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4 家出少年 その4
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彼が貸してくれた下着とスェットの上下は晴彦には少し大きかったが、着られないほどではなかった。スェットの余る部分を折り返して着て戻ると、晴彦が寝ていた隣の部屋から彼が手招きした。
そちらに行くとオープンキッチンのすぐ脇にある六人掛けの広いダイニングテーブルの上に食事の用意がされていた。
「そっちのテーブルは狭いからこっちにしたんだ。苦手な物がないといいけど」
「……あの」
何、と首を傾げて聞き返してきた彼に、晴彦は頭を下げた。
「助けてくれてありがとうございました」
本当は目覚めた時真っ先に言わなければならない言葉だった。詳しく問う事もせず、警察にも連絡しないで未成年の自分を保護してくれた。場合によっては罪に問われるかもしれないのに。
しかし彼は笑って手を振った。
「お礼を言われるほどのことはしてないよ。そんなことより、さあ、座って」
「でも、あ、あの、実は、僕は」
家出して来たのだと言おうとして、彼に制された。
「話は食事の後でもいいだろう。特に、君自身の話はね」
真摯な声に晴彦が思わず彼を見返すと、彼は落ち着いた大人の顔で晴彦に言い聞かせるように続けた。
「栄養が足りないと脳の働きが悪くなる。集中力や思考力が落ちた状態じゃ君が僕に話したいと思っていることも、うまく言葉にならないかもしれないだろう。だから」
食べてからにしようと柔らかく背中を押されて促され、晴彦は椅子に座った。
差し出されたご飯が山盛りの茶碗を受け取り、「いただきます」と呟く。
遠慮も礼儀もそこで忘れてしまった。一口食べると、猛然と湧いてきた食欲に身を乗っ取られて、無言で、ひたすら、食べた。目の前に座った彼の存在も忘れるほど晴彦の意識は食欲を満たすことに囚われた。気が付けば全ての皿が空っぽになっていた。
湯のみに茶を注いでくれながら、彼は感嘆のため息を漏らした。
「さすが成長期の男子。見事な食べっぷりだ」
そう言われて、欲に忠実過ぎた身が急に恥ずかしくなり、謝った。
「すみません。あの、あなたは食べなくて良かったんですか」
彼の前には皿も茶碗もない。食事は晴彦の為だけに用意されたものだったことに今更気付いた。
「うん、僕は君が起きる少し前に食べたからね」
何気なく彼が視線を向けた方を見ると、壁に掛かった時計が目に入った。カレンダー機能も付いているデジタル時計が平日の午後一時過ぎを表示していた。
「あの、仕事は。もしかして僕の為に休んだんですか」
普通の勤め人なら家にいて良い時間ではない。そこまで迷惑をかけてしまったのかと焦る晴彦に、彼は笑って首を振った。
「いや、心配しなくてもいいよ。僕は自由業なんだ。ああ、そういえば、お互い名前もまだ名乗ってなかったね」
迂闊な話だが言われるまで晴彦も気付かなかった。
「僕は、久住晴彦です」
「僕は羽崎薫。一応作家という肩書を貰ってる」
小説家、と目を見開いた晴彦に、羽崎ははにかんだ笑みを見せた。
「有名じゃないけど、まあ、なんとか生活が成り立つぐらいは稼げてるから」
生活と聞いて家族を連想した晴彦は、あの少女を思い出す。
「あの、羽崎さんは奥さんいないんですか」
羽崎に少しも顔立ちが似ていないあの異様な少女を娘かと問うのは躊躇われ、外堀から埋めることにした。
「うん、僕はまだ独身だよ」
まだ、ということは結婚の経験はないのだ。離婚して娘と二人暮らし、ではないのか。
「この近所に家は」
この家に近い林の中にいたので当然この家の子だと決めつけていたが、近くの子供が遊びに来ていただけだったのかもしれない。
「ないよ」
しかし羽崎はその予想にも首を振った。
「君が倒れていた林一帯含めて、この家の土地なんだ。家の裏側は海になってる。崖の上に経っている家だから眺めはいいんだが、残念ながら海岸へ下りる道はないから釣りはできないな」
一番近い人家は五キロ先にある老人ホームだという。
「元々ここは別荘として建てた家なんだそうだ。知り合いを通じて貸してもらった家で、辺鄙だけどその分静かで仕事に没頭できるから僕は気に入ってる」
では、あの子は一体――。
「あの……林の中に女の子がいて」
晴彦が思い切って率直に少女と出会った時のことを話すと、羽崎は一瞬目を見張り、答えた。
「あの子は、千代子というんだ。千代子さんが君のことを知らせてくれたんだよ」
ここで一緒に暮らしているが実の娘ではなく、色々事情があって羽崎が引き取ったのだそうだ。
今の時代に『千代子』という名は少し古くさい感じもしたが、妙な漢字を使って普通に読めない名前よりは好感が持てた。
「あの子は、その、何というか」
羽崎は言い難そうに、顔をしかめた。
「もし君が何か話しかけたのに無視したとしても、気を悪くしないで欲しい。あの子は」
羽崎は躊躇いがちに言葉を切り、そして続けた。
「あの子は……基本的に他人と会話をしないんだよ」
「話せないんですか?」
「いや、話せないじゃなくて、話さないんだ」
「羽崎さんとも話さないんですか?」
「いや、僕とは普通に話すよ。でも他の人間とは喋らない。自分から人に近づくことも余りない」
子供らしい表情もなく虚ろにも見える瞳の少女を思い出し、晴彦は顔をしかめた。あの異様さを晴彦の常識で考えれば、千代子は精神を病んでいるとしか思えない。
表情から晴彦の考えを察したのか、羽崎は苦笑した。
「大丈夫、病気ではないんだ」
何故喋らないか、理由は分かっていると彼は言う。
「どうして羽崎さん以外の人とは喋らないんですか」
素朴な疑問だった。羽崎は穏やかで優しいから子供が懐くのは分かるが、彼のような人なら世の中に他にもいる。
羽崎以外の人間と口を利かないのなら、羽崎と他に人間の何が違って口を利かないのだろう。
「何て言えば良いのか……そう、ごく簡単に言えば、人見知りが強いみたいなもの、だね。あの子は自己独特の基準で口を利く相手を選んでいるんだ」
その基準は羽崎にも分からないらしい。多分千代子の幼い語彙では説明しきれない感性があるのだろう。
「人がそこにいても話したい相手でなければ、いないものとして存在を無視する。同じ空間にいても、存在を認めない。そういう子だと思ってくれれば良い」
晴彦は、何か分かるような気がした。
彼女は周りの人間を透明人間扱いしているのだろうが、晴彦はその逆だった。
教室の中で、自分だけが透明だった。
「でも、病気じゃなくても、人を無視するような性格だと将来困ったことになるんじゃないですか?」
学校に通う歳になっても自分が気に入った人としか話さないなんて、級友とトラブルになる確率が高い。
それに大人になって仕事に就けば、自分基準で会話する人を選んでいては仕事にならない。いや、それ以前に就職なんて出来ないだろう。
今のうちに好きでない相手とでも最低限の会話くらい出来るように躾けるべきではないのか。
晴彦がそう言うと羽崎は首を振った。
「誰にでも、どうやってもできないことはある。自分ができるからと言って他人もできるとはかぎらないだろう。教育の名を借りて、大人が無理に自分に都合の良い型枠にはめようとする事の方が問題だよ」
羽崎は晴彦を真っ直ぐに見て、言い切った。
「これは千代子さんの性質だ。僕は矯正しようとは思わない」
晴彦はその言葉で個性を守られている千代子が酷く羨ましかった。
もしかしたら、千代子のちょっと普通ではない点が両親の手に余り、千代子を理解できる羽崎が見かねて引き取ったのではないだろうか。
この世にひとりでも自分の理解者がいるのは幸福なことだ。
世の中にはこんな風に持って生まれた性格を尊重してくれる親がいるというのに。
それに比べて自分は……。
「で、久住君はどうして家出したの?」
言い当てられ、いつの間にか俯いていた顔を上げて目を見開いた晴彦に、羽崎は笑う。
「見れば分かるよ。この近辺の中学の制服はブレザーじゃないし、服の汚れも日常生活での汚れにしては酷すぎる。しかも空腹で行き倒れるなんて、行き先がない証拠だろう。荷物も持ってないところを見ると、思い余って発作的に行動してしまったんだろうけど、その後も行き当たりばったりで投げやりだったようだね」
作家と言う人種の観察力と推理力に敬意を示したくなった。
「死ぬつもりではなかったよね」
あっさり、映画のあらすじでも聞かれるように問われて、晴彦の方がかえって戸惑った。
「は、はい、別に自殺しようと思ってたわけじゃ」
「うん、君は『帰りたくない』と言った。それは、君がいた環境以外の所で生きたいということだ」
作家は理解力も優れていた。ようやく共通の言語を有している大人と巡り合えたような気さえした。
「何故こんな無計画な家出をしてしまったの」
「僕は」
一言呟いた後絶句して俯いた晴彦を、羽崎は急かさなかった。晴彦自らが口を開くまで、黙って待ってくれた。
長い沈黙の後、晴彦はようやく答えを声にした。
「イジメに遭ってたんです。半年ほど前から」
孤立無援の地獄だった日々を思い出し、晴彦の声は大きく震えた。
そちらに行くとオープンキッチンのすぐ脇にある六人掛けの広いダイニングテーブルの上に食事の用意がされていた。
「そっちのテーブルは狭いからこっちにしたんだ。苦手な物がないといいけど」
「……あの」
何、と首を傾げて聞き返してきた彼に、晴彦は頭を下げた。
「助けてくれてありがとうございました」
本当は目覚めた時真っ先に言わなければならない言葉だった。詳しく問う事もせず、警察にも連絡しないで未成年の自分を保護してくれた。場合によっては罪に問われるかもしれないのに。
しかし彼は笑って手を振った。
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「でも、あ、あの、実は、僕は」
家出して来たのだと言おうとして、彼に制された。
「話は食事の後でもいいだろう。特に、君自身の話はね」
真摯な声に晴彦が思わず彼を見返すと、彼は落ち着いた大人の顔で晴彦に言い聞かせるように続けた。
「栄養が足りないと脳の働きが悪くなる。集中力や思考力が落ちた状態じゃ君が僕に話したいと思っていることも、うまく言葉にならないかもしれないだろう。だから」
食べてからにしようと柔らかく背中を押されて促され、晴彦は椅子に座った。
差し出されたご飯が山盛りの茶碗を受け取り、「いただきます」と呟く。
遠慮も礼儀もそこで忘れてしまった。一口食べると、猛然と湧いてきた食欲に身を乗っ取られて、無言で、ひたすら、食べた。目の前に座った彼の存在も忘れるほど晴彦の意識は食欲を満たすことに囚われた。気が付けば全ての皿が空っぽになっていた。
湯のみに茶を注いでくれながら、彼は感嘆のため息を漏らした。
「さすが成長期の男子。見事な食べっぷりだ」
そう言われて、欲に忠実過ぎた身が急に恥ずかしくなり、謝った。
「すみません。あの、あなたは食べなくて良かったんですか」
彼の前には皿も茶碗もない。食事は晴彦の為だけに用意されたものだったことに今更気付いた。
「うん、僕は君が起きる少し前に食べたからね」
何気なく彼が視線を向けた方を見ると、壁に掛かった時計が目に入った。カレンダー機能も付いているデジタル時計が平日の午後一時過ぎを表示していた。
「あの、仕事は。もしかして僕の為に休んだんですか」
普通の勤め人なら家にいて良い時間ではない。そこまで迷惑をかけてしまったのかと焦る晴彦に、彼は笑って首を振った。
「いや、心配しなくてもいいよ。僕は自由業なんだ。ああ、そういえば、お互い名前もまだ名乗ってなかったね」
迂闊な話だが言われるまで晴彦も気付かなかった。
「僕は、久住晴彦です」
「僕は羽崎薫。一応作家という肩書を貰ってる」
小説家、と目を見開いた晴彦に、羽崎ははにかんだ笑みを見せた。
「有名じゃないけど、まあ、なんとか生活が成り立つぐらいは稼げてるから」
生活と聞いて家族を連想した晴彦は、あの少女を思い出す。
「あの、羽崎さんは奥さんいないんですか」
羽崎に少しも顔立ちが似ていないあの異様な少女を娘かと問うのは躊躇われ、外堀から埋めることにした。
「うん、僕はまだ独身だよ」
まだ、ということは結婚の経験はないのだ。離婚して娘と二人暮らし、ではないのか。
「この近所に家は」
この家に近い林の中にいたので当然この家の子だと決めつけていたが、近くの子供が遊びに来ていただけだったのかもしれない。
「ないよ」
しかし羽崎はその予想にも首を振った。
「君が倒れていた林一帯含めて、この家の土地なんだ。家の裏側は海になってる。崖の上に経っている家だから眺めはいいんだが、残念ながら海岸へ下りる道はないから釣りはできないな」
一番近い人家は五キロ先にある老人ホームだという。
「元々ここは別荘として建てた家なんだそうだ。知り合いを通じて貸してもらった家で、辺鄙だけどその分静かで仕事に没頭できるから僕は気に入ってる」
では、あの子は一体――。
「あの……林の中に女の子がいて」
晴彦が思い切って率直に少女と出会った時のことを話すと、羽崎は一瞬目を見張り、答えた。
「あの子は、千代子というんだ。千代子さんが君のことを知らせてくれたんだよ」
ここで一緒に暮らしているが実の娘ではなく、色々事情があって羽崎が引き取ったのだそうだ。
今の時代に『千代子』という名は少し古くさい感じもしたが、妙な漢字を使って普通に読めない名前よりは好感が持てた。
「あの子は、その、何というか」
羽崎は言い難そうに、顔をしかめた。
「もし君が何か話しかけたのに無視したとしても、気を悪くしないで欲しい。あの子は」
羽崎は躊躇いがちに言葉を切り、そして続けた。
「あの子は……基本的に他人と会話をしないんだよ」
「話せないんですか?」
「いや、話せないじゃなくて、話さないんだ」
「羽崎さんとも話さないんですか?」
「いや、僕とは普通に話すよ。でも他の人間とは喋らない。自分から人に近づくことも余りない」
子供らしい表情もなく虚ろにも見える瞳の少女を思い出し、晴彦は顔をしかめた。あの異様さを晴彦の常識で考えれば、千代子は精神を病んでいるとしか思えない。
表情から晴彦の考えを察したのか、羽崎は苦笑した。
「大丈夫、病気ではないんだ」
何故喋らないか、理由は分かっていると彼は言う。
「どうして羽崎さん以外の人とは喋らないんですか」
素朴な疑問だった。羽崎は穏やかで優しいから子供が懐くのは分かるが、彼のような人なら世の中に他にもいる。
羽崎以外の人間と口を利かないのなら、羽崎と他に人間の何が違って口を利かないのだろう。
「何て言えば良いのか……そう、ごく簡単に言えば、人見知りが強いみたいなもの、だね。あの子は自己独特の基準で口を利く相手を選んでいるんだ」
その基準は羽崎にも分からないらしい。多分千代子の幼い語彙では説明しきれない感性があるのだろう。
「人がそこにいても話したい相手でなければ、いないものとして存在を無視する。同じ空間にいても、存在を認めない。そういう子だと思ってくれれば良い」
晴彦は、何か分かるような気がした。
彼女は周りの人間を透明人間扱いしているのだろうが、晴彦はその逆だった。
教室の中で、自分だけが透明だった。
「でも、病気じゃなくても、人を無視するような性格だと将来困ったことになるんじゃないですか?」
学校に通う歳になっても自分が気に入った人としか話さないなんて、級友とトラブルになる確率が高い。
それに大人になって仕事に就けば、自分基準で会話する人を選んでいては仕事にならない。いや、それ以前に就職なんて出来ないだろう。
今のうちに好きでない相手とでも最低限の会話くらい出来るように躾けるべきではないのか。
晴彦がそう言うと羽崎は首を振った。
「誰にでも、どうやってもできないことはある。自分ができるからと言って他人もできるとはかぎらないだろう。教育の名を借りて、大人が無理に自分に都合の良い型枠にはめようとする事の方が問題だよ」
羽崎は晴彦を真っ直ぐに見て、言い切った。
「これは千代子さんの性質だ。僕は矯正しようとは思わない」
晴彦はその言葉で個性を守られている千代子が酷く羨ましかった。
もしかしたら、千代子のちょっと普通ではない点が両親の手に余り、千代子を理解できる羽崎が見かねて引き取ったのではないだろうか。
この世にひとりでも自分の理解者がいるのは幸福なことだ。
世の中にはこんな風に持って生まれた性格を尊重してくれる親がいるというのに。
それに比べて自分は……。
「で、久住君はどうして家出したの?」
言い当てられ、いつの間にか俯いていた顔を上げて目を見開いた晴彦に、羽崎は笑う。
「見れば分かるよ。この近辺の中学の制服はブレザーじゃないし、服の汚れも日常生活での汚れにしては酷すぎる。しかも空腹で行き倒れるなんて、行き先がない証拠だろう。荷物も持ってないところを見ると、思い余って発作的に行動してしまったんだろうけど、その後も行き当たりばったりで投げやりだったようだね」
作家と言う人種の観察力と推理力に敬意を示したくなった。
「死ぬつもりではなかったよね」
あっさり、映画のあらすじでも聞かれるように問われて、晴彦の方がかえって戸惑った。
「は、はい、別に自殺しようと思ってたわけじゃ」
「うん、君は『帰りたくない』と言った。それは、君がいた環境以外の所で生きたいということだ」
作家は理解力も優れていた。ようやく共通の言語を有している大人と巡り合えたような気さえした。
「何故こんな無計画な家出をしてしまったの」
「僕は」
一言呟いた後絶句して俯いた晴彦を、羽崎は急かさなかった。晴彦自らが口を開くまで、黙って待ってくれた。
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