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第二章 奪い合う世界

4話 魔法から科学へ①

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 フォーリアム一門が中庭で修練に励んでいた最中、商人サフワン・エイジムが屋敷を訪れた。そして、日々喜を荷馬車に乗せると、そのままヴァーサ領を目指して出発して行った。
 警戒にあたる憲兵達が設けた関所を越え、イバラの森を抜け、領域の境界を越えた頃には昼下がりの時間帯になっていた。二人は揺れる馬車の中で、タイムに作ってもらったお弁当を食べた。
 ヴァーサ領の港街へと入ったのは、午後の中頃を過ぎた時であった。

 「なあ、本当にそれだけかな? もっと他に理由があるんじゃないか?」

 荷馬車の荷台から顔を出しながら、見覚えのある街並みをながめ続ける日々喜に対して、手綱を引き続けるサフワンが尋ねた。

 「あんなに短く切り込んじゃって、何か相当ショックな事があったんじゃないか?」

 オレガノの事だ。
 サフワンは中庭に顔を出し、髪を短く切り揃えたオレガノの事をその時初めて目の当たりにしたのだ。その為か、オレガノの事を気にする様子で、ヴァーサ領へ向かう道すがら、ずっと日々喜に同じような質問を繰り返していた。
 サフワン自身が相当ショックを受けていると言う事が日々喜にも分かった。

 「髪ならキリアンも切ったよ」
 「あいつは、どうでもいいよ」

 キリアンには、オレガノと全く対照的な反応を示す。
 自分より背の低いキリアンが、そんな髪形をしたら年下の小僧にしか見えない。そんな事を言いながら、本人の目の前でゲラゲラ笑い出していた。

 「それよりも、女の子が髪を切る何てよっぽどの事だろ。戦いに負けた事以外に、もっと特別な理由があったんじゃないか?」
 「例えば?」
 「……失恋、とか」

 日々喜は思案気に小首を傾げる。

 「皆、研究に一生懸命だったから、そんな時間は無かったと思うけど」
 「日々喜はそう言う所が疎そうだからなー。直ぐそばに居るんだから、しっかり見ていてやってくれよ」

 サフワンは溜息交じりにそう言った。

 「大丈夫だと思うよ。オレガノは営みを守る魔導士だから」
 「営みを守る?」

 日々喜の言葉が良く分からず、サフワンは聞き返した。
 「それに、オレガノもそう言う事は疎そうだと思う」
 日々喜は頷きながら応えた。

 「日々喜。お前はオレガノの事を知らないんだよ。アイツは、イバラでは結構モテる方なんだぞ」

 サフワンは再び大きな溜息を着いてそう言った。
 やがて、サフワンが手綱を引く荷馬車はクレレ邸の前に到着する。
 日々喜は荷台から降りた。

 「お客さんかな? 誰か居るみたいだ」

 同じく馬車を降りたサフワンが、庭先の木陰に佇む青年を見咎めてそう言った。青年は、庭に生える木を背もたれにしながら、本を読み耽っている。その恰好からどうやら魔導士のように見受けられた。

 「まあ、いいか。さっさと挨拶してこよう日々喜」

 サフワンと日々喜は門を通り、屋敷の玄関口へと向かった。そして、備え付けられている呼び鈴を押す。

 「留守かな?」

 二、三度呼び鈴を押し続けた所で、サフワンがそう呟いた。

 「あそこの人に聞いてみよう」

 日々喜が木陰で本を読む青年を示しそう言った。

 「ああ、うん。そうだね」

 サフワンは気乗りしない様子でそう言うと、そちらへと向かい始めた。
 直ぐそばまで近づいて来た日々喜達の存在に、青年は気が付く素振りも見せず、手に抱えた本へ視線を落としている。一頻りそのページを眺め廻すと、今度はその内容を確かめる様に、前のページへ行ったり来たりしながら、気が付いた事を本に直接書き込んでいった。
 時折り、その捗らない読書を急かす様に、穏やかな風が吹き本のページを捲ろうとする。その度に、青年は視線を落とすページを手で抑えつけ、風が落ち着くのを待ってから、乱れた自分の金色の髪をまとめる様に撫でつけていた。

 「あのー、すいません」

 サフワンが青年に話し掛ける。
 「クレレ会長のお知り合いの方ですよね? 会長はどちらに行かれたかご存知ですか?」
 青年は、視線を本から外し、その青い瞳をサフワンへと向けた。その顔を見て、日々喜はその青年の事を見た事があるのに気が付いた。
 青年はサフワンの話しが終わる前に視線を落とし、その足下をながめ始めた。
 質問に答えようとしない青年の様子を見て、自分の話が聞こえなかったのかと、サフワンは再び口を開く。

 「あ、あの! クレレ会長は――」
 「踏まないでくれるかな」

青年はサフワンの言葉を遮る様にそう言うった。

 「え?」
 「そこだよ。君はさっきから、僕の円を踏んでいる」

 青年はサフワンの足下を指差した。見れば、地面には魔法陣の図解の様なものが描かれている。サフワンの片足は、その内の一つに踏み込んでいたのだった。
 サフワンは慌てて、謝罪しながらその足を退けた。

 「気を付けてくれ。僕は研究中だ。邪魔をするのは許されないよ」

 青年はそう言うと、サフワンの質問に答える事も無く、再び本を開き自分の研究へと戻って行ってしまった。

 「は、はあ? すいませんでした」

 青年のその態度を見て、サフワンは呟く様にそう言った。
 いけ好かない奴。人を尋ねただけなのに。都会の魔導士はこんな奴ばかりだ。
 遠目から確認した青年の身なりから、何となく嫌な予感がしていたサフワンは、そんな事を思いながらも、黙ってその場を後にしようとした。

 「日々喜、行こうぜ。お勉強の邪魔しちゃ可哀そうだ」

 サフワンは耳打ちするようにそう言うが、日々喜は地面に描かれた図解に注目していた。

 「日々喜?」

 サフワンの言葉が耳に入っていないかのように、日々喜はその図解を踏まない様に、ぐるりと回り込み、本を読む青年の隣に近づいて行く。

 「これは、ベクトル和……?」

 日々喜の呟きを聞き、青年は怪訝な表情でそちらを見つめた。日々喜は気にする様子も見せない。
 図解は、青年と同じ方向からながめると、描かれている事柄が良く理解できた。
 それは、丁度球体が三つ並ぶようして描かれ、それぞれが左から右へと、時系列に沿うものである事を示す様に矢印が引かれていた。
 一番左の球体には、二つ断面を描く様に、傾けられた円が描かれている。丁度、午前中にマウロが描いてくれたものの様に、その円盤からは球体の中心に向かって向きを示す矢印が引かれていた。
 真ん中の球体は、左の物と同じ大きさの球と、それと同じ中心を持つ大きな球とが重なる様に描かれている。二つの球の間には、『拡張(Extension)』というあらましを示す様に矢印が引かれていた。
 簡略の為か、先に描かれていた二枚の円盤は消され、代わりに向きを示す矢印のみが残されていて、尚且つ、中心で結ばれるその二つの矢印によって成される平行四辺形が描かれていた。
 最後に、一番右の球体には成された平行四辺形上、球体の中心に対応する頂点を中心に、拡張された球体をスライスする様に、大きな円盤が一つ描かれていた。
 日々喜は特に真ん中の球体の図解に注目している。意味が何となく読み取れる。日々喜はそう思ったのだ。その為、身を屈め、顔を近づけてもっとよく見てみようとした。
 球体の拡張。そのあらましを示す矢印の脇には、説明書きが成される様に、この国で魔法言語と呼ばれる英単語が付記されていた。



 「インヴァースキューブ、ロー……。逆三乗の法則に従う?」

 日々喜はその説明書きを読み上げるように呟いた。

 「興味があるのかい、トウワ人君」

 青年が、屈み込む日々喜を見下ろしながら尋ねた。日々喜は見上げる様にしてそちらを振り返る。

 「君には少し難しいと思うよ」

 サフワンは慌てた様子で、日々喜の腕を引っ張り立ち上がらせようとする。

 「す、すいません。こいつも見習い魔導士なもので。ほら日々喜、邪魔しちゃまずいって」
 「見習い魔導士? トウワ人の彼がかい?」

 青年は珍し気に、日々喜の事を上から下までながめまわした。

 「そうですよ。こう見えて、日々喜はあのフォーリアム一門の見習い魔導士なんです」

 青年の馬鹿にした様な態度に、サフワンは少しムキになってそう言った。

 「フォーリアム一門? ああ、そうなんだ」

 青年は素っ気ない返事をした。

 「そうです。因みに、私はフォーリアム商会の商人、サフワン・エイジムと申します」
 「長岐日々喜です」

 主人の知名度を利用し、キッチリと自分の名前も売り込んで行く。サフワンはどんな時にも商人としての立場を忘れる事は無い。そして、日々喜もそれにつられて自己紹介をした。

 「クローブ様の事は聞いているよ。惜しい方が亡くなられて、僕も残念に思ってる。ただ、指導をされる方が居なくなった途端、一門に関わる人間のレベルがこうも下がる何て、正直驚きを禁じ得ない」
 「レベルが下がる? それ、どういう意味ですか」
 「言ったままだよ。魔導士の僕が研究に励んでいるのは見れば分かる事だろう。それを邪魔した挙句、断りも無く覗き込むなんて、礼儀以前に魔導士の何たるかを理解していないとしか思えない」

 サフワンは何も言い返せなかった。

 「まあ、僕は気にして無いけどね。一門の名前を出した以上、君達は気にした方がいいんじゃないかな」

 青年はそこまで言うと、再び本を開きそちらへ視線を落としてしまった。

 「申し訳ありませんでした……」

 意気消沈した様にサフワンは言葉をついた。

 「ごめんなさい。……あの、質問してもいいですか?」

 サフワンに続き、日々喜も青年に謝るが、直ぐに質問をし始めた。
 青年は溜息交じりに、日々喜の方に向き直る。

 「何だい? トウワ人君」
 「長岐日々喜です。あの、逆三乗の法則って何の事なのでしょう?」
 「それは、そこに書いてある……。君、魔法言語が読めるのかい?」
 「読めます」
 「ふうん。そうなんだ。修学の成果だね。ただ、言葉を知っていて、その意味を知らないのは謎だけど、まあ、いいさ。少しだけ解説してあげる」

 青年は興味を引かれた様に、本を閉じた。

 「これは、アトラスフィールドの拡張を示す図。魔力を込めれば込めるだけ、アトラスフィールドは大きく膨らむ様に拡張されて行く」
 「あの、すいません。アトラスフィールドって何ですか?」
 「知らない? 魔法陣の展開をやった事が無いのかな?」
 「あります」
 「だったら分かるさ。魔法陣を展開する時に球体をイメージするだろ。それが、アトラスフィールド。そして、その中心がアトラスポイントだよ。ここまでは良いかな?」
 「大丈夫です」
 「魔力を込めればアトラスフィールドは拡張される。球体の半径が増えるんだ。だけど、拡張の割合は送り込んだ魔力の量に対して反比例するのさ。それが丁度、魔力の量の逆三乗になっているんだよ」

 青年の言葉に日々喜は茫然とした表情を浮かべた。そして、すぐさま図解へと視線を移す。

 「魔力の量……、量に対して半径が増える。そして、逆三乗に従う……」

 日々喜は聞かされた話を反復するように呟いた。

 「少し難しかったかな? 落ち込む事は無いよ。これは学院で教わるレベルを越えているからね」

 青年はそんな日々喜の様子を見ながら慰めるような言葉を掛けた。しかし、自分の考えに耽る日々喜は、青年の言葉に応えようとしなかった。

 「へ、へー。そうなんですか。道理で私の様な商人にはさっぱりなわけだ」

 サフワンが日々喜に代わり、その場を取りなす様に話し始めた。

 「まあ、そうは言っても、すぐに思い至る事かも知れない。魔力を込められるアトラスフィールド、その球体の体積も、半径の三乗に比例して増える訳だからね。直感的に結びつき易い理屈でしょ」

 何も応えない日々喜、急に態度を変えたサフワンに対して、青年は説明を省く様に、適当な言葉であしらい始める。

 「なるほどー。ところで、貴方は高名な魔導士の方だったでしょうか?」
 「……どうかな」

 青年は、サフワンの言葉に笑みを浮かべながら、ただ一言そう返した。
 その立ち振る舞い、教養の高さから、サフワンは改めて、青年が只者ではない事を見て取る。これ以上失礼を重ねない様に、直ぐにこの場を離れた方がいいだろうと考え始めた。

 「それは、違うと思う」

 その時、それまで考えに耽っていた日々喜が言葉を挟んだ。

 「ば、馬鹿! 失礼な事を言うなって。こちらさんは間違いなく高名な魔導士の方だよ」
 「彼の事じゃなくて、直感的に結びつき易いって話し」
 「直感的?」

 慌てるサフワンをそっちのけに、日々喜は考え始める。
 仮に、時間の経過に伴い、一定量の魔力を送り込み続けると考えたらどうだろうか。直感的に考えれば、空気を送り込む風船の様に、球体の体積は時間の経過の定数倍で増えて行くはずだ。そして、風船の広がりは均等に球体の形を維持しながら広がって行く。
 重要なのは拡張の割り合い。注目すべきは球体の外側だ。
 日々喜は頭の中で、一通りのイメージを作り出した。
 そのイメージの中で、風船を膨らませ続ける。風船の表面積は広がり、風船のゴムの厚みは薄くなる。
 これが体積に依る球体の拡張のされ方。明らかに厚みのみが反比例している。この関係性を調べればよいだろう。
 そこまでのイメージをつかむと、今度は計算に移り始めた。
 風船の外周の半径r1、体積をS1、同様に内周の半径r2、体積をS2。ゴム自体の体積はV、その厚みをxとするならば、



 ゴムの厚みは、半径r2とr1の逆二乗に挟み込まれる。ここで、風船のゴムの部分を空気の増加量と考えれば、増加量に対する半径の拡張比率は、中心からの距離の二乗に反比例するのである。これは、先に挙げられた逆三乗の法則に反している。

 「アトラスフィールドの拡張は、あくまで魔力の量に依存している。空気を送り込めば風船が膨らむように、魔力を送ればアトラスフィールドも膨らむと言う事。だけど、風船とは異なる膨らみ方をする。それが、逆三乗の法則に従うと言う事だ」

 日々喜はそう言うと、自分の言葉が正しかったかを確かめる様に、頭の中で検算を繰り返した。そして、次々に沸き起こる閃きに思いを馳せた。
 万有引力の法則、そしてクーロンの法則。自分の生まれ育った世界を支配する力の法則は、どれも、距離の二乗に反比例する。これらは、科学者たちの血の滲む様な膨大な観測結果に基づき、定説化され、技術の進歩に多大な貢献を成して来たものである。
 しかし、その力の法則が何故存在しているのかは、永らく謎のままであった。転機が訪れるのは十九世紀の終わりから、二十世紀の初めにかけて。量子力学という分野が台頭した事による。それまで謎であった力の法則が、逆二乗の法則として説明が成されていったのであった。
 それは、人の知る世界。繰り返される観測と実験によって確かめられた現実の世界。物理の世界における法則の一つである。
 そして、もう一つ。
 万有引力の法則とは、言わずと知れたアイザック・ニュートンの輝かしい業績の一つであった。しかし、ニュートンがそこに行きつくまで、もう一人の天文学者ヨハネス・ケプラーの仕事も無視する事はできない。彼は、天体の膨大な観測データを下に、その惑星の軌道が楕円曲線に従う事を見出している。世に知られるケプラーの法則である。
 ニュートンが、このケプラーの法則から万有引力の法則を導いた事は疑いようが無い。そして、万有引力の法則からケプラーの法則が導き出せる事も知られている。
 つまり、逆二乗の法則に従うものは、楕円曲線(一般的に二次曲線(楕円、双曲線、放物線))上を動くのである。
 それでは、異なる力の法則に従うものは、どのような曲線上を動くのだろうか。そうした人々の好奇心は、思考上の演習に集約されて行った。
 そして、逆三乗の法則に従うものは、螺旋上をうごめくと言う事が見出されているのである。
 これも、人の知る世界。そうであっても現実には無く、あくまで思考上に許された人の思い描く世界。数学の世界における法則の一つであった。

 「コウミの言った通りだった。ここには違う法則が存在している。世界の全体ではなく、局所的な空間。魔法陣の中に、それが存在している」

 地面に描かれた図解に視線を落としつつ、日々喜は一人答えを出す。やがて、本人の集中を妨げる様に、二、三滴の血の雫が図解の中に落されて行った。

 「ああ、いけない……」

 誰にも聞かれない程、小さな呟きを漏らすと、日々喜は考えるのを止め、ポケットから出したハンカチで自分の鼻を拭い、血痕を消し去る様に足で地面を均した。
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