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第4章 4
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……姉が去り、いくらも立たぬうちに迎えの者がやってきて、未だ意識の戻らぬ弟を連れ医者の家を去っていくと、集まっていた男たちもぽつぽつと帰り支度を始め出す。
律は医者へのお礼と後始末を命じられたので、もう少しだけ残らなければならない。
「――ああ、良かった良かった。お雛さんと律ちゃんは太郎坊の命の恩人だぜ。後で本人によく言っときな」
「しかし、長者のお雛さんがあんな泣いて取り乱すたぁね」
「ああ、俺もあの家の婆様が亡くなった時以来初めて見たぜ。いっつもニコニコ笑う顔しか見てねえもんな」
口々に言いながら解散する男たちの中で、一人だけ腕を組んで、難しい顔をして残っている者がいた。姉弟が山に登るときすれ違った、あの初老の農夫である。
「……なあ、律や」
皆の去り行く姿をじっと睨んでいた農夫が傍らに佇む少女に向けて口を開いた。
「今だから正直に言うが……俺は、山に登っていく二人とすれ違ったとき、よもや、という予感はしていたんだ」
「?」
「ここ最近の太郎坊、どうも様子がおかしかった。……特に、昼間見かけた時の坊の様子は、尋常じゃなかった」
ヒグラシの声が、一鳴り、響いた。
「……どういうこと?」
「なんというか、心此処にあらず、てな感じでボンヤリしてな。つい先刻見かけたときなんかも、まるで前歩くお雛さんの後ろにいる誰かに手ェ引かれてふらふら歩いているような妙な雰囲気だったんだ」
「……」
隣に立つ近所の親爺の日に焼けた厳つい顔を見上げる。相変わらず難しい顔のまま農夫は続ける。
「どうも目隠しされた童が、鬼さんこちら、ってされてるように覚束無い挙動でな。それで、暫く様子を見てると、不意に、くるっ、とこっちの方を振り返ってきたんだ。じぃ、と俺の方を見つめてさ。そン時、坊、真ん丸な目ェ見開いて、」
――にっこり、わらったんだ。
「……俺ァ、心底ゾッとしたね。あの顔はまるで、うちの志乃婆が首括る前の頭の狂った時の表情そっくりだった。人のわらった顔見て肝が冷えたのは、これで二度目さ。何もなければいいが、と思っていたら、早速この有様だ」
また、ヒグラシが一鳴き。
……いつの間にか薄暮の中に夜の静寂の匂いがする。
だんだん、律も怖くなってきた。親爺の語り口調も怪談めいて恐ろしいが、何よりも律自身に、思い当たることが無いでもなかった。
「なあ、律や?」
それを指摘するかのように、農夫は続ける。
「お前、――勝太郎坊が笑った顔って、見たことあるか?」
「……ううん」
「俺もそン時初めて見たぜ。あれがまともな人間のわらい顔だってんならな」
そう言って、農夫はクイッと顎をしゃくった。
「あの二人も三吉沢に向かう途中、ここ通ったんだろう。見てみな」
農夫の差す方を見た律は、
「……ひっ――」
小さく悲鳴を上げた。
「うちの婆さんが頭おかしくなって徘徊していた時も丁度こんな有様だったんだ。歩く後ろで次から次と、こんな感じで犬やら猫やら鳥やらが、ばたばたと死んじまうんだ」
震える律の視線の先では、油蝉がひっくり返って死んでいた。一匹二匹ではない。道なりに点々と、薄闇に視界の許す限り、何十という蝉や甲虫、雀の死骸が転がっていた。
「な……に、これ」
傍らの農夫の顔色も、心なしか青ざめていた。
「婆さんが死んだ後も俺ァ、あの婆ァ一体何のつもりであんな駄法螺吹きまくって俺たち家族に迷惑かけやがったんだとずっと恨んでたさ。あんな太郎坊を見るまではな。……一体婆さんは、お雛さんを取り上げたとき、何を見たんだ? ……赤子のお雛さんと一緒に、一体何を見てああなっちまったんだ?」
「おじさん、もうやめて! あたし、怖いっ!」
震えながら農夫の腕に縋り付く律。農夫の方も己の肩を抱きしめながら呻くように呟いた。
「……勝太郎坊は、あンとき一体誰に手ェ引かれて歩いてったんだ?」
律は医者へのお礼と後始末を命じられたので、もう少しだけ残らなければならない。
「――ああ、良かった良かった。お雛さんと律ちゃんは太郎坊の命の恩人だぜ。後で本人によく言っときな」
「しかし、長者のお雛さんがあんな泣いて取り乱すたぁね」
「ああ、俺もあの家の婆様が亡くなった時以来初めて見たぜ。いっつもニコニコ笑う顔しか見てねえもんな」
口々に言いながら解散する男たちの中で、一人だけ腕を組んで、難しい顔をして残っている者がいた。姉弟が山に登るときすれ違った、あの初老の農夫である。
「……なあ、律や」
皆の去り行く姿をじっと睨んでいた農夫が傍らに佇む少女に向けて口を開いた。
「今だから正直に言うが……俺は、山に登っていく二人とすれ違ったとき、よもや、という予感はしていたんだ」
「?」
「ここ最近の太郎坊、どうも様子がおかしかった。……特に、昼間見かけた時の坊の様子は、尋常じゃなかった」
ヒグラシの声が、一鳴り、響いた。
「……どういうこと?」
「なんというか、心此処にあらず、てな感じでボンヤリしてな。つい先刻見かけたときなんかも、まるで前歩くお雛さんの後ろにいる誰かに手ェ引かれてふらふら歩いているような妙な雰囲気だったんだ」
「……」
隣に立つ近所の親爺の日に焼けた厳つい顔を見上げる。相変わらず難しい顔のまま農夫は続ける。
「どうも目隠しされた童が、鬼さんこちら、ってされてるように覚束無い挙動でな。それで、暫く様子を見てると、不意に、くるっ、とこっちの方を振り返ってきたんだ。じぃ、と俺の方を見つめてさ。そン時、坊、真ん丸な目ェ見開いて、」
――にっこり、わらったんだ。
「……俺ァ、心底ゾッとしたね。あの顔はまるで、うちの志乃婆が首括る前の頭の狂った時の表情そっくりだった。人のわらった顔見て肝が冷えたのは、これで二度目さ。何もなければいいが、と思っていたら、早速この有様だ」
また、ヒグラシが一鳴き。
……いつの間にか薄暮の中に夜の静寂の匂いがする。
だんだん、律も怖くなってきた。親爺の語り口調も怪談めいて恐ろしいが、何よりも律自身に、思い当たることが無いでもなかった。
「なあ、律や?」
それを指摘するかのように、農夫は続ける。
「お前、――勝太郎坊が笑った顔って、見たことあるか?」
「……ううん」
「俺もそン時初めて見たぜ。あれがまともな人間のわらい顔だってんならな」
そう言って、農夫はクイッと顎をしゃくった。
「あの二人も三吉沢に向かう途中、ここ通ったんだろう。見てみな」
農夫の差す方を見た律は、
「……ひっ――」
小さく悲鳴を上げた。
「うちの婆さんが頭おかしくなって徘徊していた時も丁度こんな有様だったんだ。歩く後ろで次から次と、こんな感じで犬やら猫やら鳥やらが、ばたばたと死んじまうんだ」
震える律の視線の先では、油蝉がひっくり返って死んでいた。一匹二匹ではない。道なりに点々と、薄闇に視界の許す限り、何十という蝉や甲虫、雀の死骸が転がっていた。
「な……に、これ」
傍らの農夫の顔色も、心なしか青ざめていた。
「婆さんが死んだ後も俺ァ、あの婆ァ一体何のつもりであんな駄法螺吹きまくって俺たち家族に迷惑かけやがったんだとずっと恨んでたさ。あんな太郎坊を見るまではな。……一体婆さんは、お雛さんを取り上げたとき、何を見たんだ? ……赤子のお雛さんと一緒に、一体何を見てああなっちまったんだ?」
「おじさん、もうやめて! あたし、怖いっ!」
震えながら農夫の腕に縋り付く律。農夫の方も己の肩を抱きしめながら呻くように呟いた。
「……勝太郎坊は、あンとき一体誰に手ェ引かれて歩いてったんだ?」
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