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第二部 四季姫進化の巻

第十四章 春姫進化 10

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 十
 記憶に叩き込んだ地図を頼りに、椿は悪鬼の住処に通じる山へと足を踏み入れた。
 人里から離れて山道を進むにつれて、感じ慣れた人間世界の気配は薄れ、妖気がじわじわと、濃くなってきた。
 この先は、椿も見知らぬ危険な土地だ。いつ、何が起こるか分からない。
 悪鬼や妖怪から急襲を受ける可能性もある。椿は春姫に変身して、周囲に気を配りながら慎重に進んだ。
 人の手で作られた山道を進んでいくと、やがて行き止まりに辿り着いた。山の所有者や、管理をする業者が入ってくる、最奥の場所だ。
 この先に進むために、妖怪たちが作った秘密の抜け道を使うのだと、梓は話していた。
「たしか、悪鬼の住家に向かう入口は、この辺りのはずだけど……」
 あたりを隈なく探すが、道なき道の発見には、骨が折れる。ちょっと木々の隙間を覗こうとすると、枝に邪魔をされて奥まで見えない。まるで、意図的に進入を拒まれているみたいだ。
 山奥の森林地帯は、空間全体が妖気を帯びている気がした。ずっと同じ場所にいると、背筋がぞくぞくして、凍えそうになる。
 ふと、この辺りの木々も、妖力を宿した妖怪なのではないかと思い至った。だとすれば、侵入者を阻むために、あえて道を隠している可能性もある。
 なら、椿の術が通用するかもしれない。
 椿は笛を構えて、音色を奏でた。植物は音に敏感な生き物で、良い音楽を聴かせると成長が早くなったり、より美味しい果実や野菜を実らせることもできると、以前テレビでやっていた。
 ならば、その逆も有り得るはずだ。
 椿が選んで演奏した曲は、不協和音を含む、相手の神経を悪い方向に刺激する音楽だった。実際に吹いている椿さえも嫌悪感を覚えるほどの、酷い音だ。鼓膜を震わせる度に、嫌な汗が体中から噴き出してくる。
 暫く吹き続けていると、周囲の草木がざわめきはじめた。まるで気を失ったみたいに萎れはじめ、枝や葉が地面に向かって項垂れた。
 成功だ。動かなくなり、活気を失った植物の隙間から、探していた隠し通路が姿を見せた。
「どうよ! 椿だって、やればできるんだから」
 椿は汗を拭い、一人で成功を喜んだ。
 先へ進もうとした時、上空から妖怪の気配がした。
 見上げて身構えていると、烏の妖怪――八咫と、妖怪の姿に戻った宵が、黒い翼をはためかせて降りてきた。
「やや、お主は春姫どの! お一人で、何をしておいでか」
 椿の目の前に着地した八咫が、驚いて尋ねてくる。
「八咫ちゃんたちこそ、何をしているの?」
「我らは楸どのに頼まれて、悪鬼の住家と隠し村の様子を探っておったのである」
 確か、楸が八咫に調査を頼むと話していたな、と思い出した。さっそく、駆り出されているらしい。
「悪鬼の居所は無事に発見できたのだが、なぜかその場所から朝月夜さまの気配まで感じ取ったので、何やら雲行きが怪しいと思い、さらに詳しい様子を調べておった次第で」
「朝ちゃんは、悪鬼たちのところへ行ったのよ」
 不審がっている八咫に、椿は朝の行動を教えた。八咫はしばらく唖然としていたが、やがて驚いた鳴き声を上げた。
「悪鬼の元に、お一人で行かれたのか!? 何と危険な!」
「朝の行方を知っていて、引き止めなかったのか」
 宵が八咫の隣にやってきて、椿を睨みつけた。強く責める口調だ。
「無理よ。椿、朝ちゃんに攻撃されて、気を失っていたんだから」
「朝月夜さまが、春姫どのを襲ったと仰るか?」
 負けじと椿が弁明すると、八咫は「信じられない」と困惑していた。宵はますます、表情を歪めた。
「お前、朝に何を言った?」
 宵は意を決した様子で、問いを切り出してきた。
「最近、朝の様子が、おかしかった。ずっと、何かを思い詰めている感じで」
「どうして朝ちゃんがおかしかったら、椿のせいになるの? 椿が悪いっていうの!?」
 思い当たる節は十二分にあるが、一方的に決め付けてくる態度は気に入らない。椿は真相を隠したまま、言い返した。
「他に理由なんて、考えられるかよ。あいつを振り回して困らせる奴なんて、春姫しかいないんだ。今も昔もな!」
 飛んできた返事は、なんとも理不尽なものだった。なぜ、春姫なら朝を振り回すと決まっているのか。
「そんな意味の分からない理屈で、決め付けないでよ!」
 謂われのない中傷を受け、腹を立てた椿は、宵に当たり散らした。
「だいたい、朝ちゃんが悪いのよ! 妖怪と戦える力を取り戻しているのに、妖怪に襲われても戦おうとしなかった。朝ちゃんが戦いを嫌って、人としての生活を選んだなら、それでも構わなかったわ。でも、身を潜めるなら、その態度に相応しい遠慮や言動ってものがあるでしょう!? 何もしないくせに、偉そうに場を仕切ったり、必死で頑張っている妖怪を弱いものいじめするから、許せなかったのよ!」
 怒りで頭に血が上り、椿は心の中に溜まっていた不満を、全て口に出してぶちまけた。
「だから、朝を責めたわけか。ふざけるなよ! あいつが怖じけづいて、戦いから逃げたとでも思ってんのか!」
 黙って椿の文句を聞いていた宵が、反対に椿を怒鳴り付けてきた。椿は口を噤んで、怯む。
「いいか、朝が持っている悪鬼殺しの力は、悪鬼と戦うための最後の切り札なんだよ! 四季姫が禁術を会得すれば、悪鬼と対等に渡り合える力は手に入る。だが、その力を持ってしても、悪鬼をこの世から消滅させるなんて不可能なんだ。朝の協力があってこそ、悪鬼を完全に倒せるんだよ! だから、朝の居場所も、力を取り戻している事実も、悪鬼たちに知られるわけにはいかなかった。朝はずっと、力を抑えて気配を消し、時期を見計らっていたんだ。お前たちの力になりたい気持ちを押し殺してな!」
 宵の激しい剣幕と、予想外の内容に、椿の口は完全に塞がれた。
 朝が力の復活を隠して、妖怪との戦いを避けてきた理由は、単純に争いを嫌っていたわけではなかったのか。
 椿の中で、朝の印象が、次第にぶれ始めた。
 今までの思い込みと、宵から聞かされた話。どちらを信用すればいいのか、分からなかくなってくる。
「そこまで慎重になっていた朝が、急に慌てて動き出すなんて、お前が何か言ったとしか考えられねえよ。朝は、お前の期待に応えるために、一人で悪鬼たちの住処に行ったんだ。――死ぬ覚悟でな」
 体が、大きく震える。宵の強い口調が、椿に衝撃を与えた。
「死ぬ、なんて……。だって、朝ちゃんは、強いんでしょう? 悪鬼と戦う力を、持っているんだから」
「いくら悪鬼殺しの力を持っていたって、十体もの悪鬼と戦って、無事で済むと思うのか!」
 椿の心臓が、激しく高鳴る。
〝白神石の封印から、解き放たなければよかった〟――。
 勢い任せに責めた、あの時の言葉が、きっと朝の行動を変化させた。
 朝は封印が解かれたせいで起こった異変の責任を、全て一人で負うつもりなのか。
 朝一人が犠牲になって事態が収まれば、誰も辛い思いをしなくて済んだ。
 学校で口にした言葉を、完璧に実行するつもりなのか。
「どうして、そこまでするのよ。椿の言葉なんて、聞く必要、ないじゃないのよ……」
 椿の意見なんて、誰も真剣に聞いてなんかくれない。だから朝も、同じだと思っていたのに。
「朝は、封印から解放されたきっかけを作ったお前に、感謝してんだよ。だから、何を言われても逆らわずに、遂行しようとするんだ。お前だって、朝なら何でも言うことを聞いてくれると思ったから、調子に乗って我儘を言ったんじゃないのかよ!」
 違う、と言いかけて、口を閉ざした。
 思っていなくても、結果的には宵の言う通りだ。
 椿は朝に甘えていた。朝は強くて優しいから、何を言ってもいい、どんな感情をぶつけても構わないと、どこかで軽く扱っていた。
 その結果、椿は朝を、死地に送り込んだ。
 項垂れた椿は、頭が真っ白になっていた。
「朝の親切を、当たり前だなんて考えるなよ。千年前、白神石の封印の中に自ら入ったってだけで、あいつの性格は想像がつくだろう。どんなに危険だろうと、朝は恩義に報いるためなら、命だって簡単に捨てようとする奴なんだ。命を差し出さなきゃ、恩を返せない、とさえ思っている。認めてもらえないと思っている。……朝を追い立てる言葉なんて掛けたら、どうなるかくらい理解しておけ」
 椿の体から、力が抜けた。
 椿が酷い言葉を掛けたから、朝は怒って、椿を軽蔑したのだと思っていたのに。梓を連れ去って悪鬼の場所に向かった理由も、妖怪を助けようとしている椿への嫌がらせだと思っていた。
 けど、朝は椿に対して、何の恨み言も吐かなかった。最後まで、椿を助けようとしてくれていた。
 朝の純粋で清らかな心は、椿の怒りや憎しみで汚れた心では、決して理解できなかった。
 醜い感情に支配されて、大切な人の気持ちを汲み取れなかった。
 椿は、最低だ――。
「八咫、悪鬼の調査、後は任せる。楸にも早めに報告をしてくれ。俺は朝を探す」
 返す言葉もない椿を横目に、宵は鼻を鳴らして翼を羽ばたかせた。
「御意!」と張り上げた八咫の返事を聞き届けてから、宵は上空に飛び上がり、再び椿を睨み付けてきた。
「朝の身に何かあったら、俺はお前を絶対に許さねえからな!」
 最後のの言葉が、椿に痛く突き刺さった。椿の反応には見向きもせずに、宵は飛んで行った。
 椿は膝を折り、地面に手を突いた。
 反動で、懐から白い封筒が、はらりと地面に落ちた。
「春姫どの、何か落ちましたぞ。……文ですかな」
 八咫は封筒を拾い上げ、椿に差し出してきた。
 ――朝が残して行った、手紙。
 椿は茫然と、その手紙を見つめた。
 封筒の表書きを見た八咫が、不意に呟いた。
「この文字は、もしや朝月夜さまからの?」
 達筆な文字を容易く読む八咫を見て、椿の気持ちが急に昂った。
 八咫は烏の妖怪だが、日本のあらゆる人語や文法も理解している。昔の言葉も現代の言葉も、自在に操れるはずだ。
「八咫ちゃん、この手紙、椿が読めるように現代文で書き直せる?」
「はあ、現代の文字は、宵月夜さまたちの勉学を見て心得ておるが」
 その返事を聞き、椿は八咫にしがみついた。
「今すぐ直して、お願い!」
「わ、分かり申した……。では、失礼いたして」
 椿の勢いに圧され、八咫は手紙を開いた。懐から取り出したノートに、その内容を翻訳して書き始める。
 サラサラと筆を動かし、便箋にびっしりと書かれていた古文は、あっという間に現代文に変換された。
「春姫どの、朝月夜さまからの文、現代の言葉に書き直しましたぞ」
 椿は素早く、八咫の手からノートを奪い取った。
 椿の勝手な想像、宵の話。
 何を信じればわからない以上、朝の残した言葉だけが、唯一の真実だ。
 椿は瞬きも忘れて、手紙の文章に食い入った。



『――あなたが僕を封印から解放してくださらなければ、今の僕は存在しませんでした。あの、永遠に続く闇の世界で、何もできずに力尽きていくだけでした。あなたの行いは、僕にとって最大の救いです』

 前半は、感謝の言葉がが綴られていた。宵が言った通り、朝は椿の言葉によって助けられた事実、悪鬼の封印から解放されてから送れるようになった、人間としての生活を、とても喜んでいた。

『――いつも温厚で心優しいあなたが、あれほどに激しい憤りを見せるとは思いませんでした。僕の態度はそれほどまでに、あなたの心を怒らせ、傷つけたのでしょう。とても、後悔しています』

 後半は延々と、椿を怒らせた件に対するお詫びが書かれていた。だが、朝の言動に、どんな理由や事情があったのか、言い訳がましくなりそうな内容は、何一つ書かれていなかった。

『――ですが、好都合でもありました。僕に愛想を尽かしたあなたなら、僕がこの先、この世界から消え失せても、きっと悲しまずに済むでしょう。僕の喪失をあなたが引き摺るのではのではないかと、そればかりが気懸りでしたから、少し安心しています』

 書かれている内容は、椿の心を案じて心配する言葉と、朝自身を中傷する言葉ばかりだ。
 どうして、酷い言葉をぶつけた椿を責めないのか。
 恨み言の一つでも書かれていた方が、よっぽどましだった。
 なのに、読めば読むほど、朝の言葉から、温かい感情が伝わってくる。
 椿に向けた、愛おしい想いが広がっていく。

『――あなたに見限られようとも、僕はあなたを想い続けます。死んでも、愛し続けます。忘れないでほしいなどと、欲は言いません。願わくば、戦う必要のなくなった平和な世界で、あなたが穏やかに、幸せに過ごせることを、祈っております』


 初めてもらった、大切な人からの手紙は、恋文であり、遺書だった。
 最後まで読み終わり、椿は顔を上げた。涙で、前が見えなかった。
「朝月夜さまは、心から春姫どのを慕っておられたのであるな。だからこそ、命を賭けるお覚悟で……」
 八咫の、しみじみとした声が聞こえた。椿は勢いよく、手紙を書き写したノートのページを握り潰した。
「ああっ、我の、のーとがぁ!」
 ノートを、遠くに投げ捨てる。八咫が半泣きで、回収に向かった。
 椿は立ち上がり、着物の裾で涙を拭って、まっすぐに歩き始めた。
 幸せになんて、暮らせるわけがない。
 椿の大切な人の存在なくして、椿を大切にしてくれる人なくして、穏やかな生活なんて、最早あり得ない。
 伝えなくてはいけない。手紙の返事、椿の気持ちを、全て。
 木々の間に姿を見せる、悪鬼の元へと続く仄暗い獣道に、椿は足を踏み入れた。
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