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一章 楊家の屋敷

一章⑨

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 春菊は後宮から画院に戻り、花鳥画を描くための準備を済ませる。

 自分に割り振られた卓に着くと多くの画家等に囲まれるが、気にせずに手に持つ筆に白色の絵の具をたっぷりと含ませる。
 次に薄紅色の絵の具を染み込ませ、濃い紅色の絵皿にもちょいと浸す。
 三色付いた筆を先っぽから紙の上に下ろし、倒しながら手首を痛くない程度の角度までくるりと回してしまうと、それだけで愛らしい薄紅色の花びらが一枚出来上がった。

 に近いほど深い紅色に染まり、花弁の先は陽光によって白く透ける……、そんな描写に出来ているからたった一枚でも見応えがある。
 卓の周りに集まった画家達は目の前に描かれた一枚の花弁にどよめいた。

「信じられない……。たった一筆だけで、画院に在籍する他の画家との差を見せつけるなんて!」
「何をどうやったらこんな精緻な花弁が描けるんだ? まるで目の前で仙術を使われたかのようだ」
「何気ない動作だったが、筆遣いが実に巧みです。我々は春菊さんを見習い、作画の基礎を学び直す必要があるかもしれません」

 周囲でごちゃごちゃと会話されているが、春菊は反応を返さず、一気に二枚目三枚目……と花弁を足していく。
 牡丹の花の外側を描き終えてから、より濃い色味で中心部を描く。
 あっという間に一輪分の牡丹の花弁を立体的に描き上げた後は、横側により小ぶりな花を濃淡を変えて描いてしまう。

 別の筆に持ち変え、緑色と茶色を雑に混ぜた絵の具を薄紅色の花の下に運ぶ。
 えがくは牡丹の葉と茎。
 絵の具の混ぜ方のおかげで、筆に絵の具の溶液を足すごとに葉の色あいが微妙に異なるように描き上がる。
 花弁の中央の絵の具が乾いたのを確かめてから、黄色のをさっと描き足せば、もうそれで立派すぎるくらいの牡丹の画となった。

 春菊はひと通りの作業を終えて、「ふへぇー」と絵皿の上に筆を置く。

 すると、画院の副院長鄭浩然が話しかけてきた。

「春菊さんは思った以上の技量をお持ちのようです。素晴らしい出来栄えですね! 皇太后様からは牡丹の花を描くようにと言われたんです?」
「あ、うん。そうだよ」
「これだけの作品なのですから、皇太后様もさぞお喜びになるでしょう!」
「まだ完成ではないよ!」
「そうなんですか? とても完成度が高いと思いますよ。というか、これに何か描き足したなら、かえって良くないように思います」
「やっぱり、そうなのかなぁ……」

 浩然は今の状態で皇太后に画を渡した方がいいと思っていそうだが、春菊としては画の構成の美しさよりも、さっきのひらめきを大事にしたいと思っている。
 しかし、ここまできっぱり言われてしまうと、自分の判断に自信がなくなる。
 自分の考えよりも、画院の副院長の言葉を優先すべきだろうか?
 少しばかり悩むが、結局自分の感性を信じてみることにした。

「自分が考えた通りに描くよ。挑戦するのをやめたら、たぶん感覚が老けちゃうと思う!」
「おおぅ……」

 勢いよく宣言し、怪しげな青黒い絵の具の皿を引き寄せる。
 これはブナ科の植物の––––没食子の抽出液と鉄を酸で溶かした溶液を混ぜた絵の具だ。普通は画材として利用されない素材のようなので、あの小部屋に置かれていたのは意外に思ったが、墨が使いづらい現状では有り難い存在だ。
 この混合液は暗い色合いの絵の具として利用出来る。
 崑崙山に住んでいた際に錬丹術に精通している道士と交流して知り得た技術で、邪気によって墨が動き回る状態になった時に、使いたいと思ったけれど、なかなか材料が揃わずに叶わないでいた。

 春菊は少しわくわくしながら新しい筆に没食子の混合液を少量付けて、さらさらと紙の上で動かす。

「なんとも味わい深い青です。これは……雪? いや、羽根ですね。二色分の羽根を描いているわけですか……」
「へへへ。鶴の白い羽根と黒い羽根だよ。この絵の具はねー、今は青っぽいけど、皇太后に渡す時にはくすんだ黒に見える……はず!」
「あぁ、なるほど……。私は使ったことがありませんでしたが、これは鉄を酸化するようにして色にするのでしたか?」
「そうだったような? 細かいことは覚えていないよ!」
「若いのに作画に関する知識が豊富ですね。正直、貴女が筆を握ってから驚かされてばかりです」
「画の構成はどう見えるかな? やっぱり崩れている?」
「いえ、巧みな構成になっていますよ。近くからは羽根だと分かるのですが、遠くから見たなら、大地を白く染める雪のように見えることでしょう。牡丹の美しさを少しもそこねてはいません」
「わーい! 良かった!」

 第三者の目から見ても、まともな画としてまとまっているようだ。
 これを皇太后に渡す画としてしまって良いだろう。
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