追求する理由もない。
 やがて秋も深まり稲刈りの季節となると、子供とはいえ百姓身分がいつまでも遊んでいるわけにもいかず、また、そのあたりを境に周囲の態度が急によそよそしくなり始め、仲間たちとは疎遠になっていった。彼らにとって僕との決別が決定的だったのは、皆が野良仕事に駆り出されている間、僕ひとりだけは労働を免除され、中学校進学のため勉学に明け暮れている姿を見て、初めて地主の子と小作人の子という明確な立場の差を目の当たりにさせられたせいかもしれない。この時代の中学校は後世の義務教育のそれとはそもそも異なり、学業成績は勿論、莫大な学費を捻出できる資産家の子弟でもなければ進学など夢に見ることさえ叶わない。高等小学校に進む者すら、田舎の尋常では一学級に一人いるかいないかというものである。ひょっとしたら、彼らから何かしら嫉妬と羨望、畏敬に表裏する皮肉的な態度を露骨に示されたこともあったかもしれないが、この頃のことはほとんど記憶に残っていない。姉の所在についての風聞も、村の中で声を潜めて囁かれていたに違いないが、これについても僕は何一つ記憶に留めていない。姉と過ごした最後の一年間の少年時代が鮮明であればあるほど、夏衣を纏った風景を失った後の日々は、その後訪れる晩秋、厳冬の季節同様、精彩を欠いた色褪せたものとして記憶されている。当時の友人たちの顔も、今ではほとんど覚えていない。

 やがて僕は尋常を卒業し、村から数里離れた街の中学校へ、一日三便のバスに乗り通学することとなった。尋常の同期で中学、高小合わせても進学した者は僕ひとり。あとは家の口減らし同然に三男四男坊の友人が数人、村の外へ出稼ぎに出ていき、彼らとは二度と会うことはなかった。
 
 中学に上がると、僕の生活も、その周囲の様相も一変した。
 同級生に水呑百姓の倅など一人もいない。一市四郡選りすぐりの士族官吏の子弟ばかりが顔を揃えている。
 高等小学校から一浪してすっかり変声期の過ぎた年長者が二つ前の席に座っているかと思えば、村の友人が真似しようものならたちまち舌を噛んで死にそうな横文字をペラペラ言い交わしている集団もいる。肥桶に天秤棒担いで野良回りに明け暮れる百姓仕事など死ぬまで縁のない境遇の少年たちだった。入学当初のうちは基礎学問だけでなく、級友たちに引けを取らぬよう彼らの生活習慣に順応するだけで精一杯だった。
 気がつけば、僕は故郷近辺でも有数の名家の跡継ぎであるという周囲の期待の眼差しに囲まれ、学生服姿で村を歩けば、すれ違う大人に道を譲られるようなこともあり、否応なしに自身の立場を自覚させられていった。わざと避けられているのか、かつての仲間たちとはもうほとんど顔を合わせることもなくなった。たとえ言葉を交わしたところで今更話の弾むはずもなかったに違いないが。
 

 そうした慌ただしい環境の変化の中で、姉との短い思い出もまた記憶の中に埋もれていったのかというと、決してそうではない。むしろ、そうあってくれることをどれほど心の底から願ったことだろう。姉との一年間が鮮やかであればあるほど、姉の存在はやがて僕を苦しめるようになった。
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