金槐の君へ

つづれ しういち

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第一章

38 塔を組み

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 律の記憶はそこからとても曖昧だ。
 ずっと泥の中をもがいているような、ほとんど息も吸えないような、ねっとりとした重い息苦しさが続いていた。それぐらいしか憶えていない。
 だれかに何かを訊かれて受け答えをしたりうなずいたりはしたような気もする。だが、なにをどう答えたのかはまったく記憶になかった。警察官の恰好をした人がいたように思うけれど、それすらなんだか自信がない。だれかに「それは君の夢だよ、勘違いだよ」と言われたら、すぐに信じてしまうかもしれないぐらいだ。
 気がつけば律は、自分のバックパックを胸に抱えてぽつねんと病院の待合室の片隅に座りこんでいた。

(……あれ。なんだろう)

 ここはどこだ。
 見覚えのない病院。待合室の入口の向こうでは、医師や看護師たちがせかせかとあちこち行き来している。だれかの手術を待ってでもいるのか、家族づれがひと組、隅のテーブル席に座ってひそひそと話している。
 陽はすっかり落ちてしまったらしい。時計を見ると、薄いカーテンをすかして橙色だいだいいろの光がそっと今日の最後の仕事をしおわったのはずいぶん前のことだったようだ。病院というのは、昼間でも部屋の明かりがついたままのことが多い。今ではもう、陽の光が室内の人工灯の明かりに静かにとって代わられていた。その変化を、律はだまってぼんやりと見ていた。
 目の下から顎にかけて、肌がぱりぱりになってつっぱっている。涙が乾いた跡だ。喉はもうがさがさで、口の中はからからだった。彼の名前をひたすらに叫びすぎたために。

(やす、とき……)

 たとえ針先ほどすらあのときのイメージを思い出したくなくて、律はぎゅうっとバックパックを抱きしめ、うずくまるようにした。
 
(やすとき、やすとき……っ)

 自分のせいだ。自分があんまりぼうっとしていて、まだ信号の変わりきっていない横断歩道へ飛び出そうとしたところを、彼が必死で後ろから止めてくれた。その反動で彼自身が車道へ放り出される形になったのだ。運悪く、そこへ車が突っ込んできた。
 
(どうしよう)

 このまま泰時が……なんていうことになったら。
 そんなこと、信じない。信じたくない。きっと助かると信じてる。
 でも、もしも万が一、そんなことになってしまったら。
 私はいったい、どうしたらいいんだ。
 一体どうやって責任を取ればいい?
 
 律はバッグを抱えたままで靴を脱ぎ、椅子に両足を上げて小さく丸まり、ずっとゆらゆらと体を揺すり続けている。

南無なむ八幡大菩薩はちまんだいぼさつ──)

 無意識に浮かんできた祈りの言葉に、思わず苦笑してしまう。
 なんという皮肉だろう。
 その八幡宮の社前の石段下で死にからめとられた自分が、一体いまさら、なにを菩薩に願うというのだろうか。

 しかし、今はどんなものにでも祈りたい気持ちだった。
 どうか、どうか。
 どうか泰時を、海斗を連れ去らないでくださいませ。
 あの時、自分は置いてきぼりにしてしまった側だった。だから、今回は置いてきぼりにされる側になるのもしょうがないのかもしれない。むしろそれこそが「運命だ」と言えてしまうのかもしれない。

(でも……いやだ)

 そんなことになるのは耐えられない……!
 ぎゅっと目を閉じたまま、どのぐらい時間が過ぎた頃か。軽い衣擦れと靴音が近づいてきた。大股の、男性の足音だった。
 ほかの家族はさきほど、看護師に呼ばれて移動したあとである。部屋にはいま、律しかいない。
 足音は部屋の入口近くで一度止まって、ためらうようにそっとこちらに近づいてくると、律から少し離れた場所で止まった。

「……あの。青柳くんですか」

 律はのろのろと目を上げた。
 サラリーマン風の中年の男性が立っている。黒縁の眼鏡に、着古した感じのグレーの背広とベージュのコート。やせ型で背が高い。短めの髪にはちらほらと白いものが混じっている。
 男の見覚えのある目元を見て、律はハッとした。

「……あ。あの……海斗さんの?」
 男性はほっとしたような表情になってうなずいた。
「はい。海斗の父です」
「あ、……ああっ」

 律は転がるように椅子から飛びおりると、バックパックを放り出して男性の前に座り込んだ。そのままぴたりと土下座する。「えっ」という仰天したような声が降ってきた。

「もうしわけありませんっ! ごめんなさい、ごめんなさいいっ……!」
「あ、青柳くん? ちょっと待って」

 男性が必死に止める声は聞こえていたが、律はまたもや泣きじゃくりながら、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返し、床に額をこすりつけた。



たふを組み だうをつくるも 人の嘆き 懺悔ざんげにまさる 功徳くどくやはある
                      『金槐和歌集』616
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