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29.封印

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《この中には、無くてはならぬものが入っておる。開くことができるのは、来るべき時に現れた選ばれし者のみ。
 触れてはならぬ、中を覗いてはならぬ。
 開けてはならぬ、中のものを取り出してはならぬ》

 未だにそう語る、目の前のタンス。一昨日触った時には全く開かなかったが、きっと何か役に立つものが入っているに違いない。その事を談子は暁に説明した。肩を負傷した暁は、気を失って人形のように動かなくなった安眠を抱きしめて、黙って話を聞いている。安眠は左足がもげてしまっているが、魂は分離していないので接続がうまく行けばまた今までどおり動けるようになるそうだ。頑張って鬼と戦ってくれたから、今はそっと眠らせてあげている。

「今から、このタンスをもう一回開けてみようと思ってたんだ。やってみるね」

 暁は頷いた。談子も頷き返し、タンスの引き輪に手をかける。一番上の引き出しだけが開かずだった。それは大事なものが収められているからとタンスは語る。あの時は開けるべきではないということだったのだろう。開くためには、それに相応しい時に、相応しい人間が現れなければならないと言う事だ。来るべき時を鬼の封印が解けたときと考えるなら、きっと選ばれし者はそのタンスの声が聞ける、物語りの智慧を持つ人間の事ではないだろうか。自分がそんな大それた人間だとは思っていないが、自分に出来る事はもはやここを開けるくらいしかない。お願い、開いて。思い切ってタンスを引く。

 前は重くて動かす事もできなかった引き出しが、音もなく、滑るように手前に出てきた。

「―――開いた!」

 談子の表情に笑顔が浮かぶ。それと同時に、タンスが談子に語りかけてきた。

《我が声に耳を傾ける者が現れた。是を大いに活用せよ。さあ、中のものを取り出すのだ》

 タンスの中にちょこんと置かれていたもの。それは大きな円を描くように撒かれた、真っ白な糸だった。手に取るとそれは絹糸のようにさらさらしていて、とても軽かった。細いのにとても頑丈そうで。柔らかいのに芯が硬い。

《これは蜘蛛の糸。現世で使えば、地獄の住民を元の場所へ戻らせる力を持つ。地獄で使えば、現世の人間を一人だけ、元の場所へ連れ戻す事ができる。部屋を覆うように、糸を広げて形取れ。入り口は開けて、地獄の住民を招きいれよ》

 タンスの言う通り、談子は教室中に糸を張り巡らせた。細かく慎重に、陣を描くようにしっかりと、教室の角に糸を引っ掛けていく。どれだけ引っ張っても、糸は切れないし、無くならなかった。必要な分だけ増えていっているような、本当に不思議な糸だ。

 ようやく指示通りに糸を張り終える。それと入れ違いに、鬼の叫び声が窓の向こうから聞こえてくる。体力を回復し、談子達の気配を追ってきたのだ。

「暁、教室から出て!」

 安眠を連れて暁が外へ出るのを確認して、丁度鬼のやってくる場所から死角になるように、談子も教室の端へ寄る。壁に背中を貼り付けて息を潜めた。窓の桟に、長い爪が引っかかる。白髪の頭が覗き、鬼の顔が額縁に飾られた絵のように姿を表した。

 来い。談子は身構える。縁に足をかけ、全身を窓枠にはまらせる。そして鬼は勢いをつけて軽々と教室の中央に降り立った。

「今だ!」

 談子は思いっきり糸を引っ張った。すると教室に設置した糸が自動的に中央に寄り集まり、円の中心に立つ鬼を締め付け始めた。

「ガッ、ガアアアアアア!」

 暴れる鬼。しかしもがけばもがくほど糸は身体に食い込み、激しく締め付ける。しばらくすると、その足元が泥のように溶けはじめる。鬼を飲み込むように、徐々に深度を落としていく。溺れるように手を地面に叩きつける鬼。透明な、どろみを帯びた液体がバシャバシャと空気を跳ねた。鬼は水が苦手だったはずだ。このような得体の知れない液体状の物質でも、例外ではないのだろう。

 これが、鬼の封印。息を呑んで見守る談子。暁も教室の外から唖然とそれを眺めている。

「ガアッ!」

 その一瞬の油断が命取りとなった。鬼が最後の力を振り絞り、蜘蛛の糸を思いっきり引っ張ったのだ。しっかりと糸を握り締めていた談子はバランスを崩し、そのまま勢い任せに引き込まれ、沼の中へ身体を突っ込ませた。もがけばもがくほど、身体が沈んでいく。足元が不安定で、全く底がないようだ。暁が名を呼ぶ声が聞こえたが、それに応える余裕はない。既に全身沼に浸り、鬼と共に果てしない地獄の底へと沈んでいく所だったから。

 その時の感覚は、魂を抜き取られた時のものに良く似ていた。しかし、今度は手に触れる空気の感触もあるし、身体に重さが感じられる。その分だけ、どこか安心できた。



 泥の底に到達した。そう感じた瞬間、身体が重力に支配され、真っ逆さまに落ちているのが分かった。

「うわああああああ!」

 完全に落下している。視界に入ってきたのは、一面赤の世界。ここはあの、血の池地獄だ。バシャーンと音を立て、池の中へ頭から突っ込む。水面で肌を強打、顔がすごく痛い。血の匂いが、味が口に中に広がってくる。とても気持ち悪い。急いで顔を外に出し、側にあった陸地に登った。口の中に入った血を吐き出しながら、周囲を見渡す。さっき魂となってやってきた場所とは、少し感じが違った。あそこよりも空気が重苦しく、血の色のもどことなく黒さが勝っていた。やっぱり公園の砂場くらいの大きさの、平らな陸地が一つだけ、ぽつんと漂っている。その中央で、小さく背を丸めて三角座りしている影があった。黒い長い髪、紅白の簡素な着物。その背中を見るだけで、誰だかはっきりわかる。

「……羅刹姫!」

 声をかけると、その人物は身体をビクリと振るわせた。顔を上げ、首だけこちらへ振り返る。

「談子……? なぜ、ここへ? わらわは、また皆を食らってしまったのか……?」

 怯えた瞳。憔悴しきっていて、まるで別人のようにやつれてしまっている。談子は羅刹姫に歩み寄り、笑顔で手を差し伸べた。

「ううん。迎えに来たんだよ。鬼はあたしが封印したから。一緒に帰ろう?」

「……嫌じゃ、帰らぬ。もうわらわはずっとここにいる」

「どうして?」

「外の世界には、人間しかおらぬではないか。何度わらわは人間の都合で外に呼び出されて、迫害されて、食いたくも無い人間の魂を食らって、月に怯えてここへ戻ってこなくてはならぬのじゃ。もう疲れた、戻りとうない」

 再びそっぽを向いてしまった羅刹姫。談子は困ったように彼女の肩に手を置く。そのとき気付いた。羅刹姫の黒く丸い頭から、小さな二本の角が突き出ている事に。

 談子は先刻出会った男子生徒の言葉を思い出していた。そして、その後決意した自分の意志も、心に深く刻まれていると再確認する。

 談子に気づかれたと思ったのか、羅刹姫は角を両手で覆い隠すようにして押さえ込んだ。

「……わらわは鬼の子じゃ。生まれた時からずっと。昔の人間どもはわらわに人間の血を混ぜて、人に近い理性を与えようとした。そうすることで、扱いやすくしようとしたのじゃろう。しかしその所為でわらわの精神は二つに割れてしまった。昼には狂気の鬼が、夜には人間の習慣が染み付いた半端者が、現世に現れては人々に害を成した。そこへやってきた旅の人間が、狂気の鬼を地獄へと押し込めた。馬鹿なことをしてくれたものだ。名前さえ呼ばれれば、すぐにでも扉を蹴破って出てきてしまうと言うのに。……もう分かったじゃろう。わらわは鬼じゃ、人間とは決して相容れることは出来ない、化け物じゃ。関わった人間は皆死んでしまう。ここへ来れたのならば、帰る方法も知っているはずじゃろう、今すぐ現世へ戻れ」

 ふと、談子は天を見上げた。はるか上空から、光り輝く糸が一本、真っ直ぐこちらへ向かって垂れている。

 蜘蛛の糸。そんな話を昔読んだことがある。欲に目がくらんで地獄に落ちた男が、以前蜘蛛の命を助けたことによって慈悲深さが認められ、仏によって現世へ戻る糸を垂らしてもらう話だ。その糸は細くて脆く、たった一人の人間しか引っ張り上げる事は出来ない。結局男は周りの人間に邪魔されて、現世へは戻れなかったが―――。

 幸い、ここには邪魔するものはいない。

「羅刹姫、これ持って」

 談子は無理矢理、羅刹姫にその糸を握らせた。糸に触れた羅刹姫は驚いたように談子を見上げる。

「何じゃこれは、何の真似じゃ?」

「これは現世に住む人間を地獄から呼び戻すための糸なんだって。これが掴めるって事は、羅刹姫も現世に戻ってもいいって事だよ。大丈夫、帰れるよ。誰も羅刹姫を迫害したりしない、みんな羅刹姫のことを考えてくれてるんだよ。だから絶望しないで、怖がらないで」

「…………」

 談子の笑顔。羅刹姫は大きく目を開き、涙を流した。血のような涙だった、赤く透き通り、とても綺麗に見えた。

「本当か、本当にまだ、わらわの側にいてくれるのか? わらわを苛めたりせんのか?」

「しないよ、絶対しない。だから、帰ろう」

 目を潤ませながら、羅刹姫はやっと頷いてくれた。その瞬間に、糸は物凄い速さで巻き取られ、食いついた魚を全速力で引き上げる釣り糸のように上へ上がっていった。

「だっ、談子よ! 登って行ってしまうぞ、早く来るのじゃ!」

 そのあまりの速さに、羅刹姫は驚いて談子の名を呼ぶ。羅刹姫から手を離した談子は、それを見上げて声を張り上げた。

「それは一人乗りなの! 後からすぐ行くから、先に行って!」

 それに対する返答がないまま、羅刹姫はあっという間に地獄から現世へと連れ戻された。それを見送る談子。その表情が、静かに曇る。

「……ごめん。嘘ついちゃったかも」

 蜘蛛の糸は一本だ。談子がここから出る方法は、おそらくもう無い。

 すぐ側に、白い乱れた髪を垂らした、小さな子どもが立っていた。紅白の、ボロボロの着物を着た、恐ろしい般若のような面をかぶった鬼が。この池の主は、恐らく彼女だ。

「あの、あたし帰り道なくなっちゃって。よかったら、ここに居てもいい?」

 鬼に笑いかける。鬼は談子の手をとった。長い爪が、談子の腕に食い込む。血が滲み出るが、ふしぎと痛みは無かった。そして、鬼は寂しそうなうめき声を上げた。

「……あなたも、一人は嫌だよね。あたしも、嫌なんだ」

 鬼の手を取った。冷たい手が、談子の暖かな手に触れていく。般若の仮面が、顔の中心に亀裂を走らせ、縦に真っ二つに割れた。中から出てきたのは、透明な涙を流す、綺麗な顔をした童女。

「大丈夫、羅刹姫は、もう一人じゃないよ」

 童女は驚いた顔をした。そして、涙を流しながら、笑った。その笑顔が見たかったから、談子は今まで頑張ってきたのだ。本当に逢いたかった鬼は、ここに居た。

「やあ、こんなところまで来たの?」

 童女の後ろから、誰かがやって来る。優しい雰囲気の男子生徒。手では相変わらず赤い糸であやとりを黙々と続けている。童女は談子から手を離し、男子生徒へ駆け寄った。制服の裾を掴み、頬を摺り寄せる。とても懐いているようだ。彼も童女に笑いかけ、再び談子に話を振る。

「君は戻らないと。約束してたじゃないか、羅刹姫と一緒に遊ぶって」

「いやその、帰る方法なくなっちゃって」

 情けなく笑ってみせる。ふーん、と男子生徒は少し考えるように首を傾げた。そして閃いたように、手に巻きついていたあやとりの赤い糸を外して差し出してくる。

「これをあげるよ。蜘蛛の糸」

 糸はみるみるうちに長く伸び、天井に突っ込んで一本の線となった。談子は呆気に取られてそれを見上げている。

「ど、どうして……?」
「この糸はこの池から作った、鬼の動きを制するためのものなんだ。用途はもちろん、君が持ってきた白いものと全く同じ。つまり糸はこの池からいくらでも量産可能ってこと」

「なら、どうしてあなたはこれを使って帰らなかったんですか?」

「これを思いついた時には、既に自分の身体は墓の中だよ。だから、これは君が使って。僕はここで、この子とずっと一緒にいるから。外の羅刹姫は、君に任せるよ」

 少し肩をすくめ笑って見せた。恐る恐る、談子は赤い糸を握り締める。触れることが出来た。それを見た男子生徒が、何か思い出したように付け足す。

「そうだ、ついでに戻ったら謝っておいてくれないかな。僕のほんの好奇心から、たくさんの人を巻き込んでしまった。僕が死んでしまった事で、深い傷を受けてしまった人もたくさんいるみたいだ。二年前の生徒会のみんなや羅刹姫に、そして、イナホにも。もう気にしなくていい、罪を償う必要なんて無いと。自分の幸せを探して欲しいと伝えて欲しい」

 その言葉に、談子はふと、あの名前を思い出す。

「あなた、ひょっとして夏祭さん……?」

 呟いた時には、糸が引き上げられ、談子の身体は宙に浮かんでいた。

「頼んだよ」

 夏祭花人は笑った。その顔も、やがて見えなくなり―――。


 気付けば、冷たい床の上にいた。電気のつけられた、閑散とした教室。側には暁と目を覚ました安眠、そして、泣きじゃくりながら談子の身体にしがみついている羅刹姫の姿があった。窓から見えた、線のように細くなってしまった夕日が、山の向こうに沈んでいく。今、日が暮れようとしていた。

「……間に合ったんだ」

 日没までには、何とか。談子は大きく息を吐いた。
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