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逃亡者
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しおりを挟む店の中は昼間なのに薄暗く、他に客の姿はなかった。
ややくすんだ漆喰塗りの壁は、下の方は扉と同じダークブラウンの腰壁に覆われていて、全体的に落ち着いた雰囲気だ。
入ってすぐに四人分の椅子が並ぶカウンター席があり、奥に行くと、少し広くなっていて中庭らしき場所に面した窓の前にテーブル席がある。
カウンターの向かいの壁には、何枚もの写真が貼り付けられている。
「こちらへどうぞ」
カウンターの内側に回った女性が、カウンター席に水の入ったコップとおしぼりを置くので、私はそこに座り、隣の椅子に荷物を置く。
木目のカウンターは、よく磨かれていて艶やかな飴色をしている。指先で撫でると、長い年月で角が丸くなった木の感触が心地よい。
見上げると天井から吊るされた磨りガラスのランプシェードが、店内を柔らかな暖色に照らしていて、光が空気の粒にからんで、静かな午後に薄い蜂蜜の膜がかかったよう。
「ご注文は、こーひーでいいですか?」
そう言って女性は私にメニューを示した。
「あと、なにか食べ物があれば、それもお願い」
店の内装に気を取られていた私は、メニューも確かめずに注文する。
「サンドイッチとか?」
「ええ、それでいいわ」
私が頷くと、女性が手を動かし始める。
「コーヒーから先にお出ししていいですか?」
他に店員はいないようなので、順番に作るのだろう。
「急ぐ予定はないから、ゆっくりやって」
そう答えて、私は腰をひねって背後の壁に貼られている写真に目を凝らした。
距離があるので顔まではハッキリと見えないけど、壁に貼られている写真には、性別も年齢も様々な人が写っている。紙質も大きさもばらばらで、四隅が少しめくれたもの、古いセロハンテープの痕が残っているもの、光に焼けて縁だけ色が薄くなったものと色々だ。
最初、この店を訪れたお客さんの記念写真かと思ったのだけど、背景は店内ではない。
病室とおぼしき場所で撮られた写真、浴衣姿の人々が見上げる夜空に花火が大輪を描く写真、どこかの小学校の入学式で門の脇に立つ新一年生とその家族とおぼしき写真と、まとまりがない。
有名な写真家が撮ったという印象もない、ありふれた写真だ。
それでもお店の壁に貼ってあるのだから、なにか共通点があるのだろう。そう思って目を凝らしていると、背後で声がする。
「ありがとうございます。忙しい時、よく猫の手も借りたいなんていいますけど、実際にあの子たちの手を借りると、毛が入っちゃうから駄目なんですよね」
「え?」
なにを言われたかわからず振り返ると、口先が細いポットに水を入れながら女性が言う。
「猫あるあるです」
その表情は、いたって真剣だ。冗談めかした間合いなのに、声は静かで平ら。
「あの扉、猫のためなのね」
私は扉の下の小さな窓に一度視線を向け、答えを求めて彼女を見た。
そしてその段になって私は、彼女が、大きな目をした可愛らしい顔立ちをしていることに気が付いた。
ちょっとつり目気味なアーモンドアイで、なんとなく猫を連想させる。化粧気がなくて年齢がわかりにくいけど、二十代前半くらいかな。肌はランプの光を吸って、薄い桃色に見える。
彼女はニッコリ微笑むことで、私の質問を肯定する。
どうやらここは、猫が自由に出入りする店のようだ。
めちゃくちゃに自由度の高い猫カフェと思えば、いいのだろうか?
それはさすがに衛生的に、よくない気がする。
私がそんなことを考えていると、彼女はポットをコンロに乗せる。
その動きに合わせて、またチリリンと鈴の音が聞こえた。
見ると、女性のエプロンの肩紐部分に、赤いベルベットのリボンで金色の鈴が結ばれている。リボンは少し毛羽立っていて、年期を感じさせた。
「……鈴」
「はい」
音の出所に納得した私の呟きに、女性が顔を上げて小首をかしげた。
その動きに合わせて、また鈴が鳴る。
「えっと、なに?」
大きな目で見つめられて居心地の悪さを覚えた私が聞くと、彼女は人懐っこい笑みを浮かべて自分の鼻をチョンと指で叩く。
「ごめんなさい。私の名前を呼んだのかと思いました」
どうやら彼女の名前はスズというらしい。
「そうじゃなくて、その鈴の音がきれいだと思って」
私はそう言って、彼女のエプロンの肩紐に結ばれている鈴を示した。
「私の宝物なんです」
誇らしげに言って、彼女――スズさんはコンロに火をつけた。
古い店のせいか、すぐには火が付かず、何度もつまみをひねってカチッカチッと、空振りのような音を立てている。
それでもしばらくするとボッという音と共に、火が付く。
「ご心配おかけしました」
私の視線に気付いたスズさんが、チラリと舌を出して肩をすくめる。
小柄で化粧っ気のない彼女がそういう表情をすると、ひどく幼い印象を受ける。
昼間から店番をしているくらいだから、大人なんだろうけど……いくつなんだろう?
私は改めて彼女を見た。
スズさんは黒髪を、毛先がどこかわからないよう細かく編み込んでいて、白のブラウス、黒いエプロンという姿は、姿勢の良さも手伝って、仕事に誇りを持つバリスタという感じだ。
それが童顔の顔立ちとのアンバランスさを生み出して、一段と彼女の年齢をわかりにくいものにしている。
卵形の輪郭の中で、小ぶりな鼻と少しつり目がちなアーモンドアイがチャームポイントになっている。
日焼けしていない肌と、艶やかな黒髪は、ランプシェードが落とす光に照らされて、ほんのり輝いているように見えるから不思議だ。
そしてそんな彼女の立ち姿を見て、なんとなく黒猫を連想してしまうのは、先ほど猫と追いかけっこしたせいだろうか。
「どうかしました?」
棚からコーヒーカップを取り出したスズさんが聞く。
「えっと……」
初対面の人に、黒猫みたいな人ですねとは言いにくい。
私は猫を可愛い生き物だと思っているけど、世の中全ての人がそうとは限らないのだ。なにせ猫には〝泥棒猫〟や〝猫っかぶり〟といった、あまり好意的な意味にとられない言葉によく使われるのだから。
「スズさんをモデルに絵を描いたら、どんな仕上がりになるかなって考えてたの」
澄ました口調で答えて、私は空いていた椅子に置いていたバッグに視線を向けた。頑丈な作りのトートバッグの口からは、クロッキー帳が顔を覗かせている。
スズさんがそれに興味を示せば、自分は画家だと話せばいい。できればそのついでに、さっき店頭でしゃがんで舌を鳴らしていたのも、絵のモデルにしたい猫を呼んでいたと話そう。
パン泥棒の猫を追いかけていたら、この店にたどり着いたなんて、信じてもらえないだろうし、店先にしゃがみ込んで舌を鳴らす変な女と思われるのも恥ずかしい。
そう思って相手の反応を待っていると、スズが想定外のことを口にした。
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