あたしは蝶になりたい

三鷹たつあき

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 ある日突然食欲が無くなった。代わりの増したのは吐き気。目眩。立ちくらみ。亮君との明るく暖かな時間を満喫していたあたしに突然体調の不良は訪れた。そうなのだ。あたしは妊娠したのだった。産婦人科で診てもらった訳ではい。妊娠検査をした訳でもない。それでもあたしは自分が妊娠していることを身に染みていた。
 
体調が悪いのは仕方がない。妊娠した女性にはみんな必ず通る道であろうから。あたしは妊娠していたことを確信していたし、心からそのことを喜ばしく感じていた。ちょっと前のあたしだったらこんなこと考えられない。恋だの愛だの意味も分からず、気になる人と一緒に下校するだけでも心臓が破裂しそうな程苦しんでいたあたしが妊娠するのだなんて。しかし、不思議とあたしはこの事実をすんなりと受け入れることが出来た。いつかはこんな日が来ることを知っていたかのように。これが運命だと分かっていたかのように。亮君と初めて結ばれたその日からそんな予感は心の奥底でうごめいていた。

あたしはとても嬉しかったけど、あまりにこのことを当然のように受け止めていた為、飛び跳ねて喜ぶようなことではなかった。本当に来るべきものが来たという感じで。

当たり前だけど、あたしの子を産むつもりでいたよ。でもこの事実を亮君には伝えてはいなかった。間違いのないことだったけど何故かまだ報告するのは早いような気がしていた。やっぱり病院できちんと検査とかしてもらってからでないと。でも、きっと亮君も受け入れてくれると信じていた。お互いに未成年だし、結婚出来る年齢にもなっていないのにだよ。根拠はないけど彼は現実から逃げる人じゃない。あたしはそのことをあたしも彼も幼い頃から知っている。

あたしと同じように飛び跳ねて喜ぶようなことはしないだろうけど、必ず「嬉しいね。」と言ってくれる。   

ただ、やっかいなことがただひとつ。どうやって我が家と亮君の両親に納得してもらうかということ。あたしには授かった子をおろす気などさらさら無い。亮君だってそうだろう。だが、両親達は反対するだろうね。お互いの両親をどうやって説得しよう。まずは、うちの親に知らせてからか。

いつ、どんなタイミングで両親に報告しようか。なるべく機嫌がいいときの方がいいのかな。でも、直後に怖ろしい現実に向かい合うのだから機嫌の良し悪しは関係ないか。だから正直、タイミングなんかはどうでもいいと思っていた。どうせおろすなどという選択肢は無いのだから。どんなに喧嘩になってもあたしには覚悟があった。だから近いうちにお父さんとお母さんが揃っているときに話をすると決めていたわ。本来なら亮君に先に話をするべきなのかもしれないけど、そんな順序はどうでもいいと思ったのね。

 バチ-ンという景気のいい音と同時にあたしの口の中に鉄の味が広がった。口の中を切ったのだろう。口からの出血はかなりのものだった。これが血の味かという感じもあった。

 よく学校で男の子同士が喧嘩をしているのを目にする。どっちが悪いとか、プライドの問題だとか、酷いものになるとどっちが強いかだけを決めるためだけに喧嘩をしているらしかった。いつもあたしはその風景を見下して見ていたが、なるほどこんなに痛い思いをしながら喧嘩していたのか。あたしは変に冷静だった。こうなることをある程度予想していただろうからか。

父はあたしを見降ろし、母は腰を抜かしたようにリビングの絨毯の上に座りこみながらあたしと父を交互に見つめていた。

「相手はどこの男だ。同じクラスのやつか。」

あたしは父に背を向けた状態で顔だけ彼の方に向けて、

「うん。」

と頷いた。

「相手の名前は?」

あたしは俯いたまま。

「名前を言え!」

あたしは父にすがった。

「ちょっと待って。明日になったらきちんと話すから。今は頭が混乱しているの。だから1日だけ待って。」

本当はあたしは混乱なんてしていなかった。口の中が真っ赤な色でいっぱいになっても冷静さを保っていた。混乱しているのは父の方だとしっかり理解していた。ずいぶんの覚悟はしていたつもりだが、こんなにも父が取り乱すとはあたしの認識が甘かったようだ。父がもっと落ち着いてくれるまでこの話は進めたくないと思っていた。そのあたりの考え方もやっぱりあたしは甘かったみたい。

「馬鹿野郎。頭が混乱しているのはこっちの方だ。今日中にやらなきゃいけないことがある。はっきり名前を言え!」

あたしが名前を明かした後の父の行動は手に取るように分かる。現在午後8時半。そんな時間を無視して彼は相手の男のところに怒鳴りこみに行くつもりだろう。それは避けたかった。あたしはもっとあたしがしたことを咎められる時間が長いと思っていたが、それは間違いだったようだ。父は、

「分かった。もういい。」

と言い、電話の受話器をとった。どこにかけるつもりだろう。あ、という間にその答えはあたしの中に浮かびあがった。学校に間違いない。学校に、先生達にこの話をされたら余計にこんがらかる。あたしは慌てて答えた。

「亮君です。同じクラスの。」

「名字は?」

あたしははっきりとした、でも小さな声で望月君です、と答えた。

「支度をしなさい。これからその彼の家へ行くぞ。」

あたしは2階にかけあがり亮君に携帯で連絡をとろうとした。彼は2回のコールで電話に出てくれた。しかし、予想外の展開になったことで随分頭に血が上っていたあたしは一体彼になにから伝えていいのか分からなくなった。それでも一番大事なことはきちんとこの電話で伝えなくてはならないと自覚していた。あたしは枯れてしまいそうな喉を振り絞った。

「あたしね。できちゃったみたいなの。」

電話の向こうでは沈黙だけが流れた。当たり前だろう。急にそんなことを伝えられたら。

「それでね。それを知ったうちのお父さんがこれから亮君のうちに行くっていうのよ。」

そこまで話したとき1階の廊下から早くしろと父のせかす声が聞こえた。

「亮君ごめんね。」

一方的に電話を切ってあたしは急いで制服に着替えた。
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