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第5話 鐘の音と落ちる視界
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保健室を出ると、空はすっかり薄暗くなっていた。
冬の夕方は、日が落ちるのが早い。
廊下の蛍光灯が点いて、床に反射した光が冷たく見える。
職員室へ戻ると、先生たちの視線が一斉に集まって、すぐに逸れた。
気づかないふりをしてくれている。
ありがたい。
本来ならありがたいはずなのに、胸がざわつく。
「上原先生、大丈夫?」
先輩の先生が、甘いクッキーを差し出してくれた。
「ご迷惑をおかけしました……ちょっと、立ちくらみで」
私は笑った。笑えた。いつもの顔で。
「無理しなや。まぁ今日の自習のプリントは一応渡しとくけど…早よ帰りや」
「ありがとうございます」
先生の後ろ姿を見送りながら、ポーチのお守りにそっと触れた。
冷たい。
いまは、ただ冷たいだけだ。
――よかった。
よかった、と思ってしまう。
その“よかった”が、私にはもう不気味だった。
*
翌日。
私は、いつもより少し早めに学校へ着いた。
授業準備をする時間が欲しかった。
準備をしていれば、余計なことを考えずに済む。
二年三組の時間割を見て、チョークを二本、ケースに入れる。
徒然草の続きだ。
昨日の“にじみ”は、なかったことにする。
なかったことにして、授業を進める。
それが教師の仕事。
教室へ向かう廊下で、自分の手のひらを見る。
水滴はもうない。糸くずもない。
……夢だった。
そう思うことにした。
扉を開ける。
「起立」
「礼」
私は「おはよう」と言って、教卓に荷物を置いた。
生徒たちの顔はいつもと同じ。眠そうだけど、元気で、毎日少しずつ成長している顔。
黒板にチョークを当てる。
粉が舞う。
白い粉。
白い粒。
私は瞬きをした。
雪じゃない。
チョークの粉だ。
白。
また白、と思ってしまう。
今日の授業は徒然草のはずだった。
なのに、私の指は違う文字を選んでいる。
その気持ちを振り払うように、黒板に大きく一文字書いた。
悼
「はい。今日はこの字について」
生徒たちが「あれ?」という顔をするが、気にせず続けた。
「読み方、分かる?」
前列の女子が手を挙げた。
「……いたむ?」
「正解。“悼む”で、いたむ」
私はその隣にもう1つ文字を書いた。
痛
「同じ読み方の字、あるよね。『痛む』。で、今日はその違いについて話しておこうかな」
教室の空気が少し変わる。
きっと“テストに出る”匂いがしたからだ。
「『悼む』と『痛む』って、何が違う?」
男子がぼそっと言った。
「どっちも、つらい感じ?」
「うん。近い。でも使い方が違う」
私はチョークを持つ指に少し力が入って、粉が袖についた。
「『悼む』は、人の死を悲しんだり、惜しんだりするときに使う言葉。
たとえば、“故人を悼む”とか、“死を悼む”とか」
説明しながら、喉の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
人の死。
悲しむ。
惜しむ。
私は、それができない。
「で、『痛む』は、体が痛いときや心がつらいとき、もっと幅広い意味で使える」
黒板の2つの文字を指さした。
悼むは“死”への思いとつながる。
痛むは“痛み”そのもの。
その線引きが、私には残酷だった。
線を引くたび、そこからこぼれ落ちるものがある。
「先生、じゃあさ」
後ろの席から声が上がった。
少しだけ馴れ馴れしい声。悪気はない。
教室の雰囲気をつかむのが上手な子だ。
「『弔う』ってあるやん。あれと『悼む』って、何が違うん?」
一瞬、助かったと感じた。
話題が“辞書的な違い”へ移り、私の胸の奥と少し距離ができる。
「ええ質問やね。『弔う』は、亡くなった人を悼む気持ちを、行動で表す言葉。
お葬式をしたり、お悔やみを伝えたり。つまり“外に出す”感じ」
「『悼む』は、心の中で悲しむ、惜しむ、ってニュアンスが強い」
あくまで淡々と説明した。
そんなふうに説明できている自分が、少しだけ嫌になる。
心の中で悲しむ。
私は心の中で悲しめていないのに。
「じゃあ、『偲ぶ』は?」
別の女子が続ける。
「『偲ぶ』は、懐かしんだり思い慕ったりする気持ち。
亡くなった人にも使えるけど、生きている人に対して使う場合もある」
「こんなふうに、似ている言葉は使い分けると文章が締まる」
生徒たちがうなずき、何人かはノートに書き込んでいた。
私はチョークで黒板をコン、と突き、例文を書いた。
・友人の死を悼む
・故人を悼む
・怪我で足が痛む
書きながら、胸の奥がざわついた。
例文のすべてが、他人事に見える。
(友人)
(故人)
私の“それ”は、どこに入るんだろう。
友人ではない。故人?
故人は、名前のある人に使う言葉だ。
私は、名前をつけていない。
つけられないまま、置いてきた。
置いてきたはずなのに、本当は置いていない。
母子手帳の空白が、家の引き出しでいまも呼吸している。
「じゃあ、ここからは短いワーク」
私は教室を見回す。
生徒の顔が並び、そのひとりひとりの人生がある。
「“悼む”を使って、短い文を1つ作って。三分。できた人から提出」
「えー」
「短いならいけるやろ」
ざわっと机が鳴る。ペンの音が増える。
私は窓の縁にもたれ、教室を見渡した。
教室の時間は、いつも過去と未来の間にある。
私はそこで、言葉を渡す。
言葉は武器にもなるし、救いにもなる。
救いにもなる、と私は信じている。信じたい。
でも救いは、言葉だけでは完成しない。
言葉を通す喉が、つまっているときは。
「先生」
さっきの“雰囲気をつかむのが上手な子”が、提出しに来た。
紙を差し出す手が、少しだけためらっている。
私は受け取って、目を落とす。
――有名人の死を悼み、ニュースを見た。
私は「うん、自然」とうなずいた。
それがこの子の現実だ。それでいい。
次の子。
――祖父の死を悼んで、家族で集まった。
私は赤ペンで丸をつけた。
家族で集まった。これは弔うにも近いが、悼むでも通じる。
次の子。
――死を悼む気持ちは、人を優しくすると思う。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
優しい。
その言葉が、喉に引っかかる。
私はゆっくり息を吐き、丸をつけた。
「いいね」と書き添えて。
喉の奥が熱くなった。
今日ずっと、何かがつまっている。
それを出したら、私の人生が崩れる気がする。
でも吐き出さなければ、私はこのまま空白を抱えて生きることになる。
空白。
母子手帳の空白。
私はふっと目を上げた。
黒板の「悼」の字が、視界の真ん中にある。
悼む。
人の死を悲しむ。
それは、私ができないこと。
私は教師で、言葉を教える。
でも私は、自分の言葉を持っていない。
「先生、もう出していい?」
「うん、前に置いといて」
私は、自分の声がいつも通りであることを確かめた。
いつも通りの声。いつも通りの先生として。
そうして、授業が終わるはずだった。
だけど。
黒板の「悼」の字が、じわっとにじむ。
チョークの粉がにじむわけではない。
黒板が濡れているわけでもない。
にじんでいるのは――私の視界だ。
私は瞬きをした。
けれど、にじみは消えなかった。
何かがおかしい。
教室は同じ、教室の生徒も同じはずなのに。
私の視界だけが違う。
私は喉の奥を押さえた。
息がつまる。
胸がざわつく。
夢の匂いが、鼻の奥によみがえる。
白粉。
線香。
湿った木。
そして、鐘の音が聞こえてくる。
遅れて、三味線が。
私は教卓に手をついた。
(来る)
何が来るのか分からない。
けれど、身体がそれを知っている。
黒板の「悼」の字はにじんだまま、私に問いかける。
――誰を、悼むの?
冬の夕方は、日が落ちるのが早い。
廊下の蛍光灯が点いて、床に反射した光が冷たく見える。
職員室へ戻ると、先生たちの視線が一斉に集まって、すぐに逸れた。
気づかないふりをしてくれている。
ありがたい。
本来ならありがたいはずなのに、胸がざわつく。
「上原先生、大丈夫?」
先輩の先生が、甘いクッキーを差し出してくれた。
「ご迷惑をおかけしました……ちょっと、立ちくらみで」
私は笑った。笑えた。いつもの顔で。
「無理しなや。まぁ今日の自習のプリントは一応渡しとくけど…早よ帰りや」
「ありがとうございます」
先生の後ろ姿を見送りながら、ポーチのお守りにそっと触れた。
冷たい。
いまは、ただ冷たいだけだ。
――よかった。
よかった、と思ってしまう。
その“よかった”が、私にはもう不気味だった。
*
翌日。
私は、いつもより少し早めに学校へ着いた。
授業準備をする時間が欲しかった。
準備をしていれば、余計なことを考えずに済む。
二年三組の時間割を見て、チョークを二本、ケースに入れる。
徒然草の続きだ。
昨日の“にじみ”は、なかったことにする。
なかったことにして、授業を進める。
それが教師の仕事。
教室へ向かう廊下で、自分の手のひらを見る。
水滴はもうない。糸くずもない。
……夢だった。
そう思うことにした。
扉を開ける。
「起立」
「礼」
私は「おはよう」と言って、教卓に荷物を置いた。
生徒たちの顔はいつもと同じ。眠そうだけど、元気で、毎日少しずつ成長している顔。
黒板にチョークを当てる。
粉が舞う。
白い粉。
白い粒。
私は瞬きをした。
雪じゃない。
チョークの粉だ。
白。
また白、と思ってしまう。
今日の授業は徒然草のはずだった。
なのに、私の指は違う文字を選んでいる。
その気持ちを振り払うように、黒板に大きく一文字書いた。
悼
「はい。今日はこの字について」
生徒たちが「あれ?」という顔をするが、気にせず続けた。
「読み方、分かる?」
前列の女子が手を挙げた。
「……いたむ?」
「正解。“悼む”で、いたむ」
私はその隣にもう1つ文字を書いた。
痛
「同じ読み方の字、あるよね。『痛む』。で、今日はその違いについて話しておこうかな」
教室の空気が少し変わる。
きっと“テストに出る”匂いがしたからだ。
「『悼む』と『痛む』って、何が違う?」
男子がぼそっと言った。
「どっちも、つらい感じ?」
「うん。近い。でも使い方が違う」
私はチョークを持つ指に少し力が入って、粉が袖についた。
「『悼む』は、人の死を悲しんだり、惜しんだりするときに使う言葉。
たとえば、“故人を悼む”とか、“死を悼む”とか」
説明しながら、喉の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。
人の死。
悲しむ。
惜しむ。
私は、それができない。
「で、『痛む』は、体が痛いときや心がつらいとき、もっと幅広い意味で使える」
黒板の2つの文字を指さした。
悼むは“死”への思いとつながる。
痛むは“痛み”そのもの。
その線引きが、私には残酷だった。
線を引くたび、そこからこぼれ落ちるものがある。
「先生、じゃあさ」
後ろの席から声が上がった。
少しだけ馴れ馴れしい声。悪気はない。
教室の雰囲気をつかむのが上手な子だ。
「『弔う』ってあるやん。あれと『悼む』って、何が違うん?」
一瞬、助かったと感じた。
話題が“辞書的な違い”へ移り、私の胸の奥と少し距離ができる。
「ええ質問やね。『弔う』は、亡くなった人を悼む気持ちを、行動で表す言葉。
お葬式をしたり、お悔やみを伝えたり。つまり“外に出す”感じ」
「『悼む』は、心の中で悲しむ、惜しむ、ってニュアンスが強い」
あくまで淡々と説明した。
そんなふうに説明できている自分が、少しだけ嫌になる。
心の中で悲しむ。
私は心の中で悲しめていないのに。
「じゃあ、『偲ぶ』は?」
別の女子が続ける。
「『偲ぶ』は、懐かしんだり思い慕ったりする気持ち。
亡くなった人にも使えるけど、生きている人に対して使う場合もある」
「こんなふうに、似ている言葉は使い分けると文章が締まる」
生徒たちがうなずき、何人かはノートに書き込んでいた。
私はチョークで黒板をコン、と突き、例文を書いた。
・友人の死を悼む
・故人を悼む
・怪我で足が痛む
書きながら、胸の奥がざわついた。
例文のすべてが、他人事に見える。
(友人)
(故人)
私の“それ”は、どこに入るんだろう。
友人ではない。故人?
故人は、名前のある人に使う言葉だ。
私は、名前をつけていない。
つけられないまま、置いてきた。
置いてきたはずなのに、本当は置いていない。
母子手帳の空白が、家の引き出しでいまも呼吸している。
「じゃあ、ここからは短いワーク」
私は教室を見回す。
生徒の顔が並び、そのひとりひとりの人生がある。
「“悼む”を使って、短い文を1つ作って。三分。できた人から提出」
「えー」
「短いならいけるやろ」
ざわっと机が鳴る。ペンの音が増える。
私は窓の縁にもたれ、教室を見渡した。
教室の時間は、いつも過去と未来の間にある。
私はそこで、言葉を渡す。
言葉は武器にもなるし、救いにもなる。
救いにもなる、と私は信じている。信じたい。
でも救いは、言葉だけでは完成しない。
言葉を通す喉が、つまっているときは。
「先生」
さっきの“雰囲気をつかむのが上手な子”が、提出しに来た。
紙を差し出す手が、少しだけためらっている。
私は受け取って、目を落とす。
――有名人の死を悼み、ニュースを見た。
私は「うん、自然」とうなずいた。
それがこの子の現実だ。それでいい。
次の子。
――祖父の死を悼んで、家族で集まった。
私は赤ペンで丸をつけた。
家族で集まった。これは弔うにも近いが、悼むでも通じる。
次の子。
――死を悼む気持ちは、人を優しくすると思う。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
優しい。
その言葉が、喉に引っかかる。
私はゆっくり息を吐き、丸をつけた。
「いいね」と書き添えて。
喉の奥が熱くなった。
今日ずっと、何かがつまっている。
それを出したら、私の人生が崩れる気がする。
でも吐き出さなければ、私はこのまま空白を抱えて生きることになる。
空白。
母子手帳の空白。
私はふっと目を上げた。
黒板の「悼」の字が、視界の真ん中にある。
悼む。
人の死を悲しむ。
それは、私ができないこと。
私は教師で、言葉を教える。
でも私は、自分の言葉を持っていない。
「先生、もう出していい?」
「うん、前に置いといて」
私は、自分の声がいつも通りであることを確かめた。
いつも通りの声。いつも通りの先生として。
そうして、授業が終わるはずだった。
だけど。
黒板の「悼」の字が、じわっとにじむ。
チョークの粉がにじむわけではない。
黒板が濡れているわけでもない。
にじんでいるのは――私の視界だ。
私は瞬きをした。
けれど、にじみは消えなかった。
何かがおかしい。
教室は同じ、教室の生徒も同じはずなのに。
私の視界だけが違う。
私は喉の奥を押さえた。
息がつまる。
胸がざわつく。
夢の匂いが、鼻の奥によみがえる。
白粉。
線香。
湿った木。
そして、鐘の音が聞こえてくる。
遅れて、三味線が。
私は教卓に手をついた。
(来る)
何が来るのか分からない。
けれど、身体がそれを知っている。
黒板の「悼」の字はにじんだまま、私に問いかける。
――誰を、悼むの?
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