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第一章
27 芦の屋の
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「ん? 律にい、どうしたのその手首」
「え。ああ……べつに」
夜。夕食がすんでふたりで食器を洗っていたら、妹の彩矢の視線を感じた。食後の食器洗いは、律と彩矢の担当なのである。
(やっぱり痣になっちゃったな)
あれからもずいぶん長いことカラオケ店で話し込んでしまったが、海斗とはつい二時間ほど前に別れたところだった。結局、「勝手にあなたの目の前から去ったりしない」と何度も約束させられた挙げ句のことだ。それでも海斗は去りがたい顔をして、何度も何度も律のほうを振り返りながら帰っていった。
最後に手についた洗剤の泡を洗い流して、律はなんとなく自分の手首の、少し色が変わってしまった場所を撫でた。そこは海斗の指の形のまま、うっすらとした赤紫色になっている。
「ちょっとぶつけただけだよ。うっかりしてて」
「ふーん。気をつけなよー」
彩矢は自分で訊いておきながら大した興味があったわけではなかったらしく、そう言っただけでさっさと風呂に入りに行ってしまった。彼女は一番風呂に入りたがるうえに、かなりの長風呂なのである。
「あらなあに、律。ケガ?」
「ん、ちょっとね。別にたいしたことないよ」
リビングでお気に入りのドラマの録画を再生しはじめていた麻沙子がこっちをむいて言ったが、律はそれにも曖昧な返事をしただけで、早々に自分の部屋に退散した。
考えたいことは山ほどある。
明日の零時までに提出するように言われたレポートも書かなくてはならないのに、どうも頭の中がとっちらかったようになって、考えがまとまらなかった。いつもならもっと余裕をもって作業するのに、どうしても手につかなかったのだ。
(離れたくない、はわかったけどさ……)
ほんとうに、今のままでいいのだろうか。
彼は北条泰時であったときの記憶をひきずったまま、かつて悲劇的な別れ方をした源実朝の面影を追っているようにしか見えない。
自分が今も昔も、単なる知人や臣下として彼に好意を持っているわけではないと知っても、ほとんどたじろぐこともせずに「どうかお去りにならないで」と懇願されてしまった。
正直、戸惑っている。
彼の気持ちをどのように理解したらいいのかわからない。
(いや、ダメだ。自分に都合のいいようにばっかり考えるのは、ほんと良くない)
あわよくば、彼がこちらを振り向いてくれないかと、想いが通じ合ってくれればいいがと、そんな勝手な期待を抱きたくなってしまう自分が恨めしい。惚れた者の弱みとはいうが、まさにそんな感じだ。
自室でベッドに寝転がり、講義のテキストとノートパソコンを開いたまま放り出して、手の中でスマホをもてあそんでいたら、それがまたブブッと震えた。
海斗からの電話だった。
《こんばんは。今日はすみません。長いことお引きとめして》
「あ。い、いいえ」
海斗は相変わらずの敬語だった。もう元には戻らないのだろうか。
《遅くなりすぎたので、肝心のお話ができていませんでした。今、いいでしょうか》
「肝心な話?」
《はい。明日から大学でどうするかということです》
「……ど、どうするって?」
昨日の大学内でのほかの学生たちの様子を思い出して、急に胃のあたりがキリッと痛んだ。
そうだ。例の問題は続行中なのである。
《おひとりでいない方がいいかと思います。最近ではLGBTQへの理解が進んでいますし、学内でゲイやレズビアンであることを公言しているようなやつもいますけれども》
「そうなんですか?」
《ええ。さすがに大学生にもなって、そんなことでイジメをやる奴は少数でしょうし。でも、からかったり変な噂を流したり、変な目で見てくる者がまったくいないとは言えませんので──》
「……そう、ですよね」
自分からカミングアウトした人は、それなりに覚悟をもってそうしたのだろう。だから、ある程度心の準備ができているだろう。でも、律はそうではない。
《さねともさ……いえ、律くんはどうしたいですか》
「どうしたい、とは」
《つまり、このままゲイであることを認めるか、そうではないと主張してほとぼりが冷めるのを待つか……ということなんですが》
「うう……ん」
律は頭を抱えた。
そんなこと、急に言われてすぐに決められるわけがない。
でも、「噂のとおり自分はゲイです」と公言して生きていくのは無理がありすぎるような気もした。人見知りで内向的な自分が、昨日のような状態で平気な顔をして大学に通い続けられるだろうか。とても自信がない。
《その……。先ほど言いそびれてしまったのですが。提案があるのです》
「はい?」
《勝手なことを申していましたら、どうかお許しください。でも、もしも……》
そこで少し、海斗の声が躊躇うように途切れた。
《もしもあなたが、カミングアウトした形で大学生活を送るとおっしゃるのであれば、どうか自分にそのお手伝いをさせていただきたく》
「て、手伝いって……まさか」
《はい》
なんだか嫌な予感がする、と思った。
そしてその予感はぴたりと当たってしまった。
《自分に、あなた様の恋人役をさせていただけないでしょうか》
「ええ……っ」
思わずスマホを取り落としそうになった。
芦の屋の 灘の塩焼 われなれや 夜はすがらに くゆりわぶらむ
『金槐和歌集』394
「え。ああ……べつに」
夜。夕食がすんでふたりで食器を洗っていたら、妹の彩矢の視線を感じた。食後の食器洗いは、律と彩矢の担当なのである。
(やっぱり痣になっちゃったな)
あれからもずいぶん長いことカラオケ店で話し込んでしまったが、海斗とはつい二時間ほど前に別れたところだった。結局、「勝手にあなたの目の前から去ったりしない」と何度も約束させられた挙げ句のことだ。それでも海斗は去りがたい顔をして、何度も何度も律のほうを振り返りながら帰っていった。
最後に手についた洗剤の泡を洗い流して、律はなんとなく自分の手首の、少し色が変わってしまった場所を撫でた。そこは海斗の指の形のまま、うっすらとした赤紫色になっている。
「ちょっとぶつけただけだよ。うっかりしてて」
「ふーん。気をつけなよー」
彩矢は自分で訊いておきながら大した興味があったわけではなかったらしく、そう言っただけでさっさと風呂に入りに行ってしまった。彼女は一番風呂に入りたがるうえに、かなりの長風呂なのである。
「あらなあに、律。ケガ?」
「ん、ちょっとね。別にたいしたことないよ」
リビングでお気に入りのドラマの録画を再生しはじめていた麻沙子がこっちをむいて言ったが、律はそれにも曖昧な返事をしただけで、早々に自分の部屋に退散した。
考えたいことは山ほどある。
明日の零時までに提出するように言われたレポートも書かなくてはならないのに、どうも頭の中がとっちらかったようになって、考えがまとまらなかった。いつもならもっと余裕をもって作業するのに、どうしても手につかなかったのだ。
(離れたくない、はわかったけどさ……)
ほんとうに、今のままでいいのだろうか。
彼は北条泰時であったときの記憶をひきずったまま、かつて悲劇的な別れ方をした源実朝の面影を追っているようにしか見えない。
自分が今も昔も、単なる知人や臣下として彼に好意を持っているわけではないと知っても、ほとんどたじろぐこともせずに「どうかお去りにならないで」と懇願されてしまった。
正直、戸惑っている。
彼の気持ちをどのように理解したらいいのかわからない。
(いや、ダメだ。自分に都合のいいようにばっかり考えるのは、ほんと良くない)
あわよくば、彼がこちらを振り向いてくれないかと、想いが通じ合ってくれればいいがと、そんな勝手な期待を抱きたくなってしまう自分が恨めしい。惚れた者の弱みとはいうが、まさにそんな感じだ。
自室でベッドに寝転がり、講義のテキストとノートパソコンを開いたまま放り出して、手の中でスマホをもてあそんでいたら、それがまたブブッと震えた。
海斗からの電話だった。
《こんばんは。今日はすみません。長いことお引きとめして》
「あ。い、いいえ」
海斗は相変わらずの敬語だった。もう元には戻らないのだろうか。
《遅くなりすぎたので、肝心のお話ができていませんでした。今、いいでしょうか》
「肝心な話?」
《はい。明日から大学でどうするかということです》
「……ど、どうするって?」
昨日の大学内でのほかの学生たちの様子を思い出して、急に胃のあたりがキリッと痛んだ。
そうだ。例の問題は続行中なのである。
《おひとりでいない方がいいかと思います。最近ではLGBTQへの理解が進んでいますし、学内でゲイやレズビアンであることを公言しているようなやつもいますけれども》
「そうなんですか?」
《ええ。さすがに大学生にもなって、そんなことでイジメをやる奴は少数でしょうし。でも、からかったり変な噂を流したり、変な目で見てくる者がまったくいないとは言えませんので──》
「……そう、ですよね」
自分からカミングアウトした人は、それなりに覚悟をもってそうしたのだろう。だから、ある程度心の準備ができているだろう。でも、律はそうではない。
《さねともさ……いえ、律くんはどうしたいですか》
「どうしたい、とは」
《つまり、このままゲイであることを認めるか、そうではないと主張してほとぼりが冷めるのを待つか……ということなんですが》
「うう……ん」
律は頭を抱えた。
そんなこと、急に言われてすぐに決められるわけがない。
でも、「噂のとおり自分はゲイです」と公言して生きていくのは無理がありすぎるような気もした。人見知りで内向的な自分が、昨日のような状態で平気な顔をして大学に通い続けられるだろうか。とても自信がない。
《その……。先ほど言いそびれてしまったのですが。提案があるのです》
「はい?」
《勝手なことを申していましたら、どうかお許しください。でも、もしも……》
そこで少し、海斗の声が躊躇うように途切れた。
《もしもあなたが、カミングアウトした形で大学生活を送るとおっしゃるのであれば、どうか自分にそのお手伝いをさせていただきたく》
「て、手伝いって……まさか」
《はい》
なんだか嫌な予感がする、と思った。
そしてその予感はぴたりと当たってしまった。
《自分に、あなた様の恋人役をさせていただけないでしょうか》
「ええ……っ」
思わずスマホを取り落としそうになった。
芦の屋の 灘の塩焼 われなれや 夜はすがらに くゆりわぶらむ
『金槐和歌集』394
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