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第二部 四季姫進化の巻

第十三章 秋姫進化 5

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 五
 化け狐の気配を察知して以来、楸は時間を見つけては、念入りに榎の行動範囲の調査を行った。
 榎はたいてい、居候している花春寺と学校の間しか行き来しない。たまに病院に綴の見舞いに訪れたり、柊や楸の家、了封寺に遊びに行くくらいだ。
 榎の行動ルートを把握した楸は、その道を辿って神経を研ぎ澄ませ、怪しい気配を探った。
 調べる度に、かなりの高確率で、狐の残り香的な気配を察知できた。間違いなく、化け狐の妖怪は、榎の行く先々に出没している。
 確信が持てた楸は、榎を待ち伏せして、化け狐の姿を捉えようと試みた。早起きして、剣道部の朝練に向かう榎を、通学路の脇道に隠れて観察した。
 だが、気配を消しているにもかかわらず、化け狐は楸がいるときには姿を見せない。微かに気配を感じても、すぐに遠くへ消えてしまう。
 楸の存在を、見抜かれているのだろうか。
 もしかしたら、狐への執念が強すぎて、知らず知らずに楸の中から殺気が漏れだしているのかもしれない。
 もし予想通りなら、意図して放っている自覚がないから、楸にはどうにもできない。
 やむなく、尾行は諦めた。
 捜索がうまくいかないと、焦りが出てくる。楸がもたついている間に、榎に危害が及ぶかもしれない。榎ならば、襲われても容易く負けはしないだろうが、相手は人間に化けられる妖怪だ。素直で単純な榎は、ころっと騙されるかもしれない。父みたいに――。
 手遅れになる前に、尻尾を掴んで退治しなくては。
 気持ちが急くと、夜も眠れない。テスト期間でもやらないほど徹夜を繰り返し、方法を考えるが、よい案は浮かばなかった。

 * * *

 寝不足で、学校に行っても眩暈がする。何とか授業には付いていけたが、休み時間の記憶となると、途切れるときもあった。
「楸、大丈夫かいな。顔色悪いで」
 机に肘をついて項垂れていると、柊が声をかけてきた。
 周囲が見てわかるほど、楸は疲弊していたらしい。
 心配を懸けさせたくない。慌てて顔を上げて、笑顔を繕った。
「おおきに、大丈夫どす」
「テストでもないのに、夜遅くまで勉強しとるんか? 根詰めたら、あかんで。次、体育やけど、行けるか?」
 教室の生徒たちは、みんな体操着に着替えて教室を出ていこうとしていた。
「すぐ、着替えていくどす」
 楸は立ち上がり、支度を整えてグラウンドに出た。
 今日の体育は、ドッジボールだった。
 楸は運動全般が苦手だ。体を動かしているより頭を働かせているほうが楽しい。理屈で動く楸には、本能で体を酷使する行動は、不可能に近かった。
 どうして学校の成績を評価する基準に、体育が入っているのだろう。この憎き科目さえなければ、内申の評価は完璧なのに。
 と、怨まざるを得ない存在でもあった。
 個人競技では、やむをなく運動音痴を晒して諦めているが、団体競技ではそれとなく安全圏を確保して、運動神経のいいチームメイトの邪魔にならないように、考えてやり過ごしていた。たとえばドッジボールなら、早めに当たって外野に行き、内野の強いメンバーの補助をする、など。
 今回も普段通りに行動できればよかったのだが、寝不足のせいで全身のけだるさが増長され、ろくに動けなかった。
 結果、敵チームのエースとしてバリバリ活躍していた榎の、恰好の餌食になってしまった。
 榎は楸が相手でも遠慮の欠片もなく、鬼神の如き勢いで、ボールを放ってくる。まさしく、男子生徒から金剛力士像と呼ばれるだけある、凄まじい迫力と威圧感を醸しだしていた。
 榎が投げたボールは、楸の顔面に直撃した。
 顔に激痛が走る。思考がうまく働かないまま、楸は土の上に倒れた。
「うああー! 楸ー! しっかりしろー!!」
 悲鳴をあげながら、榎が駆け寄ってくる。
 集まってきたみんなが掛けてくる声が、だんだん遠くに感じた。意識が遠退き、楸の頭の中は真っ白になった。

 * * *
 目を開いたとき、一瞬、どこにいるのだろう、と思った。
 布団の感触から、どこかに寝かされているのだと分かった。消毒液の臭いが鼻をつく。
「大丈夫か、楸」
 枕元で、声がした。視線を向けるが、ぼんやりしたモザイクが掛かった景色しか把握できない。
「榎はん、どすか?」
 声の様子から判断し、ゆっくり声をかけた。
「みんなも、おるで。保健室に運ばれたんや、分かるか?」
 柊の声も聞こえた。どうやらベッドを、榎たちに囲まれているらしい。
「すみません。眼鏡ないと、何も見えんくって」
 手探りで、枕の脇に置いてあった眼鏡を見つけて掛けた。
 眼鏡をかけると、いつもの三人の姿が視界に入った。
「しゅーちゃん、えのちゃんがぶん投げたボールが顔面に当たって気絶したの。覚えてる?」
 椿に説明されると、急に現実に引き戻された。鼻っ柱が、ヒリヒリ痛む。
「頭、大丈夫か? ごめんな。あたしのせいで、楸が馬鹿になっちゃったら、どう責任とればいいのか……」
 榎はものすごく反省して、大きな背を丸めて縮んでいた。
「榎のアホな頭じゃあ、交換もできへんしな」
「春姫の治癒力でも、頭の中身は治せないから……」
 みんな、心配する場所がずれている気もしたが、水を差しても悪いと思い、聞き流した。
「頭も眼鏡も大丈夫やったから、気にせんでもよろしいどすえ。ご心配懸けて、申し訳ないどす」
 楸がやんわりと謝ると、榎たちは深刻そうな表情を向けてきた。
「やっぱり、疲れとるんやろう? 聞いたで、榎の周りを彷徨いとる、ストーカー妖怪の話」
「楸は、あたしを追いかけ回している奴の正体を、ずっと無理して探してくれていたんだな」
 気絶している間に、色々と的を射た憶測が飛び交っていたのだろう。楸は口を閉ざし、少し俯いた。
「一人で、無茶をしているんじゃないのか? 何か分かったら、教えて欲しいって言ったのに」
「まだ、何も分かっておらんのどす」
 本当だ。おぼろげに姿が見え隠れしているが、まだ確実な正体も目的も、なにも把握できていない。
「せやったら、みんなで調べようや。人数が多いほうが、効率もええやろう」
「そうよ! えのちゃんをストーカーするなんて、許せないわ! さっさと見つけて、やっつけましょう」
 みんな、協力しようと意気込んでくれる。
 だが、その好意を、楸は素直に受け取るわけにはいかなかった。
「すみませんが、この件、私に任せてもらえまへんか? 皆さんの手を、煩わすまでもありまへん。姿も見せよらへん、臆病な小者でしょうから」
 嘘を吐いた。
 でも、今回だけは、大切な人達を巻き込みたくない。
 あの化け狐に、また身近な誰かが傷つけられたら、と思う度に、恐ろしくなる。
 復讐のため、仲間を守るため。
 あの化け狐とは、楸が決着をつけなければならない。
「どうか、お願いします」
 深く頭を下げた。
 榎たちは、まだ反論したそうだったが、楸の必死さが伝わったのか、その後は何も言ってこなかった。
 困惑した、寂しげな表情を向けられると、楸の心が少し、痛んだ。
 でも、そんな感情は、ただの我儘だ。
 かけがえのない人達を失う悲しみに比べれば、大した苦痛ではない。
 楸は心の中を掻き立てる雑念を、必死で振り払った。

 ***
 放課後まで保健室で休んだ楸は、着替えて帰宅の途についた。
 校門を出てしばらく歩くと、急に右足首に痛みが走り、蹲った。
「しもうたどすな。顔だけやなくて、足まで痛めとったどす」
 倒れた拍子に、捻挫をしていたらしい。横になって治まっていた痛みが、足に体重をかけたせいで、ぶり返してきた。
 右足を庇いながら、ヒョコヒョコと少しずつ、前進した。
 とんでもなく遅いペースだった。家に帰るまでに、日が暮れそうだ。
 でも、家には誰もいないし、英(はなぶさ)は仕事で忙しいから、手間を掛けさせられない。
 いつかは家に辿り着けるだろうと、楸は電柱や壁を支えに、拙く歩き続けた。
 不意に、肩を誰かに掴まれた。振り返ると、宵と朝が立っていた。
 宵は朝に鞄を放り投げ、無表情で、楸の前に屈み込んだ。
「背中、乗れ。歩けないんだろう?」
「大丈夫どす。ゆっくり、帰りますさかい」
「嫌なら、抱き上げてでも連れて帰るぞ」
 慌てて断ると、宵は立ち上がって、楸の肩と膝の裏を掴み、抱きあげようとしてきた。楸は思わず、悲鳴をあげた。
「分かったどす! 背中のほうが、ええどす」
 お姫様抱っこなんて、絶対に無理だ。楸は観念して、宵の背中に乗った。
 楸を背負った宵が立ち上がると、朝が前に進み出た。
「僕は先に帰る。ちゃんと、楸さんを家まで送るんだぞ」
「言われなくても、分かってる」
 一人で帰っていく朝の姿を見届けながら、宵も歩き出した。
「揺れるから、しっかり掴まってろ。痛くないか?」
 楸は頷いた。本当は少し振動が腫れに響くが、我儘なんて言えない。
 中学生にもなって、おんぶなんて恥ずかしい。
 人に背負われるなんて、幼稚園の頃以来だ。父親の大きな背中が、すごく懐かしく感じた。
「私、皆さんに、迷惑をかけてばかりどすな」
 情けなかった。気落ちした楸に、宵が淡々と返した。
「いくらでも、掛ければいいんだ。お互い様なんだから」
 随分と、簡単に言ってくれる。でも、その潔さは、楸の緊張を解してくれた。
 不思議と、心が軽くなる気がした。少し肩の力を抜き、宵の背に頬を寄せた。
 まだ成長途中で、骨張った小さな肩だ。でも、温かくて、頼もしかった。
 家の前に着くと、丁度、英が稽古から戻って来たところだった。
 おぶわれている楸を見て、驚いた声をあげる。
あまねちゃん、どないしやはったんや!」
「ちょっと、体育の授業で、捻挫してしもうて……」
 簡単に事情を説明すると、英は慌てて鍵を取り出して玄関を開けた。
「早く、中に入って冷やさんと。酷かったら、病院にも行かんとねぇ」
 宵の背中から降りた楸を支えながら、英は湿布の場所を必死に思い出していた。
「周を連れてきてくれてんね、ほんまに、おおきに。どうぞ上がって、お茶でも飲んで行って?」
 さらに、周囲への目も抜かりなく行き届いていた。帰ろうとした宵も引っ張り込んで、玄関を閉めた。
「いや、俺はすぐ帰るんで……」
「宵はん、どうぞ、上がってください」
 戸惑っていた宵だったが、楸が勧めると、遠慮がちに靴を脱ぎはじめた。ほんのひと月くらい前までは、我が物顔で庭先に居座っていたのに。随分と態度が変わるものだと、見ていて可笑しく思った。
 応接間で足を伸ばし、冷たいタオルで患部を冷やした。英に湿布を貼ってもらうと、痛みも和らいだ。
「腫れも引いてきたし、大丈夫そうやわ。痛かったら、すぐに言うんやで」
 救急箱を片付け、英は手際よく茶を運んできた。
 宵については簡単に説明して、紹介した。英は嬉しそうな顔をして、宵に向かって身を乗り出した。
「月夜君て、いうんやね。二学期から転校されてきたとか。やっぱり雰囲気が地元の子とは違うねぇ。お家はどの辺りなん? ご家族は何人くらい? 以前はどちらに住んではったんかな?」
 次から次から、英の好奇心の問い掛けが止まらない。勢いよく詰め寄られた宵は、困った顔をして顔をのけ反らせていた。答えようとしても、常人に理解できる返答は、難しいだろう。
「お母はん、質問攻めにしたら、あきまへん……。困ってはります」
 楸が服の裾を引っ張って注意すると、英は我に帰って身を引いた。
「ごめんなさいねぇ。小母さんは、口が五月蝿うて。お台所におりますさかい、ゆっくりしていってね」
 恥ずかしそうに笑いながら、英は部屋を出て行った。静かになり、楸と宵は、同時に一息ついた。
「騒がしゅうて、すんまへん」
「人間なんて、みんな似たようなもんだ。珍しくて興味のある相手には、面白いほど食いついてくる。初めて会った時の楸に、そっくりだぞ」
 宵は、嫌味な笑みを浮かべてきた。
 正体を隠して妖怪たちに近付いた時にも、楸は宵月夜に張り付いて質問攻めにした。相当、迷惑がられていたなと、当時の記憶を思い起こした。
 随分と押して掛かったものだ。今となると、ちょっと恥ずかしかった。
「あの時は、色々と必死やったもんで……」
「妖怪の情報を探るために、俺達の懐に潜り込んでいたんだろう? 秋姫として、敵である存在について、詳しく把握したかったんだな」
 楸は頷いた。妖怪たちから有益な情報を得るために、騙して、利用しようとした。
 なりふり構っていられなかったとは言え、最終的に好意をもって接してくれた妖怪たちを裏切る行為だったと、反省している。
 謝ろうとすると、宵の手に制止された。
「侘びなら、前に聞いた。何度も謝らなくていい。利用されていただけでも、楸と関われて、俺は嬉しかったんだ」
 穏やかな笑みを浮かべていた。楸は顔が紅潮していく感覚に気付いた。
 恥ずかしい気持ちをはぐらかそうと、話題を反らした。
「学校には、もう慣れはりましたか」
 宵は冷めた顔になり、鼻を鳴らした。
「つまんねえな。どうでもいい連中と、どうでもいい話をして、意味のない時間が過ぎていく。はっきりいって、時間の無駄だ」
 本当に、学校生活に興味がなさそうだ。予想外で、驚いた。
「楽しそうにしておられると、思うておりましたが」
 宵は新学期早々から生徒たちに取り巻かれながら、賑やかな環境でも見事に順応していたのに。
「別に、楽しいなんて思っていない。生活に慣れるだけなら、何も考えずにできる。 人間の生活なんて、所詮は仮初だ」
 朝も、似た考えを持っていたなと思い出した。兄弟揃って、妙に対人関係に冷めている。
 平安時代の様々な闇に触れて生きてきた二人にとっては、いろんな感情が無意味に感じるのだろう。
 楸も少しくらいなら、理解できる。家族を失って、英に引き取られて、今までと違う生活に早く慣れようと、辛さや悲しみを押し殺して頑張ってきた。
 努力の甲斐あって、楸はそれなりに楽しく暮らせている。
 だが、宵たちは違うのだろうか。
 人間になって、以前より生活に苦痛を覚えていたとしたら、力を封印した側として、罪悪感を覚える。
「でも今日は、いい日だった。楸と久しぶりに、話ができた」
 宵の表情が、穏やかに緩む。
「最近の楸は、ずっと、忙しそうだったしな。周りも五月蝿い奴が多いから、なかなか声が掛けられなかった」
 宵も、風当たりは悪くないとはいえ、学校の生徒たちからあらゆる行動を注目されて、監視されていると気付いていた。
 転入初日に、朝や椿と、生徒たちのやり取りを見ていたから、変に楸に近付きすぎると、今度は楸が嫌な目に遭うと思い、遠慮してくれていたらしい。
 宵はいつも、さりげない親切で、楸を守ってくれる。行動の真意に気付く度に、楸の胸は締め付けられた。
 時々、申し訳なく思う。
 本当に、楸には、宵にこんなに想われる資格があるのだろうかと。
 でも今日は不思議と、素直に宵の好意を喜べた。
「楸が周りの奴らに隠し事してたって、責めないし、話したくないなら聞かない。……本当は聞きたいけど、俺だって、楸に話していない過去は、たくさんあるからな。互いに何もかもを知るなんて、無理だ」
 宵も、楸がみんなとは別の目的で行動していると、薄々気付いていた。確信があれば、一番に問い質してくる相手だと警戒していたが、意外にも宵の態度は控え目だった。
「でも、楸には四季姫の仲間や、優しい母さんもいるんだ。あんまり危険な真似をして、心配させるなよ。楸に何かあったら、みんな辛い思いをする」
 楸は少し目を伏せて、頷いた。
「気をつけます。宵はん、おおきにどす」
 素直に、お礼が口から出た。微笑んで見せると、宵の頬が少し上気していた。
 夕方になり、宵は帰り支度を整えた。
 玄関で英と一緒に、見送る。
「じゃあな。また、学校で」
 手を振り、宵は帰って行った。
 夕焼けに照らされながら飄々と歩く、宵の後ろ姿を眺める。
 不意に、英が楽しげに笑った。
「かっこいい子やったねぇ。私も、あと二十年若かったらなぁ」
「本気で言うとるんどすか?」
 楸は驚いて、英の顔を見上げる。まんざらでもなさそうな表情だった。
「本気よぉ? 周も、月夜君に惹かれとるんやろう? 幸せそうな顔して見てたやないの」
「私は、そないなつもりは……」
 否定するが、完全にしきれない。急に、顔が熱くなった。きっと、夕日のせいだ。
「月夜君も、周を優しい目で見てはったわ。大切に思うてくれてるんやねぇ」
 英の言葉が、自然と楸の心に染み渡っていく気がした。
 心の奥でまで、否定はできない。
 宵は楸の、大切な人だ。
 だから、今の平穏な生活を、壊したくない。
 再び楸は気合いを入れ直した。
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