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第4話 祇園の雪の夢
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ポーチの澪守が、とくんと脈打った。
倒れるより——引かれる感覚。
細かなひび割れ模様の天井が遠ざかり、代わりに暗い色がにじんでくる。
黒でもない。闇でもない。古い木の色。煤けた紙の色。
息が詰まる。
喉が締まる。
それでも、匂いだけは先に来た。
*
白粉と、線香と、湿った木。
懐かしいはずのない匂いなのに、私の体は"知っている"と反応する。
私は目を開けた。
――雪?
白い粒が、夜の空から落ちてくる。
落ちるというより、静かに置かれていくよう。
世界が少しずつ音を失い、白に包まれていく。
私は濡れ縁に腰掛けていた。
目の前の細い路地は石畳。
雪が薄く積もり、踏めばきっと、きゅ、と鳴りそうだ。
ああ、祇園だ。
そう思った瞬間、喉がひゅっと鳴った。
なぜわかるのか。
わからないのに、わかってしまう。
私は手を伸ばした。
雪を掴もうとした。
指先に触れた白は、冷たい。
冷たすぎて、皮膚が少し痛む。
痛む。
痛い。
――痛い、という感覚が、ここにはある。
私の生活から抜け落ちていたものが、突然戻ってくる。
それは救いのようで、怖かった。
「……寒い」
声が出た。
自分の声なのに、少し違う。
私は息を吐いた。
白い息が、ふわりと浮かぶ。
夢なのに、息が白い。
夢なのに、指先が凍える。
夢のくせに、雪が溶けて濡れる。
私は自分の手を見た。
白い。細い。爪の形が違う。
私の手じゃない。
喉の奥が鳴る。
怖い。
怖いのに、体は妙に落ち着いている。
ここに"戻ってきた"みたいに。
遠くで三味線が鳴った。
障子の向こうで弦をつまびく、あの音。
音が空気を震わせて、私の胸の奥を指でなぞる。
私は足を動かした。
草履の感触がある。
足袋が足を包む。冷えが布越しに伝わる。
勝手口から路地に出ると、雪が頬に当たった。
溶けて、水になって頬を滑る。
その水滴が、なぜか悲しい。
私は「悲しい」を慌てて押し込めた。
悲しんだら、泣いてしまう。
泣いたら、戻れない。
……戻れない?
私は立ち止まった。
戻るって、どこに戻るの。
ここは夢なのに。
道の先に灯りが見えた。
行灯の淡い光。障子越しの橙。
その光のところに、人影がある。
女の子だった。
髪をきっちり結い、薄い羽織を肩にかけた女の子が、雪を避けるように軒下に寄ってこちらを見ている。
私と目が合った瞬間、女の子は目を丸くした。
――藤。
声に出していないのに、名前がわかる。
私の知らない記憶が、私に流れ込む。
藤が駆け寄ってきた。
「……志乃さま!」
その呼び方に、胸の奥が震えた。
私の名前ではない。
でも、私の体が答える。
「藤……?」
藤は私の袖を掴んだ。指先が冷たい。
「また、外に出て……足、冷えるでしょ。こっち、早よう」
私は藤に引かれるまま、格子戸の内側へ入った。
途端に、匂いが濃くなる。
湿った木。畳。線香。
そして、炭の匂い。
火鉢だろうか。どこかで炭が赤く熾っている。
暖かさが、皮膚から骨に染み込む。
私は思わず、息を吸い込んだ。
その瞬間、また鐘が鳴る。
ごん。
ごん。
雪の夜の空気の中で、鐘は重く響いた。
胸の奥のなにかが、それに応える。
藤が私を座敷へ押し込む。
障子が閉まる。外の白と切り離される。
座敷は薄暗い。
障子越しの光が柔らかい輪郭を作り、畳の目が見える。
私は座った。
座った瞬間、膝の位置が"しっくり"来た。
しっくり来ることが、怖い。
藤が白湯を持ってくる。
椀の湯気が、私の頬に触れた。
私はそれを受け取った。
熱い。現実だ。
「志乃さま、今日のこと……」
藤の声が小さくなる。
怖がっている。
私も、怖い。
「今日って……」
言いかけた瞬間、廊下の向こうで足音がした。
硬く、迷いのない足音。
こちらへ向かってくる。
私は息を止めた。
藤の肩が跳ねる。
「……旦那さま」
空気が冷える。
雪とは違う冷え方。
足音が、障子の前で止まった。
紙が、すうっと擦れる音がする。
扉が開く——その寸前。
私はなぜか、知っていた。
その声が、私を"志乃"に戻すことを。
「……また、八坂へ行ったのか?」
低い男の声が耳に触れた瞬間、世界が裏返った。
*
「上原先生?」
誰かが私の肩を叩いた。
私は息を吸った。
冷たい空気。
保健室の匂い。消毒液ではないけれど、薬品の薄い匂い。
私は目を開けた。
保健の先生が心配そうに覗き込んでいる。
カーテン越しに、夕方の光が差している。
「うなされてたで。大丈夫?」
うなされてた。
私は夢を見ていた。
夢。
そうだ、夢だ。祇園の雪なんて、ありえない。
私は頷こうとして、言葉が出なかった。
喉が渇いている。
保健の先生が白湯を持ってきてくれた。
私は受け取って、一口飲んだ。
熱い。
それだけで、少しだけ現実が戻る。
夢だった。
大正十二年も、藤も、旦那さまも。
全部、夢。
そう思った瞬間。
掌が、冷たい。
マグカップを置き、自分の手のひらを見た。
水滴がついている。
小さな水滴。
汗ではない。汗の匂いがしない。
私は指で拭った。
水は、ひんやりしている。
――雪解けの水みたいに。
背中がぞわっとした。
私は慌てて自分の膝の上を見る。
制服のスカートの上に、細い糸が一本落ちていた。
白でも黒でもない、淡い色。
絹糸みたいに、つやがある。
私は指先でそれを摘まんだ。
軽い。
なのに、指に残る。
私は息を止めた。
心臓が一拍遅れて跳ねる。
夢なら、残らない。
夢なら、こんな"物"は持ち帰れない。
私は糸を見つめたまま、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
その時、ベッドの脇でなにかが光った。
教科書とチョークホルダーとポーチにつけた澪守。
私はゆっくりとお守りに触れた。
指先が震える。
とくん。
透明な玉が、指の腹に小さく押し返してくる。
私は息を呑んだ。
夢ではない。
――私は、もう戻れない場所に足を踏み入れている。
倒れるより——引かれる感覚。
細かなひび割れ模様の天井が遠ざかり、代わりに暗い色がにじんでくる。
黒でもない。闇でもない。古い木の色。煤けた紙の色。
息が詰まる。
喉が締まる。
それでも、匂いだけは先に来た。
*
白粉と、線香と、湿った木。
懐かしいはずのない匂いなのに、私の体は"知っている"と反応する。
私は目を開けた。
――雪?
白い粒が、夜の空から落ちてくる。
落ちるというより、静かに置かれていくよう。
世界が少しずつ音を失い、白に包まれていく。
私は濡れ縁に腰掛けていた。
目の前の細い路地は石畳。
雪が薄く積もり、踏めばきっと、きゅ、と鳴りそうだ。
ああ、祇園だ。
そう思った瞬間、喉がひゅっと鳴った。
なぜわかるのか。
わからないのに、わかってしまう。
私は手を伸ばした。
雪を掴もうとした。
指先に触れた白は、冷たい。
冷たすぎて、皮膚が少し痛む。
痛む。
痛い。
――痛い、という感覚が、ここにはある。
私の生活から抜け落ちていたものが、突然戻ってくる。
それは救いのようで、怖かった。
「……寒い」
声が出た。
自分の声なのに、少し違う。
私は息を吐いた。
白い息が、ふわりと浮かぶ。
夢なのに、息が白い。
夢なのに、指先が凍える。
夢のくせに、雪が溶けて濡れる。
私は自分の手を見た。
白い。細い。爪の形が違う。
私の手じゃない。
喉の奥が鳴る。
怖い。
怖いのに、体は妙に落ち着いている。
ここに"戻ってきた"みたいに。
遠くで三味線が鳴った。
障子の向こうで弦をつまびく、あの音。
音が空気を震わせて、私の胸の奥を指でなぞる。
私は足を動かした。
草履の感触がある。
足袋が足を包む。冷えが布越しに伝わる。
勝手口から路地に出ると、雪が頬に当たった。
溶けて、水になって頬を滑る。
その水滴が、なぜか悲しい。
私は「悲しい」を慌てて押し込めた。
悲しんだら、泣いてしまう。
泣いたら、戻れない。
……戻れない?
私は立ち止まった。
戻るって、どこに戻るの。
ここは夢なのに。
道の先に灯りが見えた。
行灯の淡い光。障子越しの橙。
その光のところに、人影がある。
女の子だった。
髪をきっちり結い、薄い羽織を肩にかけた女の子が、雪を避けるように軒下に寄ってこちらを見ている。
私と目が合った瞬間、女の子は目を丸くした。
――藤。
声に出していないのに、名前がわかる。
私の知らない記憶が、私に流れ込む。
藤が駆け寄ってきた。
「……志乃さま!」
その呼び方に、胸の奥が震えた。
私の名前ではない。
でも、私の体が答える。
「藤……?」
藤は私の袖を掴んだ。指先が冷たい。
「また、外に出て……足、冷えるでしょ。こっち、早よう」
私は藤に引かれるまま、格子戸の内側へ入った。
途端に、匂いが濃くなる。
湿った木。畳。線香。
そして、炭の匂い。
火鉢だろうか。どこかで炭が赤く熾っている。
暖かさが、皮膚から骨に染み込む。
私は思わず、息を吸い込んだ。
その瞬間、また鐘が鳴る。
ごん。
ごん。
雪の夜の空気の中で、鐘は重く響いた。
胸の奥のなにかが、それに応える。
藤が私を座敷へ押し込む。
障子が閉まる。外の白と切り離される。
座敷は薄暗い。
障子越しの光が柔らかい輪郭を作り、畳の目が見える。
私は座った。
座った瞬間、膝の位置が"しっくり"来た。
しっくり来ることが、怖い。
藤が白湯を持ってくる。
椀の湯気が、私の頬に触れた。
私はそれを受け取った。
熱い。現実だ。
「志乃さま、今日のこと……」
藤の声が小さくなる。
怖がっている。
私も、怖い。
「今日って……」
言いかけた瞬間、廊下の向こうで足音がした。
硬く、迷いのない足音。
こちらへ向かってくる。
私は息を止めた。
藤の肩が跳ねる。
「……旦那さま」
空気が冷える。
雪とは違う冷え方。
足音が、障子の前で止まった。
紙が、すうっと擦れる音がする。
扉が開く——その寸前。
私はなぜか、知っていた。
その声が、私を"志乃"に戻すことを。
「……また、八坂へ行ったのか?」
低い男の声が耳に触れた瞬間、世界が裏返った。
*
「上原先生?」
誰かが私の肩を叩いた。
私は息を吸った。
冷たい空気。
保健室の匂い。消毒液ではないけれど、薬品の薄い匂い。
私は目を開けた。
保健の先生が心配そうに覗き込んでいる。
カーテン越しに、夕方の光が差している。
「うなされてたで。大丈夫?」
うなされてた。
私は夢を見ていた。
夢。
そうだ、夢だ。祇園の雪なんて、ありえない。
私は頷こうとして、言葉が出なかった。
喉が渇いている。
保健の先生が白湯を持ってきてくれた。
私は受け取って、一口飲んだ。
熱い。
それだけで、少しだけ現実が戻る。
夢だった。
大正十二年も、藤も、旦那さまも。
全部、夢。
そう思った瞬間。
掌が、冷たい。
マグカップを置き、自分の手のひらを見た。
水滴がついている。
小さな水滴。
汗ではない。汗の匂いがしない。
私は指で拭った。
水は、ひんやりしている。
――雪解けの水みたいに。
背中がぞわっとした。
私は慌てて自分の膝の上を見る。
制服のスカートの上に、細い糸が一本落ちていた。
白でも黒でもない、淡い色。
絹糸みたいに、つやがある。
私は指先でそれを摘まんだ。
軽い。
なのに、指に残る。
私は息を止めた。
心臓が一拍遅れて跳ねる。
夢なら、残らない。
夢なら、こんな"物"は持ち帰れない。
私は糸を見つめたまま、喉の奥がきゅっと締まるのを感じた。
その時、ベッドの脇でなにかが光った。
教科書とチョークホルダーとポーチにつけた澪守。
私はゆっくりとお守りに触れた。
指先が震える。
とくん。
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私は息を呑んだ。
夢ではない。
――私は、もう戻れない場所に足を踏み入れている。
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