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第6話 感情を量る秤
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遠くでチャイムが聞こえる。
黒板の「悼」が、まだにじんでいた。
私は瞬きをした。2回、3回。
それでもにじみは消えない。
指先のチョークの粉。
白い。
白いライト。白いシーツ。白いマスク。
「先生、大丈夫ですか」
生徒の声で我に返る。
「あ……じゃあ今日はここまで」
私は教卓にしばらく手をついたまま、動けなかった。
*
職員室に戻り、一息ついた。
ポーチから淡い藤色の小さな巾着を取り出す。
冷たい。
冷たいはずなのに、脈打つお守り。
とくん。とくん。
2つの拍が、別々に身体を叩く。
ごん。ごん。
今度は遠くで鐘が鳴る。
私は名前を呼ばれるのを待っている。
自分の名前ではない名前を。
職員室の時計が、止まった気がした。
秒針が、ぴたりと動かなくなる。
窓の外の光が、固まる。
世界が息を止めている、そんな感覚。
でも私だけが動いている。
藤色の布をぎゅっと握る。
奥の透明な玉が、ドクンと脈打つ。
耳の奥で、声がする。
あの声だ。
低い男の声が耳に触れた瞬間、世界が裏返った。
今度は戻り方が、わからなかった。
*
――完全に移った。
私は布団の中で、手のひらを見つめる。
白い手。細い指。
この手が、志乃の手だという事実だけが、やけにリアルだった。
藤は朝から何度も様子を見に来た。
「お粥、持ってきますね」
「薬湯、もう一杯飲みます?」
その声は優しい。けれど私は、うまく笑えない。
優しさは、時々怖い。
現代でもそうだった。
気遣いはありがたいのに、返す言葉が見つからなくて、結局「大丈夫です」しか言えなくなる。
私は藤を嫌いじゃない。
藤もきっとそう。
でも信用しきれない。
この世界の私、"志乃"と藤の間に、どれほどの時間があったのかわからない。
昨日の"私"が藤に何を言ったのかもわからない。
私はひとりで行く。
——どこへ?
答えはないのに、胸の奥の"何か"が、外を指していた。
なんとなく、藤を巻き込みたくなかった。
藤を連れていけば、藤まで責められる。
迷惑をかけたくない。
現代で染みついた癖が、ここでも私の背中を押す。
私は息を吸って、布団を押しのけた。
立ち上がると、まだ少しふらつく。
熱が残っているのかもしれない。
それでも足は動く。
部屋の隅に掛けてある羽織を手に取った。
着物の着方は知らないはずなのに、手が勝手に動いて紐を結ぶ。
体が覚えている。
その"覚えている"が、いちいち怖い。
私はそっと障子に手をかけた。
廊下は静かだった。
家の中の音は、木がきしむ音と、遠くの水の音くらい。
藤の気配はない。
台所の方で何かしているのかもしれない。
私は音を立てないように歩いた。
衣擦れの音を消すのは難しい。
けれど、足袋で畳を踏むと、少しだけ音が抑えられる。
玄関へ向かう途中、胸の奥がきゅっと鳴った。
——戻れなくなる。
そんな予感がした。
現代に戻れなくなる、ではない。
この家の"妻"として、戻れなくなる。
私は一度だけ立ち止まって、息を吐いた。
息は白い。
冬だ。
大正十二年の冬。
私は戸を開けた。
*
冷たい空気が頬を刺す。
同時に、湿った木の匂いが強くなる。
路地へ出ると、雪はもう降っていなかった。
でも石畳の隙間に白が残り、踏むたびに少し水がにじむ。
祇園の朝は、まだ眠っている。
灯りは少なく、人の声も少ない。
それなのに私は、"街が起きていく音"を聞いた気がした。
戸が開く音。
桶の水の音。
遠くで箒が掃く音。
私は足を止めずに歩いた。
行き先は決めていない。
でも足が勝手に曲がる。
路地を選ぶ。
橋を渡る。
迷子になっているはずなのに、迷わない。
私は自分の中の"志乃"に連れて行かれている。
胸の奥に、薄い膜がある。
その膜が、外の空気に触れて少しずつ緩む。
(何を探してるの?)
問いかけると、返事の代わりに匂いが返ってくる。
線香。
白粉。
そして——甘い、甘い匂い。
飴の匂いではない。
香水でもない。
もっと生々しい、鼻の奥に絡む甘さ。
私はその匂いの方へ歩いた。
すると、路地の先に人だかりが見えた。
朝なのに、眠い時間なのに。
女たちが集まっている。
若い女。年配の女。子どもを背負った女。
誰もが、同じ方向を見ている。
私は人の波の外側からそっと覗いた。
そこにあったのは、店でも茶屋でもなかった。
屋台のような簡素な台。
その上に、秤が置かれている。
秤。
古い真鍮の光。
片側に皿があり、反対側に分銅が並んでいる。
ただの秤なのに、空気が変だ。
この場所だけ、温度が違う。
そして秤の前に立つ男が、朗らかな声で言った。
「ほな、次の方。
——悲しみ、少し手放してみませんか?」
黒板の「悼」が、まだにじんでいた。
私は瞬きをした。2回、3回。
それでもにじみは消えない。
指先のチョークの粉。
白い。
白いライト。白いシーツ。白いマスク。
「先生、大丈夫ですか」
生徒の声で我に返る。
「あ……じゃあ今日はここまで」
私は教卓にしばらく手をついたまま、動けなかった。
*
職員室に戻り、一息ついた。
ポーチから淡い藤色の小さな巾着を取り出す。
冷たい。
冷たいはずなのに、脈打つお守り。
とくん。とくん。
2つの拍が、別々に身体を叩く。
ごん。ごん。
今度は遠くで鐘が鳴る。
私は名前を呼ばれるのを待っている。
自分の名前ではない名前を。
職員室の時計が、止まった気がした。
秒針が、ぴたりと動かなくなる。
窓の外の光が、固まる。
世界が息を止めている、そんな感覚。
でも私だけが動いている。
藤色の布をぎゅっと握る。
奥の透明な玉が、ドクンと脈打つ。
耳の奥で、声がする。
あの声だ。
低い男の声が耳に触れた瞬間、世界が裏返った。
今度は戻り方が、わからなかった。
*
――完全に移った。
私は布団の中で、手のひらを見つめる。
白い手。細い指。
この手が、志乃の手だという事実だけが、やけにリアルだった。
藤は朝から何度も様子を見に来た。
「お粥、持ってきますね」
「薬湯、もう一杯飲みます?」
その声は優しい。けれど私は、うまく笑えない。
優しさは、時々怖い。
現代でもそうだった。
気遣いはありがたいのに、返す言葉が見つからなくて、結局「大丈夫です」しか言えなくなる。
私は藤を嫌いじゃない。
藤もきっとそう。
でも信用しきれない。
この世界の私、"志乃"と藤の間に、どれほどの時間があったのかわからない。
昨日の"私"が藤に何を言ったのかもわからない。
私はひとりで行く。
——どこへ?
答えはないのに、胸の奥の"何か"が、外を指していた。
なんとなく、藤を巻き込みたくなかった。
藤を連れていけば、藤まで責められる。
迷惑をかけたくない。
現代で染みついた癖が、ここでも私の背中を押す。
私は息を吸って、布団を押しのけた。
立ち上がると、まだ少しふらつく。
熱が残っているのかもしれない。
それでも足は動く。
部屋の隅に掛けてある羽織を手に取った。
着物の着方は知らないはずなのに、手が勝手に動いて紐を結ぶ。
体が覚えている。
その"覚えている"が、いちいち怖い。
私はそっと障子に手をかけた。
廊下は静かだった。
家の中の音は、木がきしむ音と、遠くの水の音くらい。
藤の気配はない。
台所の方で何かしているのかもしれない。
私は音を立てないように歩いた。
衣擦れの音を消すのは難しい。
けれど、足袋で畳を踏むと、少しだけ音が抑えられる。
玄関へ向かう途中、胸の奥がきゅっと鳴った。
——戻れなくなる。
そんな予感がした。
現代に戻れなくなる、ではない。
この家の"妻"として、戻れなくなる。
私は一度だけ立ち止まって、息を吐いた。
息は白い。
冬だ。
大正十二年の冬。
私は戸を開けた。
*
冷たい空気が頬を刺す。
同時に、湿った木の匂いが強くなる。
路地へ出ると、雪はもう降っていなかった。
でも石畳の隙間に白が残り、踏むたびに少し水がにじむ。
祇園の朝は、まだ眠っている。
灯りは少なく、人の声も少ない。
それなのに私は、"街が起きていく音"を聞いた気がした。
戸が開く音。
桶の水の音。
遠くで箒が掃く音。
私は足を止めずに歩いた。
行き先は決めていない。
でも足が勝手に曲がる。
路地を選ぶ。
橋を渡る。
迷子になっているはずなのに、迷わない。
私は自分の中の"志乃"に連れて行かれている。
胸の奥に、薄い膜がある。
その膜が、外の空気に触れて少しずつ緩む。
(何を探してるの?)
問いかけると、返事の代わりに匂いが返ってくる。
線香。
白粉。
そして——甘い、甘い匂い。
飴の匂いではない。
香水でもない。
もっと生々しい、鼻の奥に絡む甘さ。
私はその匂いの方へ歩いた。
すると、路地の先に人だかりが見えた。
朝なのに、眠い時間なのに。
女たちが集まっている。
若い女。年配の女。子どもを背負った女。
誰もが、同じ方向を見ている。
私は人の波の外側からそっと覗いた。
そこにあったのは、店でも茶屋でもなかった。
屋台のような簡素な台。
その上に、秤が置かれている。
秤。
古い真鍮の光。
片側に皿があり、反対側に分銅が並んでいる。
ただの秤なのに、空気が変だ。
この場所だけ、温度が違う。
そして秤の前に立つ男が、朗らかな声で言った。
「ほな、次の方。
——悲しみ、少し手放してみませんか?」
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