上 下
218 / 336
第二部 四季姫進化の巻

十六章Interval~悪鬼と綴る物語・触り~

しおりを挟む
 手紙の返事を受け取った日の夜。
 響は再び、四季が丘病院を訪れた。
 伝師綴の病室には結界が張ってあり、悪鬼である響は中に入れない。従って、綴が響の手紙の要請を受けるのであれば、綴のほうから外に出てきてもらわなければならない。
 だが、綴は足が不自由で、一人で歩ける体ではないし、病院関係者や家の人間にもある程度監視されているから、人目につく外出方法は使えない。
 そこで綴から、窓から外に出ると提案がきた。響に病室の窓から綴を連れ出して欲しいという。
 響は手紙に書かれていた指示に従い、建物の側に生える大きな銀杏の木に登って、綴の部屋の側で待機した。
 約束の時刻より少し前。綴は響の気配に気付き、窓を開け放った。腕の力を巧みに使い、綴は上半身を窓の外に突き出した。響は綴の脇を掴んで、一気に引っ張り出した。
 その後は、早かった。響は綴を担ぎ上げて、地上高く飛び上がった。悪鬼の邪気を最大限に活用して上空を流れる気流に乗り、素早く本拠地の山まで移動した。
 晩秋の夜風は冷たい。人間の体には堪える。できるだけ時間と負担を掛けずに相手を招こうという、響なりの気遣いだった。
 キャンプ場の外れにやってきた響は、大きな切り株に綴を座らせた。病院の寝間着に上着を羽織っただけの綴は、やはり寒そうにしていた。響は側に薪を焚き、暖をとらせた。
 少し落ち着いてきたところで、響は丁寧に、綴に頭を下げた。
「こんな山奥までくれば、邪魔は入らない。改めて、ご挨拶を。再びお目にかかれて、光栄ですよ。伝師綴くん」
「傘崎響さん、でしたね。この度は、お招きいただき、ありがとうございます」
 綴も、落ち着いた様子で会釈を返してきた。覚悟を決めてきただけはある。非常に冷静な態度だった。
「殺風景な場所ですが、ご容赦ください。私はずっと、根無し草の生活を続けているものですから」
「お構いなく。贅沢な歓迎を受けられる身だとは、微塵も思っていません。あまり、この場に長居する気もないのです。さっそく、本題に入りましょうか。――神無月萩という者について、僕から詳しく聞きたいのでしたね」
 響の社交辞令の台詞を軽くあしらい、綴は言葉の重みを深めていった。
「お話の前に、僕からお訊ねしてもよろしいですか? どこで、そいつの存在をお知りになったのです?」
 響から神無月萩の名が出てきた事実が意外であったのだろう。綴は先手を打って訪ねてきた。
「山の中で、重傷を負っているところを助けました。今も、私が保護をしています」
 隠す理由もない。響は正直かつ簡潔に説明した。
「ならば、そいつ本人に話を聞けばよろしいのでは?」
 冷たく切り返してきた。綴が萩の話題を口にする時は、妙に棘を感じる。普段の綴の口調について詳しく知っているわけではないが、挨拶を交わしていた時と比べると、明らかに声色が変化している。
 萩について、綴自身の口から話をしたくない、という態度の表れなのだろうか。だが、逆に考えれば、綴が確実に、萩について詳しい事情を知っている証明にもなる。
「あの娘は、何も語りません。ただ、自分自身が秋姫であると、そう繰り返すばかりだ。まるで、そう言い続けろと、誰かに命じられているみたいにね」
「なるほど」
「君が、あの娘にそんな行動をとれと、暗示か何かをかけたのではないですか?」
 もう一押し。響は少し挑発気味に、言葉を押し出した。
 その言葉を聞いた綴は、響の意図を察したらしい。だが、動じも驚きもせず、困った表情を浮かべた。
「何やら、大きな誤解をされているらしい。断言しておきますが、僕に他者の心を操作する力などありませんよ」
「ならば、あの娘は最初から、あんな状態だったと言うのですか?」
「いいえ。初めてあの悪鬼が僕の前に現れた時、奴は、生まれたばかりの赤ん坊同然だった。名前も人格も、何も持たない、まさに無に等しい存在だった」
 綴の話を、響は率直に理解できなかった。
「何も持たない、悪鬼……? どういう意味です。どこから、現れたのですか?」
 響が不審な目を向けると、綴は薄ら笑みを浮かべて、綴自身の胸に手を当てた。
「僕の中からです。僕の心の中で育ち続けてきた、あらゆる邪心が形となり、肉体と精神を持った悪鬼に進化したのですよ」
「信じられない。人間の中から、全く別の個体である悪鬼が生み出されたと? そんな話は、今まで聞いたためしがない」
 悪鬼の出現方法は、様々だ。悪鬼に魅入られ、身も心も支配された人間や獣が悪鬼と化す場合もあれば、悪鬼の同族や他族との交配によって生み出される血縁も存在する。
 だが、悪鬼以外の生き物が、新たな個体としての悪鬼を生み出すなど、在り得るのだろうか。
 綴の作り話だろうかと、邪推もした。だが、綴の表情からは、響を騙そうとする澱みや気配は感じれられない。生物の気の流れを敏感に感じ取る、悪鬼でさえ見抜けないほど巧妙に隠しているわけではない限りは、事実と考えたほうが良さそうだ。
 いちおう、真面目な話として聞いておいた方が良さそうだ。響は綴の話に集中した。
「普通の人間ならば、絶対に起こり得ないでしょう。悪鬼を生み出す原理について詳しく語るには、僕たち伝師一族の闇の歴史を知っていただなければなりません」
 響の対応の変化に気付いたか、綴も少し雄弁になった。
「あなたほどの悪鬼ならば、ご存知でしょう。伝師一族は、悪鬼と交わることで悪鬼の血を引く人間を生み出して力を得てきた、呪われた家系です。僕を含む伝師の人間の体内には、人間と悪鬼の血が混ざり合って、脈々と受け継がれているのです」
 響は相槌を打った。伝師一族の起こりや、繁栄を遂げた経緯の裏側に潜む邪な要因は、千年前の平安時代から側で見続けてきたから、よく知っている。
「伝師は平安時代中期の頃より、その悪鬼の力を用いて神通力を駆使し、陰陽師としての絶大な地位を築いてきました。今では、その力は、ほとんど失われ、せいぜい先見や夢見といった能力を持つ者が稀に現れるだけとなりましたが、今も尚、悪鬼の血は我々の中で生き続けています」
 綴は胸から手を放し、ゆっくりと掌に視線を落とした。
「伝師一族に流れる悪鬼の血は、激しい怒りや憎しみ、嫉妬の念など、あらゆる負の感情を吸収して成長を遂げます。やがて、血の中が邪気で満たされると、人の体に適応できなくなり、体外に排出されるのです」
「悪鬼そのものに意思がないから、人間を支配して乗っ取ることができないのか」
 いくら血が混ざり合おうとも、悪鬼と人間は相容れない存在同士だ。普段は人の血の支配力が大きいから共存できているが、悪鬼の力が弱まれば、拒絶反応を起こすのだろう。
 響には実例を目の当たりにした記憶はないが、在り得ない話ではなかった。
「外に追い出された邪気の塊は、宿主とは全く異なる命と肉体を形成します。――すなわち、悪鬼となってこの世に誕生するのです。神無月萩は、僕の中に流れる悪鬼の血が生み出した、新たなる悪鬼なのですよ」
 最期まで話を聞き、響の中から反論は消えた。一般的な悪鬼とは違う派生方法で生み出された、新しい悪鬼。
 萩がその存在に該当すると、今なら素直に受け入れられた。
 生まれたばかりの何も持たない、無の塊であった悪鬼が、如何にして神無月萩になったのか。
 一息ついて、綴は話を続けた。
「その悪鬼は、己の存在意義のなさに怯えていました。自分が誰で、どんな行動をとり、どう生きていけばいいか分からない。その現状が恐ろしいと言ったのです。別に望んで生み出したわけではないものの、それなりの責任は果たすべきだと思いました。だから、何も持たないその悪鬼に、色々と設定を与えたのです。名前や性格、容姿、この世で生きていくための、目的などを」
「では、君が作って与えた人格が、神無月萩なのですね?」
 再確認すると、綴は軽く頷いた。
「僕が言うが侭に、設定通りの姿に変化していく様子には、驚かされました。だが、非常に興味深く、楽しかった」
 綴は実に楽しそうに、当時を思い出していた。
 望まれたから、生み出した責任をとって悪鬼に人格を与えた。その理屈は分かる。
 だが、なぜ、四季姫なんて、偽物だと分かればその存在意義を失ってしまう、限定した人格を与えたのか。単純な人間の設定では、いけなかったのだろうか。
 わざわざ、萩が誕生した当時、現れていなかった秋姫になれと命じた辺り、何かしら四季姫の存在に対して干渉しようと目論んでいたのではと、予測はできる。
 だが、この際、綴の脳内に巡る考えには触れずにおいた。詳しく聞いたところで、この男の考えや発想は、響には理解できそうにないし、萩の件以外は今のところ、興味がない。
 萩についての話を続けるほうが先決だと思い、口を開いた。
「以上の経緯から、君は萩という人格を悪鬼に与えたのですね。ですが、萩を人間として扱ってしまった点が、間違いだった。あの娘は悪鬼なのです。悪鬼としての生き方を知らなければ、この先、長く生きていけません」
 響は悪鬼側の観点から導き出した結論を、綴に明かした。綴は無表情のまま、黙って話を聞いていた。
「その偽物の記憶を取り払い、元の状態に戻す方法は、ないのですか? 私は、あの娘に悪鬼としての本来の姿を取り戻させたい」
「それは、つまり、神無月萩としての人格全てを消去する、という意味ですか?」
 ようやく本題を伝えた響に、綴は質問を返してきた。
「必要とあらば。神無月萩の人格が、悪鬼として生きるための枷となるのなら、消してしまわなければなりません。人格を作り出した君なら、消すことも容易くできるのではないですか?」
「できますよ。今までにだって、何度も消そうと思った」
「なぜ、消さなかったのです」
「拒まれたからですよ。あの化け物は、人間でいたいらしい」
 綴は、呆れた様子で鼻で笑った。
 萩が、人間としての短い生を望んでいるとでもいうのだろうか。
 信用できず、響は再び、不審な視線を向けた。
「疑うならば、直接訊けば良いのでは?」
 綴は響から目を逸らし、側の杉の木の茂みに視線を向けた。響も倣って、同じ方向に向き直った。
 木にもたれかかって、怯えた表情でこちらを見ている少女が目に留まり、驚く。
「萩……? いつから……」
「あなたの後ろで、ずっと我々のやり取りを見ていましたよ」
 平然と、綴は言ってのける。萩が聞いていると知った上で、真相を淡々と語っていたらしい。
 動揺している響を揶揄(からか)っているのか。
 何とも形容し難い、複雑な心境だった。馬鹿にされた腹立たしさや苛立ちとは、また違う。
 内に秘めた思惑を見せようとしない、目の前の虚弱そうな男が、恐ろしく感じた。
 如何に真剣な表情をしていても、この男の言動には常に警戒が必要だ。
 慎重になっている響を尻目に、綴は萩に向かって大きな声を飛ばした。
「お前の命の恩人さんは、お前の記憶を全て消してしまいたいそうだ。僕は構わないが、お前はどうする?」
 何とも唐突な問いかけだった。萩は大きく肩を震わせ、血の気のない真っ青な顔で、綴と響を交互に見ていた。
「アタシの人格を、消す……?」
 呆然と呟く萩に、響は頷いて見せた。
「神無月萩としての人格を捨てれば、君は、本来の姿に戻れるんだ。何の意味もない使命に縛られる必要もないし、消えそうになる苦しみからも、解放される」
 萩の正体が分かった今、もはや響の中に、萩と接するための迷いは存在しない。本当の姿を理解させ、あるべき状態に戻してやる。何も分からず悩んでいた頃に比べれば、簡単なものだ。
「最初の状態に戻るんだよ。何もなかった、あの状態に。そのほうが、幸せなんだそうだ」
 綴も響の考えに賛同しているのか、背中を押してきた。
 だが、響たちが正しい考えを推せば推すほど、萩の表情には恐怖と苦痛が刻み込まれていった。
「アタシの幸せを、勝手に決めるな! アタシは、秋姫なんだ。まだ戦える!」
 萩は、響に向かって裏返りそうな声で怒鳴りつけた。事実が分かったところで、萩の中に刻まれた暗示は解けない。
 なぜ、そこまで人間で、四季姫であろうと固執するのか。やはり、綴によって何らかの記憶の操作をされていると考えるべきなのか。
 結論を出しかねていると、綴が冷ややかな口調で萩を諭した。
「四季姫はもう、既に揃っている。どうせ、もうお前に秋姫としての存在意義なんて、ないんだ。この男が望むように、元の姿に戻ればいいんじゃないか?」
「嫌だ、アタシは、神無月萩だ! 誰が何と言おうが、人間だ!」
 だが、萩は綴の言葉さえもを拒んだ。綴の意のままに操られているのなら、綴の発言に対して従順であるはずだ。
 綴の発言に対しても反発するのなら、萩の口から吐き出される言葉は、偽りのない本心なのか――。
「もう、あんな場所に戻りたくない。何もない、何も分からない世界に行きたくない!」
 萩の必至の悲鳴が、周囲に反響する。怯えを多量に含んだ表情が、なんとも弱々しく、儚げだ。
 きっと、萩にとって、人格を持たず、己の正体が分からない状況とは、狂い叫ぶほど恐ろしいものだったのだろう。特殊な環境下で、この世に生を受けた萩の苦しみは、響には分からない。
 とても、もどかしく、響自身に苛立ちを覚えた。
「お願いだ! アタシから、名前を奪わないでくれ! 使命を、なくさないで……」
 興奮して体力が奪われたのか、萩はその場に膝と手をついた。
 蹲って涙を流す萩を見て、何も言葉をかけられなくなった。
「こんな調子ですから、仮に記憶を消したとしても、悪鬼としての生き方を刷り込む前に、発狂してしまうかもしれない」
 萩の様子を眺めながら、綴は静かに結論を述べた。
 無理矢理、萩の記憶を奪ったとして、正気でいてくれる保証はない。
「たとえ偽物であっても、人格や存在意義に執着して、必死にしがみついている者を、それを奪ってまで生かそうとすることに、意味なんてあるんでしょうかね? あなたは随分と、残酷なことをなさろうとしているのでは?」
 綴は、響を見て嫌味な笑みを浮かべた。
 その瞬間、響は悟った。
 綴は最初から、分かっていたのではないだろうか。何も持たない生まれたばかりの悪鬼が、最初に手にする情報に強く依存してしまう事実を。
 悪鬼が悪鬼である事実を教えなければならなかったのに、わざと、人間の特殊な設定を与えて、萩の命を縮めて弄んだのではないのかと。
 その結論に至った瞬間、響は怒りに支配された。
「貴様、とんでもないことをしてくれたな。人間の分際で……」
 普段は隠しに隠している、悪鬼の本性が表に現れる。顔の姿も歪み、綴の目には恐ろしい悪鬼の形相が見えているだろう。
「僕は別に、この悪鬼を洗脳して、言いなりにして操っているわけではありません。こいつは勝手に、人間として生きていくべきなのだと、思い込んでいるだけです。自分で自分を、暗示にかけていると言ってもいいかもしれない」
 響の威嚇など、綴には通用しない。いかに殺気を飛ばそうとも、綴は平然とした表情を響に向けてきた。
 しかも、飄々とした笑みを浮かべたまま、更に不快な言葉を吐き捨てた。
「まあ、そう仕向けた張本人は、僕であると認めましょう。僕の中から生まれた存在だし、僕の好きにして構わないと思った。ちょっとした、実験や遊びの感覚だったのです。悪鬼に人間の感情を持たせれば、新しい生命が生み出せるかもしれない、という期待があったのですよ。でも結果的に、人でも悪鬼でもない、不完全で何の役にも立たない化け物を作り出してしまった。とんだ失敗作ですよ、そいつは。もう僕には必要ありませんので、あなたの玩具にするなり、好きに扱ってください」
 綴のその言葉を聞いた瞬間、響の腕が勝手に動いた。
 我に返った時には、綴の胸ぐらを掴んでいた。綴は朦朧とした表情で、意識を失いかかっていた。
 榎たちがその場に駆け付けなければ、きっと殺していただろう――。
しおりを挟む

処理中です...