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第二部 四季姫進化の巻
第十二章 冬姫進化 9
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「了生はんに何をしとるんや、気色悪い化け物が!」
柊は、腹の底から怒声を放った。
了生の目の前に立つ者は、人間の姿を呈していた。
髪の長い、色白の華奢な女性。
了生の部屋の写真で見た、緑と呼ばれていた女性と瓜二つだった。
だが、本人であるはずもない。
緑は既に交通事故で亡くなっている。しかも、目の前の存在は、柊の攻撃を受けても大したダメージも負っていなかった。
体中に突き刺さった氷の刺が、蒸気を上げて溶けていく。傷口が瞬時に塞がり、何事もなかった様相を見せた。
生身の人間ではない事実だけは、明確だ。
柊を見つめて、得体の知れない化け物は口の端を吊り上げた。不気味な形相に、全身に悪寒が走った。
「化け物とは失礼ね? 私は愛する了生さんを、迎えに来たのよ」
小鳥みたいに、可愛らしい声。側で蹲る了生の表情が、苦痛に歪む。
見た目や仕草、話し方までも、緑そのものなのかもしれない。
何者かが、緑になりきって、了生をたぶらかしている?
けれど、どうやって、そっくりになれたのか。よほど、緑や了生と関係の深い化け物の仕業か。
了生達と柊の間に、共有できる記憶なんて、ほとんどないのだから、考えても予測の域を出ない。
化け物は、苛立つ柊にねちっこい視線を向けた。
気持ち悪い眼差しだ。見られていると、妙に恐怖が襲ってきた。
「お前も、この女を知っているのだろう? お前の愛する者の心を奪って放さない、憎い女だろう? 小娘の嫉妬は、見苦しいなぁ」
化け物は、嫌らしい笑みを浮かべてくる。
写真で見た、清楚な緑の面影は、微塵もない。
平常なら聞き流せる、陳腐な挑発だ。なのに、必要以上に柊の心を抉り、不愉快な感覚にさせていく。
柊自身も自覚していなかった、どす黒い感情が、引っ張り出されている気分だ。
本音をいえば、柊は写真の緑の存在を疎んでいたのだろう。
緑の存在がなければ、了生は柊の気持ちを汲んでくれたかもしれない。そんな小さな期待も、無意識に抱いていた。
でもきっと、その感情は恥でも愚かでもない。
本気で人を好きになれば、抱いて当然の感情なのだと、割り切った。
「見栄えのええ嫉妬なんか、あるかい! 恰好つけるために戻ってきたんと違うんや!」
何とか精神を持ち直し、己に喝を入れた。
「了生はんが、大切な人を忘れられへんのやったら、別に構わへん。うちに、とやかく言う資格はない。けど、了生はんは辛い過去を乗り越えて、前へ歩いていこうとしとるんや! 人の弱みに付け込んで思い出を狂わそうとする奴だけは、絶対に許さん!」
薙刀を振りかざし、了生と化け物との間に氷の壁を作った。化け物側の壁面から氷の刺が一斉に飛び出す。
緑の偽物は刺に刺され、突かれた勢いで背後に吹き飛んだ。
見た目は、かなりの手傷を負って見えるが、致命傷を与えた手応えはない。
実際、氷が刺さった傷も、すぐに消えて元に戻った。物理攻撃では、歯が立たないか。
化け物はすかさず、反撃してきた。白い腕が長く伸び、柊の首元を掴もうとしてくる。紙一重で躱すが、腕は鞭みたいに縦横無尽に動き回り、柊の後頭部を強打してきた。
柊は地面に倒れ、砂利の中に頭を埋めた。
頭蓋骨が割れそうなほどの、激しい痛み。一瞬、頭が真っ白になった。
了生が、柊の名を叫ぶ声がした。落ちそうになった意識を引っ張り戻し、柊は気合いで立ち上がった。額から血が滴っていたが、気にしている余裕はない。
「ただの小娘と聞いていたが、なかなか強いではないか。だが、いくら身体が頑丈でも、心はどうだろうなぁ?」
化け物は、口から不気味な紫色の息を吐いた。直後、目の前にいた緑の姿が蜃気楼みたいに歪み、変貌していった。
新たに、目の前に現れた人物を見て、柊は硬直した。
眼前の人は、柊の父――杷 だった。
「お父……ちゃん? なんで、こないなところに……」
困惑し、柊は体を強張らせる。緊張が、全身を襲った。
杷は、柊をまっすぐ見つめて、微笑んだ。
今までに一度もお目にかかった経験のない、優しい笑みだった。柊の体は、ますます硬くなった。
「心配して、探しとったんや。一週間も黙って家を空けて、どこに行ったんかと思うた」
家に帰っていなかったと知って、わざわざ探しにきたのか。柊の中に、さらに動揺が広がっていく。
柊の戸惑いなどお構いなしに、 杷は優しく、柊の体を包み込んでくれた。
「すまんかった、いっつも一人にして。あの女とも別れた。仕事も変える。二人でずっと、一緒に暮らそう」
心が、ひどく締め付けられる。
いつから、その言葉を待っていただろう。
二度と、聞く機会はないと諦めていた半面、心の奥では望んでいた。期待していた。
夢みたいだ。父親の口から、そんな台詞が聞けるなんて。
涙がこぼれそうになった。ずっと、我慢し続けてきたのだから、父の腕の中で泣き崩れてもいいのではと思えた。
だが、泣けなかった。この父には、縋り付けなかった。全身が、無意識に拒否反応を起こした。
「嘘や! お父ちゃんが、そんな台詞吐くはずがあらへん!」
葛藤の末、我に返った柊は、勢いよく父親を突き飛ばした。
冷静に、 杷の姿を凝視する。優しげな微笑みが、妖艶な笑みに変わった。
緑の姿をしていた、あの化け物の笑顔と同じだ。
父親の幻に、騙されていたのか。
「強がるな、強がるな。折角の良い夢なのだ、楽しんでおればいいのに。お前も、誰からも愛されず、孤独に打ちひしがれて、苦しんでいるのだろう? 心の奥では、優しさに飢えているのだろう? 人の想いに触れたいのだろう? 最高の愛を与えてやるぞ、お前の命と引き換えになぁ!」
「近寄るな! お前なんぞに、同情される筋合いはない!」
やっぱり、 杷の姿も、この化け物が見せた偽物だ。別の人間に変身する力を持っているのか。
だが、腑に落ちない。
「なんでこいつ、うちの親を知っとるねん……?」
緑だけでなく、ろくに会いにも来ない杷の姿を、どうして化け物は再現できたのか。姿も声も、そっくりだ。いや、 杷そのものだった。
得体の知れない化け物の術。柊は背筋に悪寒を覚えた。
「柊さん、離れてください! そいつは、相手の心を盗み読む妖怪です!」
突然、背後から声が飛んだ。横目で確認すると、騒ぎに気付いて飛び出してきた朝と宵、八咫の姿があった。
「奴は、悟りの眷属の上等妖怪、梵我である! 人間の心の闇を読み取り、強く望んでいる幻覚を見せる。さらに快楽を与えて、代償に命を奪う。恐ろしい妖怪である!」
八咫の説明を聞き、合点がいった。
この化け物――妖怪・梵我は、了生や柊の心を読んできた。心の中に強烈に残っている相手の姿を、幻として見せてきた。
全ては、柊たちの心の願望か。そう考えると、急に情けなく感じた。まだ、弱い心を律しきれていない証拠だ。
つまらない煩悩が、妖怪に付け入る隙を与えてしまった。
「何をしにきやがったんだ? ずっと山奥に潜んで、滅多に出てこない奴なのに」
宵が威嚇する。梵我は再び紫の煙を吐いた。煙に包まれた梵我は、青白い肌の着物姿の女に変貌した。
その姿が、梵我の本当の姿なのだろう。
「お前達の余計な悪あがきのせいで、おちおち山奥に隠れてもいられなくなっちまったんだよ。きちんと、責任はとってもらうからね!」
あからさまに、苛立った殺気を向けてくる。柊達がこの妖怪になにをしたのか、思い当たる節はない。
だが、何らかの怨みをもって報復にきたのなら、受けて立つ。
正体が分かれば、自身に打ち勝つよりも立ち向かいやすい。
柊は呼吸を整え、武器を構えた。
「上等妖怪相手に、一人では危険です。八咫、榎さんたちを呼んでくるんだ。急いで!」
「御意! すぐに連れてまいりまする!」
朝の指示を受け、八咫が勢いよく飛び去っていった。
榎達の援助を受けられるなら、心強い。
だが、花春寺から妙霊山までは、かなり距離がある。足の早い榎が全速力で来たとしても、その間、柊が一人で耐えられるか、分からない。
「柊さん、無理に戦わないで! なんとか、時間を稼いでください」
朝が焦りながら、無茶な要求を飛ばして来る。
「時間稼ぎなんて、できるんやったら、一人で倒しとるわ……」
狭い境内に、逃げ場などない。相手の攻撃を薙刀で受け流すくらいしか手はないが、食らう度に衝撃が体を襲い、痛みが走る。その衝撃は徐々に、握力を奪っていく。
さらに相手は、柊の動きも読んでいる。常に、柊の急所や、ガードの甘くなっている部分を的確に狙ってくる。何とか防いでいるものの、完全に不利だった。
物凄く、戦い辛い相手だ。
「悟りか。ええな、相手の考えが何でも分かって。うちにも、そないな力があったら……」
父の本音がすぐに分かれば、いつまでも期待して待ち続けなくてもよかった。
了生の心の中にいる人を見抜けたら、くだらない想いを抱かずに済んだ。
梵我の力が、とても羨ましく感じた。
だが、ないものをねだっていても、手に入りはしない。
今、手元にある力だけで、戦わなくては。
柊は気合を入れ直し、反撃に転じた。
薙刀の一撃は梵我を直撃したが、軽く受け止められた。
攻撃の情報を全て読み取られている。柊の隙も癖も、相手には筒抜けだった。
「お前の攻撃は、豪快だなぁ。だが、当たらなければ、何の意味もない技だなぁ」
細い腕一本で、軽く武器を弾かれる。体制を崩した柊に、梵我は長い爪を光らせ、素早い一撃を繰り出して来た。
避ける暇もない。避けたとしても、その先を読まれて先手を打たれるだろう。
手詰まりか。一瞬、柊の脳裏に敗北の文字が浮かんだ。
直後。梵我の攻撃は、鋭い金切り音と共に、弾かれた。
梵我の爪から飛び散った、光の礫の一欠が、柊の頬を掠っていく。皮膚が薄く切り裂かれた感触がした。
些細な傷に、反応している暇はなかった。
目の前で、了生が柊の盾となっていた。大きな背中を見つめ、呆然とする。
「すいません、少し、傷を負わせてしもうた」
腕を震わせながら、錫杖で梵我を弾く。了生は息を乱しながら、地面に片膝を突いた。
梵我の術で心を揺さぶられ、殺されかけていた了生の力は、万全ではないはずだ。戦いに集中できているとは、思えなかった。
「うちなんかを、庇わんといてください! うちは何も知らんと、了生はんを傷つけたんや。助けてもらう資格なんか、あらへん!」
柊は声を張り上げた。了生の心の傷を開き、情けない姿を晒して逃げた身だ。もう、合わせる顔さえない身なのに。
柊なんかのために、無理をして欲しくない。
戦いの場から退けようと、柊は了生の肩を掴んだ。
だが、了生の体は、びくともしない。逆に、その手を掴み返された。
「柊さんを助ける理由は、あります。あるに、決まっとる」
低く重厚な了生の声が、柊の鼓膜を震わせた。反射的に身を引こうとしたが、了生は手を離してくれない。
「俺は、不器用な人間ですから。全ての人に平等に親切になんて、できんのや。いつも一番、大切にしたい人しか、見えとらん」
振り返り、了生は柊を見つめてきた。真っ直ぐな瞳から放たれる強い眼差しに、柊は動けなくなった。
「もう、幻にも過去の記憶にも、惑わされん。あなただけは、絶対に守り抜く」
胸が締め付けられ、熱くなった。了生の声が心の中をかき回し、激しく打ち震わせる。
対して、頭の中は綺麗に澄み渡って、静まり返っていた。
不要なものが取り払われた感覚。冷静な脳裏に、やるべき行動が全て見えた。
「了生はん。少し、時間、作ってもらえますか?」
柊の言葉に、了生はすぐに意図を察して、頷いた。
了生の考えが、今は手にとるように分かる。了生も、柊の思考を読み取って、動いてくれた。
悟りの力などなくても、羨ましがらなくていい。大切な人と、心が通じ合っている。
頭の中で、確信できた。何の柵もなくなった今なら、全ての力を解放できる。
柊は呼吸を整え、薙刀を天高く翳した。ゆっくりと回転させ、力を集中させていく。
脳裏には、古文書を読んで頭に叩き込んだ、禁術の発動方法が、くっきりと浮かんでいた。
「やってくれたなぁ。何人がかりで来ようが、結果は同じだぞぉ」
柊めがけて、梵我が再び襲い掛かってくる。
その攻撃を、了生は簡単に捉えて、弾き返した。梵我は動揺していた。
「心が、読めん……? この男、弱いくせに、心を閉ざす術など使いおって!」
了生は気配を完全に断ち、無の存在となっていた。思考も何もかも、外界からは全て閉ざし、梵我にも動向が読めない。
梵我は苛立ちながら、がむしゃらに攻撃をけしかけた。
だが、何の策もない攻撃は、神経を研ぎ澄ました了生には掠りもしない。逆に反撃を食らい、梵我は地面に叩きつけられた。
「おのれ、人間の分際でぇ……」
怒りを露に起き上がるが、何をするにも時間切れだ。
「――了生はん、下がってや。また氷漬けになるで」
柊は動きを止め、了生に指示を送った。了生が遠くへ飛びずさった直後、薙刀を手前で激しく回転させた。
強い突風が周囲から流れ込み、梵我を包み込む。
柊は、心を閉じる力など持たない。冬姫の動きを読み取った梵我は、再び勝ち誇った表情を浮かべた。
「どんな術を使っても、無駄だぞ。お前の攻撃など、全部、避けてやるからなぁ」
自信満々に言ってのける。薙刀から放たれる突風を、のらりくらりと受け流しながら、余裕の表情だ。
だが、その表情が、文字通り凍りついた。
「何だ、なぜ、体が動かぬ……!?」
梵我に動揺が広がる。白く細い妖怪の体に霜が纏わりつき、急速に凍らせ始めた。
「空気中の水分、一滴一滴の動きなんて、読めても躱しきれへんやろ。どんどん凍っていくで」
柊が放った強烈な冷気が、夏の湿った暖気を急激に冷やし、周囲のものまで凍てつかせはじめた。
寺の建物の一部や庭の草木、あらゆるものが氷の彫刻に変貌していく。
風は渦を描き、梵我を中心にして巻きついていく。手足が凍り、動けなくなった梵我に、逃げる術はなかった。
「お前ら、家の中に入れ! 巻き添え食らうぞ!」
了生が、縁側で戦いを見ていた朝と宵に指示を送る。二人は慌てて、部屋に飛び込んで障子を閉めた。直後に、その障子も凍る。
外野の避難が済んだと確認し、柊は呼吸を整えた。
梵我に視線を向け、にんまりと笑ってみせる。
「……うちが今から何するか、言わんでも分かるな?」
血の気が完全に引いた、梵我の顔が歪む。己の最後を悟る瞬間ほど、恐ろしいものはないだろう。
「やめろ、お願いです、やめて――!!」
最後の悪あがき、と悲鳴を上げる。
だが、命乞いをされても、柊の攻撃は止められない。
「冷獄に消えさらせ! 〝青龍の逆鱗〟!!」
薙刀の刃の先端に、集束させた自然の力を押し固める。梵我を取り囲む風の渦に、力を圧縮させた風弾を打ち込んだ。
直後、渦が激しい竜巻となり、徐々に勢いを増した。
冷たく強い風が、少しずつ形を整えて、視界に捉えられるようになった。
その姿は、長い体でとぐろを巻く、巨大な龍だった。
冷気を纏った龍が、渦を描きながら上空へ翔け上り、頭からゆっくりと消えていった。
龍の姿が見えなくなる頃には風も止み、渦の中心には完全に凍りついた、梵我だったものが残された。
この世の物体が持つ温度には下限が存在し、完全に熱量が消失する最低の温度は-247℃が絶対零度とされている。
梵我の体も、絶対零度の境地にまで落ちていた。完全に凍りついた物体は、内部の肉体も魂も命を存続できず、砕け散って霧となる。
梵我の体は、夏のそよ風に触れると同時に粉々に霧散し、大気に混じって跡形もなく吹き飛ばされていった。
「こら、使いどころを選ばなあかん技やな……」
発動してみて、実感した。禁術と呼ばれているだけあって、とんでもない威力の技だ。
無闇には使えない。慎重に使用しなくては。
視界が開けると、向こう側の松林に、了海の姿が見えた。満足そうな表情で、何度も頷いて、合掌していた。
その様子を見届けると同時に、柊は薙刀を落とし、崩れた。
体中からあらゆる力が抜け、指一本動かせなかった。心臓の鼓動さえ、動かなくなるのではと思えるくらいの疲労感だった。
うっすらと、意識を引き止める。重い瞼を持ち上げて、空を仰いだ。
柊の視界には、青空と一緒に、了生の笑顔が入り込んできた。
* * *
倒れた柊は、了生に抱き留められていた。
反応しようにも、体は完全に動かない。了生の腕の中に、身を横たえた。
力強く、暖かい。心地よい場所だった。
ずっと凍てついていた、柊の中の感情が、全て溶けていく感覚がした。
「素晴らしい技でした。頑張らはりましたな。ほんまに、ご立派です」
了生は柊を抱き寄せて、耳元で囁いた。
「了生はんのお陰で、うちは強うなれた。うちの心の支えになってくれて、おおきに」
柊も、気力を振り絞って、必死で呟いた。
「想うてもらえんでも、構わへん。けど、うちは想い続けたい。自分に嘘を吐きとうないから、気持ちだけ、伝えさせてください」
何とか、指が動いた。震える手で了生の服の裾を掴み、息苦しさを堪えながら、何とか言葉を紡いだ。
「――好きです。了生はんが、ほんまに好きなんや」
ちゃんと、気持ちを伝えられた。
自己満足だが、柊にとっては充分だった。
目的を果たせた。このまま死んでも悔いはない、とさえ思えた。
了生は柊の頬に手を当て、優しく撫でてきた。その表情は、泣いているのか笑っているのか分からない。あらゆる感情を出し損ねて、歪んでいた。
「俺は、情けない人間です。僧としても、男としても、まだまだ未熟で。煩悩に流されてばかりや。全てを乗り越えるために、この先も、長く厳しい修行を積んでいかなあきません」
震える声で、了生はゆっくりと言葉を紡ぐ。柊は黙って、耳を傾けた。
「柊さんは、まだ中学生や。これから多くの経験を積み、多くの人と出会って、大人になっていく。その過程で、あなたを心から想うてくれる人が現れるかもしれません。あなたが、心から愛せる人に、巡り会えるかもしれません」
了生の声は、泣き声に変わっていた。息も絶え絶えに、苦しそうに吐き出しながらも、口を動かし続けた。
「――それでも、もし将来、俺の修行が明けて、一人前の人間になれた時。大人になった柊さんが、まだ、俺を忘れずに、想うてくれておったなら……。その時は、俺と一緒になってもらえますか」
柊は、了生の胸に顔を埋めた。無言で小さく、頷いた。
ずっと堪えていた涙が、とめどなく溢れて、法衣と十二単を濡らした。
柊は、腹の底から怒声を放った。
了生の目の前に立つ者は、人間の姿を呈していた。
髪の長い、色白の華奢な女性。
了生の部屋の写真で見た、緑と呼ばれていた女性と瓜二つだった。
だが、本人であるはずもない。
緑は既に交通事故で亡くなっている。しかも、目の前の存在は、柊の攻撃を受けても大したダメージも負っていなかった。
体中に突き刺さった氷の刺が、蒸気を上げて溶けていく。傷口が瞬時に塞がり、何事もなかった様相を見せた。
生身の人間ではない事実だけは、明確だ。
柊を見つめて、得体の知れない化け物は口の端を吊り上げた。不気味な形相に、全身に悪寒が走った。
「化け物とは失礼ね? 私は愛する了生さんを、迎えに来たのよ」
小鳥みたいに、可愛らしい声。側で蹲る了生の表情が、苦痛に歪む。
見た目や仕草、話し方までも、緑そのものなのかもしれない。
何者かが、緑になりきって、了生をたぶらかしている?
けれど、どうやって、そっくりになれたのか。よほど、緑や了生と関係の深い化け物の仕業か。
了生達と柊の間に、共有できる記憶なんて、ほとんどないのだから、考えても予測の域を出ない。
化け物は、苛立つ柊にねちっこい視線を向けた。
気持ち悪い眼差しだ。見られていると、妙に恐怖が襲ってきた。
「お前も、この女を知っているのだろう? お前の愛する者の心を奪って放さない、憎い女だろう? 小娘の嫉妬は、見苦しいなぁ」
化け物は、嫌らしい笑みを浮かべてくる。
写真で見た、清楚な緑の面影は、微塵もない。
平常なら聞き流せる、陳腐な挑発だ。なのに、必要以上に柊の心を抉り、不愉快な感覚にさせていく。
柊自身も自覚していなかった、どす黒い感情が、引っ張り出されている気分だ。
本音をいえば、柊は写真の緑の存在を疎んでいたのだろう。
緑の存在がなければ、了生は柊の気持ちを汲んでくれたかもしれない。そんな小さな期待も、無意識に抱いていた。
でもきっと、その感情は恥でも愚かでもない。
本気で人を好きになれば、抱いて当然の感情なのだと、割り切った。
「見栄えのええ嫉妬なんか、あるかい! 恰好つけるために戻ってきたんと違うんや!」
何とか精神を持ち直し、己に喝を入れた。
「了生はんが、大切な人を忘れられへんのやったら、別に構わへん。うちに、とやかく言う資格はない。けど、了生はんは辛い過去を乗り越えて、前へ歩いていこうとしとるんや! 人の弱みに付け込んで思い出を狂わそうとする奴だけは、絶対に許さん!」
薙刀を振りかざし、了生と化け物との間に氷の壁を作った。化け物側の壁面から氷の刺が一斉に飛び出す。
緑の偽物は刺に刺され、突かれた勢いで背後に吹き飛んだ。
見た目は、かなりの手傷を負って見えるが、致命傷を与えた手応えはない。
実際、氷が刺さった傷も、すぐに消えて元に戻った。物理攻撃では、歯が立たないか。
化け物はすかさず、反撃してきた。白い腕が長く伸び、柊の首元を掴もうとしてくる。紙一重で躱すが、腕は鞭みたいに縦横無尽に動き回り、柊の後頭部を強打してきた。
柊は地面に倒れ、砂利の中に頭を埋めた。
頭蓋骨が割れそうなほどの、激しい痛み。一瞬、頭が真っ白になった。
了生が、柊の名を叫ぶ声がした。落ちそうになった意識を引っ張り戻し、柊は気合いで立ち上がった。額から血が滴っていたが、気にしている余裕はない。
「ただの小娘と聞いていたが、なかなか強いではないか。だが、いくら身体が頑丈でも、心はどうだろうなぁ?」
化け物は、口から不気味な紫色の息を吐いた。直後、目の前にいた緑の姿が蜃気楼みたいに歪み、変貌していった。
新たに、目の前に現れた人物を見て、柊は硬直した。
眼前の人は、柊の父――杷 だった。
「お父……ちゃん? なんで、こないなところに……」
困惑し、柊は体を強張らせる。緊張が、全身を襲った。
杷は、柊をまっすぐ見つめて、微笑んだ。
今までに一度もお目にかかった経験のない、優しい笑みだった。柊の体は、ますます硬くなった。
「心配して、探しとったんや。一週間も黙って家を空けて、どこに行ったんかと思うた」
家に帰っていなかったと知って、わざわざ探しにきたのか。柊の中に、さらに動揺が広がっていく。
柊の戸惑いなどお構いなしに、 杷は優しく、柊の体を包み込んでくれた。
「すまんかった、いっつも一人にして。あの女とも別れた。仕事も変える。二人でずっと、一緒に暮らそう」
心が、ひどく締め付けられる。
いつから、その言葉を待っていただろう。
二度と、聞く機会はないと諦めていた半面、心の奥では望んでいた。期待していた。
夢みたいだ。父親の口から、そんな台詞が聞けるなんて。
涙がこぼれそうになった。ずっと、我慢し続けてきたのだから、父の腕の中で泣き崩れてもいいのではと思えた。
だが、泣けなかった。この父には、縋り付けなかった。全身が、無意識に拒否反応を起こした。
「嘘や! お父ちゃんが、そんな台詞吐くはずがあらへん!」
葛藤の末、我に返った柊は、勢いよく父親を突き飛ばした。
冷静に、 杷の姿を凝視する。優しげな微笑みが、妖艶な笑みに変わった。
緑の姿をしていた、あの化け物の笑顔と同じだ。
父親の幻に、騙されていたのか。
「強がるな、強がるな。折角の良い夢なのだ、楽しんでおればいいのに。お前も、誰からも愛されず、孤独に打ちひしがれて、苦しんでいるのだろう? 心の奥では、優しさに飢えているのだろう? 人の想いに触れたいのだろう? 最高の愛を与えてやるぞ、お前の命と引き換えになぁ!」
「近寄るな! お前なんぞに、同情される筋合いはない!」
やっぱり、 杷の姿も、この化け物が見せた偽物だ。別の人間に変身する力を持っているのか。
だが、腑に落ちない。
「なんでこいつ、うちの親を知っとるねん……?」
緑だけでなく、ろくに会いにも来ない杷の姿を、どうして化け物は再現できたのか。姿も声も、そっくりだ。いや、 杷そのものだった。
得体の知れない化け物の術。柊は背筋に悪寒を覚えた。
「柊さん、離れてください! そいつは、相手の心を盗み読む妖怪です!」
突然、背後から声が飛んだ。横目で確認すると、騒ぎに気付いて飛び出してきた朝と宵、八咫の姿があった。
「奴は、悟りの眷属の上等妖怪、梵我である! 人間の心の闇を読み取り、強く望んでいる幻覚を見せる。さらに快楽を与えて、代償に命を奪う。恐ろしい妖怪である!」
八咫の説明を聞き、合点がいった。
この化け物――妖怪・梵我は、了生や柊の心を読んできた。心の中に強烈に残っている相手の姿を、幻として見せてきた。
全ては、柊たちの心の願望か。そう考えると、急に情けなく感じた。まだ、弱い心を律しきれていない証拠だ。
つまらない煩悩が、妖怪に付け入る隙を与えてしまった。
「何をしにきやがったんだ? ずっと山奥に潜んで、滅多に出てこない奴なのに」
宵が威嚇する。梵我は再び紫の煙を吐いた。煙に包まれた梵我は、青白い肌の着物姿の女に変貌した。
その姿が、梵我の本当の姿なのだろう。
「お前達の余計な悪あがきのせいで、おちおち山奥に隠れてもいられなくなっちまったんだよ。きちんと、責任はとってもらうからね!」
あからさまに、苛立った殺気を向けてくる。柊達がこの妖怪になにをしたのか、思い当たる節はない。
だが、何らかの怨みをもって報復にきたのなら、受けて立つ。
正体が分かれば、自身に打ち勝つよりも立ち向かいやすい。
柊は呼吸を整え、武器を構えた。
「上等妖怪相手に、一人では危険です。八咫、榎さんたちを呼んでくるんだ。急いで!」
「御意! すぐに連れてまいりまする!」
朝の指示を受け、八咫が勢いよく飛び去っていった。
榎達の援助を受けられるなら、心強い。
だが、花春寺から妙霊山までは、かなり距離がある。足の早い榎が全速力で来たとしても、その間、柊が一人で耐えられるか、分からない。
「柊さん、無理に戦わないで! なんとか、時間を稼いでください」
朝が焦りながら、無茶な要求を飛ばして来る。
「時間稼ぎなんて、できるんやったら、一人で倒しとるわ……」
狭い境内に、逃げ場などない。相手の攻撃を薙刀で受け流すくらいしか手はないが、食らう度に衝撃が体を襲い、痛みが走る。その衝撃は徐々に、握力を奪っていく。
さらに相手は、柊の動きも読んでいる。常に、柊の急所や、ガードの甘くなっている部分を的確に狙ってくる。何とか防いでいるものの、完全に不利だった。
物凄く、戦い辛い相手だ。
「悟りか。ええな、相手の考えが何でも分かって。うちにも、そないな力があったら……」
父の本音がすぐに分かれば、いつまでも期待して待ち続けなくてもよかった。
了生の心の中にいる人を見抜けたら、くだらない想いを抱かずに済んだ。
梵我の力が、とても羨ましく感じた。
だが、ないものをねだっていても、手に入りはしない。
今、手元にある力だけで、戦わなくては。
柊は気合を入れ直し、反撃に転じた。
薙刀の一撃は梵我を直撃したが、軽く受け止められた。
攻撃の情報を全て読み取られている。柊の隙も癖も、相手には筒抜けだった。
「お前の攻撃は、豪快だなぁ。だが、当たらなければ、何の意味もない技だなぁ」
細い腕一本で、軽く武器を弾かれる。体制を崩した柊に、梵我は長い爪を光らせ、素早い一撃を繰り出して来た。
避ける暇もない。避けたとしても、その先を読まれて先手を打たれるだろう。
手詰まりか。一瞬、柊の脳裏に敗北の文字が浮かんだ。
直後。梵我の攻撃は、鋭い金切り音と共に、弾かれた。
梵我の爪から飛び散った、光の礫の一欠が、柊の頬を掠っていく。皮膚が薄く切り裂かれた感触がした。
些細な傷に、反応している暇はなかった。
目の前で、了生が柊の盾となっていた。大きな背中を見つめ、呆然とする。
「すいません、少し、傷を負わせてしもうた」
腕を震わせながら、錫杖で梵我を弾く。了生は息を乱しながら、地面に片膝を突いた。
梵我の術で心を揺さぶられ、殺されかけていた了生の力は、万全ではないはずだ。戦いに集中できているとは、思えなかった。
「うちなんかを、庇わんといてください! うちは何も知らんと、了生はんを傷つけたんや。助けてもらう資格なんか、あらへん!」
柊は声を張り上げた。了生の心の傷を開き、情けない姿を晒して逃げた身だ。もう、合わせる顔さえない身なのに。
柊なんかのために、無理をして欲しくない。
戦いの場から退けようと、柊は了生の肩を掴んだ。
だが、了生の体は、びくともしない。逆に、その手を掴み返された。
「柊さんを助ける理由は、あります。あるに、決まっとる」
低く重厚な了生の声が、柊の鼓膜を震わせた。反射的に身を引こうとしたが、了生は手を離してくれない。
「俺は、不器用な人間ですから。全ての人に平等に親切になんて、できんのや。いつも一番、大切にしたい人しか、見えとらん」
振り返り、了生は柊を見つめてきた。真っ直ぐな瞳から放たれる強い眼差しに、柊は動けなくなった。
「もう、幻にも過去の記憶にも、惑わされん。あなただけは、絶対に守り抜く」
胸が締め付けられ、熱くなった。了生の声が心の中をかき回し、激しく打ち震わせる。
対して、頭の中は綺麗に澄み渡って、静まり返っていた。
不要なものが取り払われた感覚。冷静な脳裏に、やるべき行動が全て見えた。
「了生はん。少し、時間、作ってもらえますか?」
柊の言葉に、了生はすぐに意図を察して、頷いた。
了生の考えが、今は手にとるように分かる。了生も、柊の思考を読み取って、動いてくれた。
悟りの力などなくても、羨ましがらなくていい。大切な人と、心が通じ合っている。
頭の中で、確信できた。何の柵もなくなった今なら、全ての力を解放できる。
柊は呼吸を整え、薙刀を天高く翳した。ゆっくりと回転させ、力を集中させていく。
脳裏には、古文書を読んで頭に叩き込んだ、禁術の発動方法が、くっきりと浮かんでいた。
「やってくれたなぁ。何人がかりで来ようが、結果は同じだぞぉ」
柊めがけて、梵我が再び襲い掛かってくる。
その攻撃を、了生は簡単に捉えて、弾き返した。梵我は動揺していた。
「心が、読めん……? この男、弱いくせに、心を閉ざす術など使いおって!」
了生は気配を完全に断ち、無の存在となっていた。思考も何もかも、外界からは全て閉ざし、梵我にも動向が読めない。
梵我は苛立ちながら、がむしゃらに攻撃をけしかけた。
だが、何の策もない攻撃は、神経を研ぎ澄ました了生には掠りもしない。逆に反撃を食らい、梵我は地面に叩きつけられた。
「おのれ、人間の分際でぇ……」
怒りを露に起き上がるが、何をするにも時間切れだ。
「――了生はん、下がってや。また氷漬けになるで」
柊は動きを止め、了生に指示を送った。了生が遠くへ飛びずさった直後、薙刀を手前で激しく回転させた。
強い突風が周囲から流れ込み、梵我を包み込む。
柊は、心を閉じる力など持たない。冬姫の動きを読み取った梵我は、再び勝ち誇った表情を浮かべた。
「どんな術を使っても、無駄だぞ。お前の攻撃など、全部、避けてやるからなぁ」
自信満々に言ってのける。薙刀から放たれる突風を、のらりくらりと受け流しながら、余裕の表情だ。
だが、その表情が、文字通り凍りついた。
「何だ、なぜ、体が動かぬ……!?」
梵我に動揺が広がる。白く細い妖怪の体に霜が纏わりつき、急速に凍らせ始めた。
「空気中の水分、一滴一滴の動きなんて、読めても躱しきれへんやろ。どんどん凍っていくで」
柊が放った強烈な冷気が、夏の湿った暖気を急激に冷やし、周囲のものまで凍てつかせはじめた。
寺の建物の一部や庭の草木、あらゆるものが氷の彫刻に変貌していく。
風は渦を描き、梵我を中心にして巻きついていく。手足が凍り、動けなくなった梵我に、逃げる術はなかった。
「お前ら、家の中に入れ! 巻き添え食らうぞ!」
了生が、縁側で戦いを見ていた朝と宵に指示を送る。二人は慌てて、部屋に飛び込んで障子を閉めた。直後に、その障子も凍る。
外野の避難が済んだと確認し、柊は呼吸を整えた。
梵我に視線を向け、にんまりと笑ってみせる。
「……うちが今から何するか、言わんでも分かるな?」
血の気が完全に引いた、梵我の顔が歪む。己の最後を悟る瞬間ほど、恐ろしいものはないだろう。
「やめろ、お願いです、やめて――!!」
最後の悪あがき、と悲鳴を上げる。
だが、命乞いをされても、柊の攻撃は止められない。
「冷獄に消えさらせ! 〝青龍の逆鱗〟!!」
薙刀の刃の先端に、集束させた自然の力を押し固める。梵我を取り囲む風の渦に、力を圧縮させた風弾を打ち込んだ。
直後、渦が激しい竜巻となり、徐々に勢いを増した。
冷たく強い風が、少しずつ形を整えて、視界に捉えられるようになった。
その姿は、長い体でとぐろを巻く、巨大な龍だった。
冷気を纏った龍が、渦を描きながら上空へ翔け上り、頭からゆっくりと消えていった。
龍の姿が見えなくなる頃には風も止み、渦の中心には完全に凍りついた、梵我だったものが残された。
この世の物体が持つ温度には下限が存在し、完全に熱量が消失する最低の温度は-247℃が絶対零度とされている。
梵我の体も、絶対零度の境地にまで落ちていた。完全に凍りついた物体は、内部の肉体も魂も命を存続できず、砕け散って霧となる。
梵我の体は、夏のそよ風に触れると同時に粉々に霧散し、大気に混じって跡形もなく吹き飛ばされていった。
「こら、使いどころを選ばなあかん技やな……」
発動してみて、実感した。禁術と呼ばれているだけあって、とんでもない威力の技だ。
無闇には使えない。慎重に使用しなくては。
視界が開けると、向こう側の松林に、了海の姿が見えた。満足そうな表情で、何度も頷いて、合掌していた。
その様子を見届けると同時に、柊は薙刀を落とし、崩れた。
体中からあらゆる力が抜け、指一本動かせなかった。心臓の鼓動さえ、動かなくなるのではと思えるくらいの疲労感だった。
うっすらと、意識を引き止める。重い瞼を持ち上げて、空を仰いだ。
柊の視界には、青空と一緒に、了生の笑顔が入り込んできた。
* * *
倒れた柊は、了生に抱き留められていた。
反応しようにも、体は完全に動かない。了生の腕の中に、身を横たえた。
力強く、暖かい。心地よい場所だった。
ずっと凍てついていた、柊の中の感情が、全て溶けていく感覚がした。
「素晴らしい技でした。頑張らはりましたな。ほんまに、ご立派です」
了生は柊を抱き寄せて、耳元で囁いた。
「了生はんのお陰で、うちは強うなれた。うちの心の支えになってくれて、おおきに」
柊も、気力を振り絞って、必死で呟いた。
「想うてもらえんでも、構わへん。けど、うちは想い続けたい。自分に嘘を吐きとうないから、気持ちだけ、伝えさせてください」
何とか、指が動いた。震える手で了生の服の裾を掴み、息苦しさを堪えながら、何とか言葉を紡いだ。
「――好きです。了生はんが、ほんまに好きなんや」
ちゃんと、気持ちを伝えられた。
自己満足だが、柊にとっては充分だった。
目的を果たせた。このまま死んでも悔いはない、とさえ思えた。
了生は柊の頬に手を当て、優しく撫でてきた。その表情は、泣いているのか笑っているのか分からない。あらゆる感情を出し損ねて、歪んでいた。
「俺は、情けない人間です。僧としても、男としても、まだまだ未熟で。煩悩に流されてばかりや。全てを乗り越えるために、この先も、長く厳しい修行を積んでいかなあきません」
震える声で、了生はゆっくりと言葉を紡ぐ。柊は黙って、耳を傾けた。
「柊さんは、まだ中学生や。これから多くの経験を積み、多くの人と出会って、大人になっていく。その過程で、あなたを心から想うてくれる人が現れるかもしれません。あなたが、心から愛せる人に、巡り会えるかもしれません」
了生の声は、泣き声に変わっていた。息も絶え絶えに、苦しそうに吐き出しながらも、口を動かし続けた。
「――それでも、もし将来、俺の修行が明けて、一人前の人間になれた時。大人になった柊さんが、まだ、俺を忘れずに、想うてくれておったなら……。その時は、俺と一緒になってもらえますか」
柊は、了生の胸に顔を埋めた。無言で小さく、頷いた。
ずっと堪えていた涙が、とめどなく溢れて、法衣と十二単を濡らした。
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