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28.最後の闘い

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 眠りについたはずなのに、次に起きた時にも眠っていた。でも意識がはっきりしている。目の前には、いつも一緒に遊んでくれた兄兄がいた。兄兄は自分と、一緒にいた不眠に向かって、冷たい眼差しで命令した。

「今日からお前たちは、俺のキョンシーだ。俺の指示に従う事、俺には絶対に逆らわない事。分かったな。もう、俺は兄兄じゃない。これからは暁と、そう呼べ」

 兄兄の表情はとても辛そうだった。自分と不眠が死んだのだと聞かされたときは良く分からなかったが、その話をする兄兄の辛そうな顔を見ていると、だんだんそれが悲しい事なのだと分かった。

 兄兄は、死んでしまった自分をキョンシーとして助けてくれた。側においてくれた。嬉しかった。その恩に報いるために、今まで戦ってきた。でも自分は不眠より弱いから、どうしても役立たずになってしまう。それがとても苦痛だった。

 でも今日だけは、不眠の力が借りられない今回だけはどうしても役に立たなくてはいけない。兄兄は大切な人たちを守るために戦っているのだ。力にならなくては。

 恩返しを、しなくては。




「いたぞ、鬼だ」

 外に出た暁と安眠は、桜並木のうちの一本の陰に隠れて息を潜めた。昇降口の辺りに、鬼がうろついている。相変わらず、まだ微かに漂ってくる人間の魂を探しているのだ。

「引き付けるだけでいい、無理に戦おうとするなよ」

「ぐう」

 暁の合図で、二人は鬼の目の前に飛び出した。鬼もこちらに気付き、邪魔をさせまいと襲い掛かってくる。鬼の爪が、暁の顔面目がけて振り下ろされた。紙一重で避けるも、完全にかわしきれず、暁の頬の皮が破れて血が飛び出る。

「ぐううっ!」

「大丈夫だ、俺に構わず鬼に集中しろ!」

 悲痛な声を上げる安眠を声で制し、暁は隙を作らず鬼に攻撃を繰り出す。つかず離れずの感覚を保って、何とか鬼の注意を引き付ける。太陽もだんだん低くなり、あたり一面が橙色に染まっていく。安眠の顔も、鬼の顔も。暁の表情に、一瞬焦りが生まれた。

 その時に生じた僅かな隙が鬼を勢いづかせた。鬼の腕が暁の肩を強打し、身体を吹き飛ばす。迂闊、校舎の壁にぶつかって勢いを止めるも、そこから起き上がる事が出来ない。肩が外れたのだ。元に戻そうと強引に骨格を変形させる。ゴキリと嫌な音が鳴り、激痛が走った。

「ぐああああああ!」

 思わず声を上げてしまう。それのせいで、安眠の注意力も格段に落ち、鬼の魔の手が刺し伸びる。

「ぐうっ!」

 安眠は紙一重で避けた。小さく身軽な身体を駆使して必至に自分なりに戦おうとしているが、どうにも実力不足だ。その基礎力が大幅に違いすぎる。

「安眠、引け! やられるぞ」

 キョンシーだから身体がボロボロになるまで戦っていいというものでもない。その媒体が復元不可能にまで破壊されれば、安眠は完全に死んでしまうのだ。そんな無茶をさせるために、安眠をキョンシーにしたのではない。

「ぐうううっ!!」

 しかし安眠は引かなかった。主の命令に逆らう、今まで絶対にしなかったことだ。そして安眠は懐から携帯電話を取り出す。安眠は携帯を持っていない。あれは談子のものだ。盗み出してきたらしい。蓋を開き、何やら探して操作している。それが何か悟った暁は、大声を張り上げた。

「やめろ安眠! 今目覚めたら……」

 しかし、その声も虚しく、安眠は携帯の着信音を盛大に鳴らした。

 コケコッコー!

 何とも奇怪な、鶏の鳴き声の着信。変えろと言ったのに変えていない。暁の表情が歪む。

 その音を聞いた安眠に異変が起きる。携帯を落とし、背を丸めて小さくうな垂れる。

「ぐうううううううう……」

 咽の奥から聞こえてくる、血に飢えた獣のような唸り声。間に合わなかった。いつも眠そうに閉じられていたその目が、カッと開かれる。焦点の存在しない真珠のような大きな白眼が、鬼の姿を映し出す。安眠が覚醒した。

「ぐうああああああ!」

 安眠はすさまじい速さで鬼に向かって飛び掛る。小さな足が繰り出す蹴り、普段は決して威力の強くない拳。その小さな身体の部位が鬼に直撃する。途端に、鬼は激しく吹き飛んだ。

 安眠の体内にはすさまじい潜在能力が眠っている。鶏の鳴き声を合図に目覚め、その力を発揮するのだ。その事を知ったのは安眠を使役し始めて暫くしてからだが、その威力は不眠さえも凌駕し、この世に現存するどのキョンシーよりも破壊的で強力であると思い知った。しかしその力は安眠の小さく脆い身体では制御する事が難しく、下手をすれば己の身さえも滅ぼしてしまう、まさに両刃の力なのだ。こうなってしまっては暁の指示も聞かなくなるし、もはや止める術は無いに等しい。

 これだけは使わせないと誓ったのに、まさかこんな所で覚醒してしまうとは。予定外だ。こうなっては、安眠が動けなくなるまで、誰にも止められない。

 その分、鬼が食らったダメージは今までの比にならないほど凄まじかった。鬼の着物は裾が千切れてボロボロになっているし、その中から覗いた硬そうな肌にもあざが出来ている。安眠の蹴りが腹部を直撃。赤い口から黒い血を吐き、悲鳴を上げる。ひょっとすると、このまま行けば勝てるのではないだろうか。一瞬そんな淡い期待を抱いてみたが、やはり鬼は一筋縄ではいかない。腹部にめり込んだ安眠の足を掴んで、引きちぎったのだ。

「安眠!」

 暁の悲痛な叫びと共に、安眠は投げ飛ばされ、こちらへ飛んでくる。暁は慌ててそれを片腕で受け止めた。反動で再度壁にぶつかり、背中を強打する。痛みをこらえて安眠に注意を払う。気を失ってしまったようだ。安堵の息を吐く。これ以上身体の組織を破壊されると、直せなくなる。身体を震わせてその場に蹲る鬼。暫くは動けないだろうが、こちらも満身創痍だ。

 次に鬼が動き出せば、確実にやられる。鬼が先か、日没が先か。緊張に身体を強張らせる。歯を食いしばって、どう逃げるか考えていると、上から髪の毛を引っ張られる感触がした。

「暁、こっち」

 上を見上げると、窓から上半身を乗り出した談子の姿が。

「早く、中入れる?」

 ゆっくり身体を起こし、安眠を談子に手渡し、校舎の中へ押し込んだ。直後に素早く鬼に視線を向ける。己の体力を回復させるのに必死なようで、暁たちの動きには気付いていない。それを確認し、暁も談子に手を貸してもらって窓の桟に足をかけた。

 教室内に降り立ち、静かにかつ素早く窓を閉める。薄暗いその部屋は、今は学校関係者には使用されていない、何もない閑散とした部屋だった。あるのは、立て付けの悪い和製のタンスくらい。

 そうだ、この部屋は羅刹姫が人知れず生活していた教室である。鬼の存在が公にならないように、ここでひっそりと息を潜めて日々を過ごしていた。みかんによって色々改装が成されているので、今見ただけではただの空き教室だが、夜になると人間が普通に生活できるくらいの家具や寝具が床から取り出せるようになっているらしい。

 辺りを見渡していると、肩に激痛が走った。脱臼した部分に談子の手が触れたのだ。

「あ、ごめん。どうしたの、怪我したの?」

 あまりの痛さに思いきり顔を歪めると、談子は慌てて手を離し、心配そうに顔を覗き込んだ。

「ほっとけば治る。それより、こんな所で何してる。のこのこやって来て、鬼に見つかったら終わりだぞ」

「大丈夫、上で霧利先輩が伸びてるから」

 談子は上を指差す。教室の天井の端に、人がひとり通れる程の四角い穴が開いていた。もし再度談子がやられても、上に霧利がいるから全滅はしないと、そう言いたいのだろうか。しかしその考えには賛同できず、暁は尚も顔をしかめたまま談子を睨みつける。

「この上、職員室なんだ。さっき見つけた、応接室の穴がここに通じてたの。ちょうどいいと思って降りてきたんだよ」

「丁度いいって、何が」

「あのね、あたし思い出したの。鬼を封印する方法」

「何っ、本当か?」

 暁が身を乗り出すと、談子は少し自信なさ気に頷いた。
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