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第一章
23 時雨降る
しおりを挟む海斗の第一声は、予想通りに謝罪から始まった。
「まことに申し訳ありません。どうやら笹原なぎさが余計なことをしたようで」
「余計なことって、なんですか」
いつものカラオケ店である。人目を気にして、律は海斗とここで現地集合することにしたのだ。注文した品はすでにテーブルの上に置かれている。アイスコーヒーとウーロン茶。あとはフライドポテトや唐揚げなど、つまむものが中心だ。
先に連絡をしてきたのは海斗だった。「お話があります。早急に、どうしてもふたりきりで。どうかお時間をください。お願いいたします」と、平身低頭の体での「お願い」だった。
律と話をするために、海斗はわざわざバイトを休んだようである。そうでなければ、平日の夕方にそうそう体が空く男ではない。
「メッセージでもお伝えした通り、あなたに余計な真似をしないようにと釘を刺しておいたのですが。どうやら俺と別れたことを友達に愚痴ったようで」
「ああ……」
女の人にはよくあることだな、とまず思った。恋人に振られたことを友達に愚痴るぐらいのこと、だれにだって許されてしかるべきだろう。もちろんそんなことに男も女もない。なんなら比較的女々しい性格の自分だって、許されるならば盛大に愚痴り大会を開いてしまう側だと思う。
「それだけならまだしも、あなたと俺が、つまり……」
言いかけて海斗は口ごもった。口元を片手で隠し、困り果てた顔で視線をあらぬ方へ向けている。
「本人にも確認したのですが、どうやら笹原はその日、かなり酒も飲んでいて酔っていたらしく……。記憶が曖昧で、友人に何をどこまで話したのかも定かではない様子で。非常に反省はしていまして、あなた様にも謝っておいてほしいと言われました。後ほど、本人からも直接謝罪があるかと思います」
(そう、なのか……)
重たい岩がいくつも、胃の腑へずっしりと押し込まれたような感じがした。童話「七ひきの子ヤギ」でお母さんヤギにおなかにいっぱいの石をつめこまれたオオカミは、ちょうどこんな感じだったのかもしれない。
きっと笹原なぎさは、その友達についぽろっと何か言ってしまったのだろう。要するに律が海斗に、単なる先輩に対する友情以上のなにかを感じている、とかなんとかいったことを。その友達がその話を軽い気持ちでほかの友達にしてしまい、その話に尾ひれがついて、学内で広まってしまったのでは──。
……つまり、「青柳律はゲイである」と。
そして清水海斗に懸想をしている、と。
あまりのことにぼんやりしていたら、いつのまにかまた海斗が目の前で床に座り、必死で頭を下げてきていた。
「まことに申し訳ありません……! あなた様にだけは、決してご迷惑をかけぬつもりだったのですが」
「そんなことはいいんです。むしろ、こっちこそごめんなさい」
言っている自分の声が妙に遠く、棒のように平板に聞こえた。
「とんでもない。あなた様が自分に謝罪する必要など」
「あるんだよ! めちゃくちゃあるんだっ」
ほとんど叫ぶようにして言ってしまってから、律はぱっと両手で顔を覆った。
「俺は何も言わなかったんです。態度にも出してないつもりだった。でも笹原さんには、気づかれてしまって……。だから、海斗さんにこそ迷惑をかけちゃったんです。俺が。……俺が悪いんです。俺が全部悪い。本当にごめんなさい」
「気づかれる……? 悪い、とは」
海斗は心の底からびっくりしているようだった。澄んだ瞳をいっぱいに開いて、今度はじっと律を見つめてくる。
じわじわと耳が熱くなっていくのを感じて、律はぎゅうっと目を閉じた。
もうだめだ。
とても隠しおおせない。
この人だって、そこまで鈍いわけではない。
が、海斗は首を横に振った。
「いえ。あなた様が悪いなどということがあるはずがありません。それもこれも、あの女性の勝手な思い込みによるもの。酒に酔っていたとはいえそんなプライバシーに関わることを、あんな風に他人に広めるなんて──」
許せませぬ、と悔しそうに自分の膝を拳で殴りつけている。
「そうじゃないっ!」
「……はい?」
海斗がますます訝しげになった顔をあげた。
だが、次の言葉はどうしても出てこなかった。
大切な言葉は喉のところで固く詰まって、どうしたって外へは出てこない。
あたり前だ。あんな風に、いつ自分の命が無くなってもおかしくなかった時代と立場だったときでさえ、自分はこの男に自分の気持ちのごく片鱗の部分ですら伝えることができなかった。
あの、雪の日。
甥に討たれた死の間際、もしも彼がすぐそばにいたとしても伝えられたかどうかは定かでない。
それぐらい自分は意気地がなかった。
あなたを好いているのだと、身分も性別も越えて、だれよりあなたを恋い慕っているのだと、そう伝える勇気がなかった。
それでもただ胸に秘めているだけなのは苦しくて、やるせなくて。
だからつい、「こんな歌を詠んでみたのだ」なんて言って、手すさびに書きさした風を装ってあの歌を彼にみせた。彼が「私も少し歌を学んでみとうございます」なんて言ったのをいいことに。「春霞」ではじまる、あの歌を。
泰時はしばらく歌に目を落とし、それから困惑したような顔をあげ「これは……恋の歌ではございませぬか?」と自分に返してきたものだ。
自分は「ああ、うっかりしていた。間違えたよ」なんてごまかして歌を受け取り、そのまま自分の胸の痛みにも蓋をした。
あれは、そなたに宛てた歌だった。
そなたへの気持ちを歌に託したものだった。
……あなたはそれに気づかぬまま、いや気づいていたのだとしても受け入れることはできぬまま、ただ知らぬふりをしたのだろうけれど。
それがあの時、あの時代のわたしたちだったのだ。
時雨降る おほあらき野の 小笹原 濡れは漬づとも いろに出でめや
『金槐和歌集』385
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