上 下
222 / 336
第二部 四季姫進化の巻

第十六章 伝記顛覆 5

しおりを挟む
 五

 神無月萩は、綴が作り出した創作フィクション()――。
 奇妙な喩。物書きの綴には、相応しい言い回しかもしれない。
 まさに、物語を円滑に進めるために作り出した、都合の良い登場人物。萩を形容するには、うってつけだった。
 榎は絶句した。響から聞いた話は、紛れもない真実だったのだと実感させられた。
「相手は悪鬼とはいえ、人格も何も持たない、僕の分身だ。僕は僕に都合のいい人格や、生きるための設定を萩に与えて、偽物の四季姫を作り上げた。萩を使って、僕の人生を狂わせようとする、憎い四季姫を滅茶苦茶にしてやるためにね」
「どうして……そんな酷い……」
 あたかも、物語の構想を語るような話し方に、榎は自然と嫌悪感を覚えた。
 綴が萩を架空の存在だと割り切っていても、萩は間違いなく、現実に存在しているのに。
「たとえ悪鬼であっても、綴さんの中から生まれた存在であっても、萩はちゃんと自我を持って生きているんだ! なのに、操り人形みたいに扱って、いらなくなったら棄てるなんて、酷すぎる!」
 榎は怒鳴った。
 許せなかった。
 綴の行いだったからこそ、余計に怒りが大きかった。
 いつも聡明で冷静で、間違った道に進もうとする榎を優しく諭して止めてくれる。
 綴とは、そういう人だ。
 その綴が、榎にもわかる、残忍な間違いを平気で起こすなんて、信じられない。
 嘘であってほしいと、切に願った。冗談だと、笑いかけてほしかった。
 綴は笑った。だが、榎の望む笑顔とは、かけ離れていた。
 見たくもない、嫌味な笑みだった。
「あいつは元々、僕の命令を聞くために生まれたんだ。僕の指示に従って目的を果たせれば幸福だし、そのために命を失ったとしても本望。そういう生き物だったんだよ」
「違う! 利用されて、捨て駒として扱われる運命なんて、幸せなはずない!」
 榎の期待は、虚しく終わった。
 綴は本心から、萩を都合のいい道具としか見ていない。いくら違うと言っても、榎の声は届かない。
 悲しくて、辛かった。
 しかも、綴が萩を生み出した原因が、榎たち四季姫の存在なのだから、余計にやりきれない。
「君が、あんな悪鬼のために怒るなんて、意外だな。萩は、君たち四季姫の仲を裂き、滅茶苦茶にしようとしたんだよ。云わば君たちの敵であり、排除するべき存在だ。なのに、その邪魔者に同情するのかい?」
 綴は不思議そうに、訊ねてきた。
「違う。あたしは、悔しいんです。萩がなぜ現れて、あたしたち四季姫の輪を乱すのか、その理由をずっと考えて悩んできた。なのに、結局、その答に最後まで辿り着けなかった。その理由を知った今は、なぜか綴さんまで話に絡んできて、訳の分からない状態になって。もっと早く、真実に気付いていたなら、誰も傷つかずに済んだはずなんだ!」
 全てを知っていれば、萩があんなにボロボロになるまで戦い合わなくても済んだ。止める方法が、見つけられたはずだ。
 仲間を覚醒させて、危険な戦いに巻き込む必要さえなかった。
 それ以前に―?。
 榎は拳を握りしめ、毅然とした視線を綴に飛ばした。
「あたしの存在が―?四季姫が邪魔だったなら、どうしてもっと早く、教えてくれなかったんですか。真実を知っていれば、あたしはいつまでも夏姫であり続けようなんて、思わなかった! あたしが夏姫として戦うことが、綴さんの不幸に繋がるのなら―?」
 大声をあげる度に、榎の喉は苦しくなった。徐々に声が震え、嗚咽に変わっていく。
 堪え切れなくなり、榎の目に涙が滲んだ。
「陰陽師の力も、使命も、何もかも捨てたのに! 誰かを不幸にしてまで世の中の平和を守る必要なんて、なかった! 真実を知っていれば、あたしは夏姫なんかにならなかった!」
 榎は、悪い妖怪に苦しめられている人達を救いたかった。綴が、夏姫の正体を知った上で活躍を期待してくれたから、応援してくれたから、辛くても今まで頑張ってこれた。
 その支えが全て嘘だったなら。夏姫の存在意義なんて、ないに等しい。
 嫌いなら嫌いと、目障りなら目障りと、もっと早いうちに言ってほしかった。
 綴の本音を知っていれば、榎はいっさい迷わずに、身を引いた。仲間探しもしなかった。
 もっと早く、萩の行動の裏側に潜んだ、綴の行動に気付けていれば、萩も綴も、必要以上に苦しめずに済んだ。
 榎だって、こんなに辛い気持ちにならずに済んだ。
 なのに、今更になって崖から落とす勢いで突き放すなんて、残酷すぎる。
 綴が何を考えているのか、榎には分からなかった。榎の涙は頬を濡らし続け、留まらなかった。
「君がどんな性格の人間が、知らなかったし、知ったところで、そんな円満な解決方法では、つまらないだろう? 物語が盛り上がらない」
 そんな榎を無表情に見つめながら、綴は棒読みに台詞を紡いだ。
 榎は、ますます困惑する。つまらないとは、何だろうか。
 綴の目的は、四季姫が伝師の長の地位につかないように妨害することだけではなかったのか。
 他にも何か理由があって、こんな回りくどい方法をとってきたというのか。
「君の姿を初めて夢で見て、四季姫だと気付いたときから、ずっと考えていたんだ。どうすれば、僕の存在価値を奪おうとしている憎い小娘を、天国から地獄に突き落とせるか、ってね。人が絶望する瞬間は、どんな境遇に置かれたときだと思う? 心から信頼していた相手に、裏切られる時じゃないかな。僕はそういった、憎らしい人間が暗雲の中でもがき苦しむ姿を、ぜひこの目に焼き付けておきたかったんだ」
 綴の表情に、嫌みな笑みが浮かぶ。
 残虐な目だ。榎には、綴の瞳が濁って見えた。人の不幸を見て喜ぶ汚い人間の目に見えた。
「僕が君に親切にすればするほど、君は僕に心を開いてくる。きっと君の中で、僕は誰よりも信用に足る、かけがえのない存在になっていただろう。なのに、急に僕の態度が変わり、裏の顔が見えてきて、どう思った?」
 綴の問い掛けの答。
 苦しい。切ない。
 心の中にあふれて留まらない感情に苦しめられる榎の姿を見て楽しむためだけに、ずっと、榎に嘘を尽きつづけてきたというのか。
 表面では優しい笑顔を浮かべて、心の中で榎に憎しみをぶつけながら、全てを叩き壊す算段を練っていたというのか。
 怒りや苦しみを通り越して、怖くなった。
 綴という人間が、理解できなくなっていた。
「随分、怖がってくれているみたいだね。嬉しいな、僕の考えたストーリー通りだ」
 榎の顔色から感情を読み取り、綴はとても喜んでいた。
「本当は、もう少し時間を掛けて準備を整えた後、一気に絶望の底に突き落としてやりたかったんだけどね。萩の一件を知って、君が僕に疑いを持ったからには、効果は薄れる一方だから、少し急いだんだ。でも、結果としては満足のいく仕上がりだった」
「嘘でしょう? そんなこと、綴さんが思っているなんて、信じられない」
 内側から本能的に湧いてくる恐怖を押し殺して、榎は声を張り上げた。
 心の奥では、綴の言動に怯えているのに、榎の意志はまだ、綴を信じようと必死になっていた。
「萩に四季姫の絆をかき回されて、心が折れかかっていたあたしを、綴さんは助けてくれました。励ましてくれました。あたしたちを潰すことが目的だったなら、どうして手を差し伸べてくれたんですか」
 結果的に萩を打ち破れた勝因は、憔悴しきっていた榎を、綴が励ましてくれたからだ。綴の支えがなければ、決して萩に立ち向かえなかった。
 いくらでも、綴の思惑通りになったはずなのに。
「そう簡単に、逃げ延びてもらっちゃ、つまらないし。再び、萩と全力でぶつかれば、君は確実に潰れると思ったんだよ。それくらいやらなければ、僕の気は治まらなかったんだ。色々な偶然が重なって、失敗したけれどね」
「でも、あたしが萩に髪飾りを壊されて、戦えなくなりそうだった時、綴さんに力を分けてもらった気がしました。幻だったのかもしれないけれど、綴さんが目の前に現れて、励ましてくれた。だから、最後まで頑張れたんです。あの時、綴さんは、あたしを助けてくれたんじゃないんですか?」
「さあ、知らないね。人の妄想の力ってのは、怖いものだな。思い込みだけで、あんな馬鹿力が出せるんだから」
 あの時、榎を立ち上がらせてくれた綴の姿は、榎が綴に助けて欲しいと思ったから現れた、幻覚だったのだろうか。
 結局、榎が心から想い、慕ってきた綴そのものが、この世に存在しない、まやかしだったのか。
「僕は現在の長と、約束を交わしていた。『僕が十八になるまでに、四季姫たちが覚醒して長に相応しい力を得たなら、伝師一族の長に四季姫を据える。だが、四季姫たちの力が及ばなければ、従来通り僕が長となる』と。たとえ四季姫が覚醒して僕の前に立ち塞がることが変えられない運命だとしても、少しでも妨害をして、時間を稼げればいいと思っていた。色々、思いがけない出来事に振り回されもしたけれど、結果的には僕の思い通りになった。無事に、僕が伝師一族の当主となれる日がやってきたんだからね」
 話すだけ話して、綴は勝ち誇った表情を浮かべて、深呼吸した。
 続いて、車椅子の脇の机に置いてあった、大きく分厚い封筒を掴み、榎の足元に放り投げた。かなり重みがあるらしく、床に落ちた封筒は大きな音を立てた。
「完成したよ、四季姫の物語。君に、一番最初に見せると約束したよね。この物語を読めば、僕がどれだけ四季姫を憎み、恨んできたか、すべて分かる」
 榎はゆっくりと、足元の封筒に視線を下ろした。何もかかれていない、普通の事務封筒だ。
 この封筒の中に、綴が今まで榎を見てきた上で書き上げた全てが込められている。
 いままでの話を聞いた上で、決して良い内容がかかれているとは思えなかった。
「君は本当に一筋縄ではいかない、扱いにくい四季姫だったよ。全然、物語が僕の思い通りに動かない。原稿が進まなくて、苛立ったよ。実に不愉快だった」
 綴にとっても良い作品ではなかったらしい。舌を鳴らし、不機嫌な表情で話を切り上げた。
「僕からの話は、おしまいだ。君は? まだ僕に聞きたいことや言いたいことはある? 文句でも恨み言でも、今なら聞いてあげるよ」
 綴は榎をまっすぐ見つめてきたが、榎は目を合わせられなかった。俯いたまま、沈黙を守った。
「だんまりか。つまらない最後だな。これ以上、君といても時間の無駄だ。そろそろ、失礼するよ」
 深く息を吐き、綴は車椅子を操って、部屋の出口に向かった。
「さようなら、水無月榎。もう二度と、君の顔は見たくない」
 榎の隣をすれ違い様、冷酷な別れの言葉を吐いて、外に出ていった。
 最後まで、今までの綴るの優しい面影は蘇らなかった。

 * * *

 綴が出て言った後、榎は病室で一人、立ち尽くしていた。
 涙は既に涸れた。足元の封筒を拾い上げ、ずっしりと重量感のある綴の最後の置き土産を、無心で見つめていた。
「人身事故で、電車が止まってしまって。遅くなりましたわ。もう、お兄さまは先に行ってしまわれましたのね」
 背後から、急いだ様子で奏が飛び込んできた。
 一人立ち尽くす榎を見て、背後から声を掛けてくる。
「榎さん、御機嫌よう。お兄さまの退院のお話、急だったものですから何の説明もできなくて御免なさい。お兄さまには、お会いになりましたか? お話は、お聞きになりまして?」
 明るく尋ねてくる奏の言葉を、頭の中で反芻する。
「よく、分かりました……」
 綴の話を、全て頭の中で整理した。
 たとえ、榎に対する優しい態度が全て嘘だったとしても。
 心から榎を憎んでいたのだとしても。
 結果的に綴が満足できたのなら、榎にすべてを明かして、思い通りのシナリオを描けたのなら。
 それでいいと思った。満足しておこうと決めた。
「榎さん……? どうなさったのです?」
 奏は榎の様子を見て、心配そうな表情を向けてきた。
 奏は、綴の行動のすべてを知っていたのだろうか。なにもかも知った上で、口裏を合わせていたのか。
 もしくは、何も知らずに本心から榎たちと親しく接してくれたのか。
 分からなかったし、もう、どうでもよかった。
 声をかけてくる奏に構う余裕もなく、榎はフラフラと病院を後にした。
 どうやって寺まで戻ったのか、さっぱり覚えていない。
しおりを挟む

処理中です...