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第2話 脈打つ澪守
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男の声が、障子の向こう側から低く響いた。
「志乃。……また八坂へ行ったのか?」
問いかけの形をしていたが、ただ事実を確かめているだけだった。許すか許さないかを判断するための声。
私は息を吸い込んだ。泣きたくても泣けないこの癖は、こんなときだけは助かる。
目をぎゅっと閉じると、また違う匂いがした。
*
半年ほど前から、私は「匂い」に敏感になった。
消毒液。石鹸。ラテックス。それらが鼻に入ると、身体のほうが先に固まる。
復職して間もない頃、職員室の入口で誰かが手指消毒をしただけで、喉がきゅっと縮んだ。私は笑って「最近、強い匂いが苦手になって」と軽口を叩いた。
大丈夫。平気。その言葉を、私は口に出すのが上手になった。
離婚して半年。流産を経験し、手術を受けて、失った存在を胸の内に残したまま、紙の一枚で夫婦だったものを終わらせて。
それでも仕事は待ってくれない。季節は巡っていく。生徒は私の事情なんて知らないし、知る必要もない。
だから私は、普通の顔をした。普通の声で授業をし、板書して指名し、答案を返した。
「先生、これ合ってます?」
「大丈夫、合ってるよ」
それだけの会話が、どれほどありがたいか。"先生"と呼ばれると、私はまだ社会の中にいると思えた。
でも、ある朝。
大阪から京都へ向かう電車の中で、私は自分の指先を見つめていた。爪の形がいつも通りで、ほっとした。
その「ほっと」が、どこかおかしい。私は何に怯えているのだろう。
京都へ行こうと思ったのは、衝動だった。
職員室で次年度の予定表が配られた日。誰かが「今年も早いなあ」と言い、私は笑った。けれど笑ったあと、急に胸の奥が空になった。自分の笑い声が、遠い。
そのままスマホで「京都」と検索して、気づいたら有給申請の画面を開いていた。理由欄には「私用」とだけ書いた。
京都に着いたのは昼過ぎで、空は低い。冬の雲が、街の上に蓋をしているみたいだった。
私は人混みの輪郭から少し外れた場所を歩いた。歩きながら何度も考える。どうして京都なのだろう。どうして八坂なのだろう。
答えは出ない。出ないままでも、足だけがそこへ向かってしまう。
八坂神社の境内は、思っていたより開けていた。鳥居をくぐると、空気が少し変わる。街の匂いが薄まり、木と土の匂いが増える。
手水舎の水は冷たく、指先がじんと痛んだ。その痛みが、なぜか「生きている」感じがして、私はもう一度指先を見た。
平気。平気だよ、と自分に言い聞かせる。
拝殿の前に立って、私は手を合わせた。願いは、なかった。
ないわけじゃない。でも、願いの形にすると、途端に崩れてしまいそう。
私は頭を下げて、それから顔を上げた。ちょうどそのとき、鈴の音がした。別の参拝者が鳴らした音が、境内の空気を揺らす。
揺れた瞬間、胸の奥の扉がきしんだ。
(悼む)
言葉だけが浮かぶ。私はそれを追い払うように、授与所のほうへ目を向けた。
お守りを買おう。理由はそれでいい。何か形が欲しい。形があれば、持ち帰れる。
授与所は人が途切れず、けれど流れは早かった。
並んでいる間、私は列の前の人たちをぼんやり見ていた。縁結び。厄除け。学業成就。健康。みんな、欲しいものがある。
私は——何が欲しいのだろう。
自分の番が来た。並んでいるお守りの中で、ひとつだけ目が離せないものがあった。
淡い藤色の小さな巾着は、光の角度で少しだけ青くも見える。
——澪守。
文字が水に浮かんで、揺れて見えた気がした。
「……これ、ください」
声が出た。
掌に乗せるとひやりとした。冬のせい?
——違う。布の冷たさじゃない。もっと内側に触れてくる冷たさ。
私はお守りを握った。握った途端、なぜか指の腹が鋭く痛んだ。
授与所を離れ、境内を歩いた。私はお守りをバッグの内ポケットにしまった。
しまったはずなのに、掌にまだ布の感触が残っている。指先が、しびれているみたいだった。
八坂の石段を下りるとき、私はふいに足を止めた。
(また、八坂へ行ったのか?)
そんな声が、聞こえた気がした。もちろん、誰もそんなことは言っていない。
私は息を吐いて、下り始めた。
坂の途中で、風が吹いた。冷たい風が、頬を撫でる。
その瞬間。匂いが変わった。
白粉。線香。湿った木。
ありえない。ここは現代の京都で、私はコートを着て、スマホを持っている。なのに、鼻の奥に、確かにその匂いが刺さった。
私は立ち止まった。足が動かない。
次に聞こえたのは、三味線の音だった。どこかで流れているBGMではない。もっと生の音。障子の向こうで、誰かが弦をつまびく音。
私はバッグの内ポケットに手を入れた。お守りに触れた。
冷たいはずだった布が、妙にぬるい。
いや、ぬるいのではない。
巾着の奥——透明な玉が、布越しに小さく脈打っている。
とくん。とくん。
指の腹に、柔らかい反発が返ってきた。
私は息を呑んだ。鼓動が2つあるみたいだった。
視界の端が暗くなる。世界がゆっくり傾く。
慌てて手すりを探した。だが指先は空を掴むばかりで、石段の縁が遠い。
私の耳に、鐘の音が落ちてきた。
ごん。ごん。
誰かが私の肩に触れた気がした。振り向こうとしても、首が動かない。
視界が落ちる。
落ちる瞬間、私は思った。これは気絶じゃない。過呼吸でもない。
——呼ばれている。
どこか、遠い時代から。私の名ではない名で。
「……志乃さま」
「志乃。……また八坂へ行ったのか?」
問いかけの形をしていたが、ただ事実を確かめているだけだった。許すか許さないかを判断するための声。
私は息を吸い込んだ。泣きたくても泣けないこの癖は、こんなときだけは助かる。
目をぎゅっと閉じると、また違う匂いがした。
*
半年ほど前から、私は「匂い」に敏感になった。
消毒液。石鹸。ラテックス。それらが鼻に入ると、身体のほうが先に固まる。
復職して間もない頃、職員室の入口で誰かが手指消毒をしただけで、喉がきゅっと縮んだ。私は笑って「最近、強い匂いが苦手になって」と軽口を叩いた。
大丈夫。平気。その言葉を、私は口に出すのが上手になった。
離婚して半年。流産を経験し、手術を受けて、失った存在を胸の内に残したまま、紙の一枚で夫婦だったものを終わらせて。
それでも仕事は待ってくれない。季節は巡っていく。生徒は私の事情なんて知らないし、知る必要もない。
だから私は、普通の顔をした。普通の声で授業をし、板書して指名し、答案を返した。
「先生、これ合ってます?」
「大丈夫、合ってるよ」
それだけの会話が、どれほどありがたいか。"先生"と呼ばれると、私はまだ社会の中にいると思えた。
でも、ある朝。
大阪から京都へ向かう電車の中で、私は自分の指先を見つめていた。爪の形がいつも通りで、ほっとした。
その「ほっと」が、どこかおかしい。私は何に怯えているのだろう。
京都へ行こうと思ったのは、衝動だった。
職員室で次年度の予定表が配られた日。誰かが「今年も早いなあ」と言い、私は笑った。けれど笑ったあと、急に胸の奥が空になった。自分の笑い声が、遠い。
そのままスマホで「京都」と検索して、気づいたら有給申請の画面を開いていた。理由欄には「私用」とだけ書いた。
京都に着いたのは昼過ぎで、空は低い。冬の雲が、街の上に蓋をしているみたいだった。
私は人混みの輪郭から少し外れた場所を歩いた。歩きながら何度も考える。どうして京都なのだろう。どうして八坂なのだろう。
答えは出ない。出ないままでも、足だけがそこへ向かってしまう。
八坂神社の境内は、思っていたより開けていた。鳥居をくぐると、空気が少し変わる。街の匂いが薄まり、木と土の匂いが増える。
手水舎の水は冷たく、指先がじんと痛んだ。その痛みが、なぜか「生きている」感じがして、私はもう一度指先を見た。
平気。平気だよ、と自分に言い聞かせる。
拝殿の前に立って、私は手を合わせた。願いは、なかった。
ないわけじゃない。でも、願いの形にすると、途端に崩れてしまいそう。
私は頭を下げて、それから顔を上げた。ちょうどそのとき、鈴の音がした。別の参拝者が鳴らした音が、境内の空気を揺らす。
揺れた瞬間、胸の奥の扉がきしんだ。
(悼む)
言葉だけが浮かぶ。私はそれを追い払うように、授与所のほうへ目を向けた。
お守りを買おう。理由はそれでいい。何か形が欲しい。形があれば、持ち帰れる。
授与所は人が途切れず、けれど流れは早かった。
並んでいる間、私は列の前の人たちをぼんやり見ていた。縁結び。厄除け。学業成就。健康。みんな、欲しいものがある。
私は——何が欲しいのだろう。
自分の番が来た。並んでいるお守りの中で、ひとつだけ目が離せないものがあった。
淡い藤色の小さな巾着は、光の角度で少しだけ青くも見える。
——澪守。
文字が水に浮かんで、揺れて見えた気がした。
「……これ、ください」
声が出た。
掌に乗せるとひやりとした。冬のせい?
——違う。布の冷たさじゃない。もっと内側に触れてくる冷たさ。
私はお守りを握った。握った途端、なぜか指の腹が鋭く痛んだ。
授与所を離れ、境内を歩いた。私はお守りをバッグの内ポケットにしまった。
しまったはずなのに、掌にまだ布の感触が残っている。指先が、しびれているみたいだった。
八坂の石段を下りるとき、私はふいに足を止めた。
(また、八坂へ行ったのか?)
そんな声が、聞こえた気がした。もちろん、誰もそんなことは言っていない。
私は息を吐いて、下り始めた。
坂の途中で、風が吹いた。冷たい風が、頬を撫でる。
その瞬間。匂いが変わった。
白粉。線香。湿った木。
ありえない。ここは現代の京都で、私はコートを着て、スマホを持っている。なのに、鼻の奥に、確かにその匂いが刺さった。
私は立ち止まった。足が動かない。
次に聞こえたのは、三味線の音だった。どこかで流れているBGMではない。もっと生の音。障子の向こうで、誰かが弦をつまびく音。
私はバッグの内ポケットに手を入れた。お守りに触れた。
冷たいはずだった布が、妙にぬるい。
いや、ぬるいのではない。
巾着の奥——透明な玉が、布越しに小さく脈打っている。
とくん。とくん。
指の腹に、柔らかい反発が返ってきた。
私は息を呑んだ。鼓動が2つあるみたいだった。
視界の端が暗くなる。世界がゆっくり傾く。
慌てて手すりを探した。だが指先は空を掴むばかりで、石段の縁が遠い。
私の耳に、鐘の音が落ちてきた。
ごん。ごん。
誰かが私の肩に触れた気がした。振り向こうとしても、首が動かない。
視界が落ちる。
落ちる瞬間、私は思った。これは気絶じゃない。過呼吸でもない。
——呼ばれている。
どこか、遠い時代から。私の名ではない名で。
「……志乃さま」
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