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終章 夢の跡に

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 建仁の乱から二年余り後。

 景時が死の直前に危惧した通り、建仁三(一二〇三)年九月、将軍頼家の側近でありその後見を託された比企能員が、更にその二年後(元久二年六月)には重鎮の一人である畠山重忠が北条氏の謀略により討たれ、景時同様に一族諸共滅ぼされた。世に言う比企能員の変、並びに畠山重忠の乱である。その際、北条側の一人として重忠討伐に加わった大串重親は、自身の烏帽子親であり「親爺殿」と慕っていた重忠を攻めるに忍びなく、敵陣を目前にしながら兵を退いたと伝えられている。

 陰謀渦巻く中で、遂に将軍頼家、その後を継いだ弟の実朝(幼名千幡)も北条の手により謀殺され、ここに頼朝の血を引く将軍家血統は断絶した。北条の一味として謀略に加担し次々と政敵を陥れていった和田義盛も、後年時政らの謀により幕府と対立することとなり、建暦三(一二一三)年、和田合戦の果てに悲惨極まる最期を遂げた。その戦いの直前に盟友である義盛を裏切り、「三浦の犬は和田を食う」と揶揄された義村もまた、没後北条氏との争いにより一族を断滅されている(宝治合戦、または三浦の乱)。

 北条氏を中心とする執権勢力と亡き頼朝を仰ぐ旧鎌倉勢力の深い対立は、やがて朝廷対幕府の争いである承久の乱の一端となり、これに勝利した北条政権はその後六百年以上に亘る武家社会の礎を築いていくこととなる。





 ……それから幾星霜もの年月が流れ、今の世に至る。



 あの夜、平泉の栄華と共に焼け落ちた伽羅之御所跡は、今では人々の閑静な営みの場が広がっており、かつての面影を偲ぶものは残されていない。

 多くの者が血を流し、戦乱に翻弄された時代は過ぎ去り、平泉の地は幾百年、まるで平和の礎にならんと身を捨てていった者達が見守り続けているかのように穏やかな時間が流れ去った。

 中尊寺を巡る旧奥大道、月見の坂から見下ろせば、一面に広がるのは長閑な田園風景。

 平泉には、今は平和な時が流れている。

 永い年月を経て景色がどれほど移ろおうとも、束稲山から登る朝日も、金鶏山に沈む夕日も、北上川に吹く風も、ゆかしく綻ぶ菖蒲の花、蓮の花々も千歳百歳の昔と変わらず、在りし日の夢の跡を今の世に生きる我々に伝えている。



                              彼方へ  完
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