アポリアの林

千年砂漠

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55  井川と小宮 

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 小宮から井川へ「退院が決まった」と連絡があったのは、昏睡から目覚めた二日後だった。
 もう何の問題もないので明日の午前中に退院するという。
 その日の夕方、井川が小宮の見舞いに行くと、小宮はベッドの上で座って本を読んでいた。
「明日退院って、本当に大丈夫なのか?」
 一時は原因不明の昏睡状態だった小宮を井川は気遣ったが、小宮はいつものように飄々としていた。
「大丈夫です。問題なのは寝過ぎたせいで腰が痛いくらいですかね」
 仕事の復帰は課長と相談し、来週月曜日からにするそうだ。
「そうか。退院して自分の家で家事でもすればリハビリになるからちょうどいいな」
 井川は今週土曜日に羽崎の家に行くことを、小宮に言う気はなかった。羽崎の家は小宮に何か悪影響があるような気がするからだ。
「井川さんは今度の土曜日、羽崎さんの家に行くそうですね」
 小宮の問いかけに井川は目を見開いた。
「お前、それ」
 誰に聞いたと問わなくても分かる。情報源は一人しかない。
「昨日、原田さんが見舞いに来たんですよ」
 小宮も当然羽崎の家に一緒に行くと思い込んでいたようで、その話に小宮が混乱しているのを『見て』誤解に気づいたらしい。
「何であの嬢ちゃんはいつも俺とお前をワンセットで考えるんだ?」
「テレビの刑事ドラマの影響じゃないですか? バディものが多いですから」
「そう言われればそうだな」
「って言うか、井川さんが原田さんに好かれているんですよ。あの子、昔の刑事ドラマ好きだって言ってましたから」
 病院は必然的に年寄りが多い。そのためか娯楽室のテレビはよく昔の再放送ドラマがかかっているらしい。年若い原田が古い刑事ドラマを知っているのはそのためだろう。
「井川さんはそのイメージに合うみたいですよ」
「ふん、どうせ俺は古いタイプの刑事だよ」
 因みに井川も小宮も刑事ドラマは殆ど見ない。
 実際の自分たちとの仕事と違って、一時間や二時間で事件が簡単に解決するのがバカらしいからだ。
「で、話を聞いたからには俺も一緒に行きたいなんて言うんじゃないだろうな」
「当たりです。俺も連れて行ってください」
「いや、そうは言っても招かれてない者を連れて行く訳には」
「羽崎さんに連絡してみてください。断られたら諦めます。あ、連絡したふりでダメだったと言うのはなしですよ。原田さんに見てもらえば嘘か本当かは一発で分かりますから」
 井川は嫌そうに目を細めた。
「最強の嘘発見器を味方につけやがったのか」
「それは井川さんの方じゃないですか。あの子に協力を求めたということは、羽崎さんが晴彦の思考を誘導したんじゃないかと疑ってるんですね」
「……そうだ」
「それはないです」
 小宮はきっぱり首を振った。
「晴彦を狂わせたのは羽崎さんじゃありません。昏睡している間に見た夢が本当に晴彦の追体験だったとしたら、晴彦を狂気に追いやった者は別にいるんです」
「誰だ、それは。父親か?」
「いいえ……あの家にはもう一人いる……はずなんです。千代子という名前の五、六歳くらいの女の子が」
「はあ? そんなわけないだろう。あの家に子供がいるようには見えなかったぞ。羽崎もそんなこと一言も」
「でもいるんです。俺はその千代子という子を写真の中と林の中で見ました。思えばあれから自分はおかしかった。晴彦もそうです。千代子に防風林の中で契約めいたことを言われて変になった」
 小宮は赤いワンピースの少女のことを語った。
 千代子は生前の晴彦の言動を見せる代わりに、小宮の『時』をもらうと言った。
 晴彦の夢を見始めて昏睡状態から目覚めるまで、その間の自分の行動の記憶が殆どない。そういう意味で確かに小宮の『時』は奪われていた。
 話を聞いて、井川は露骨に嫌な顔をした。
「お前、俺が怪談話が嫌いなのを知ってて、からかってるんじゃないだろうな」
「真面目な話です。俺だって何度も自分が正気か疑いましたよ」
「その話が本当なら、警察が取り扱える分野じゃないぞ。警察は超常現象に対応する組織じゃないからな。幽霊は管轄外だ」
「幽霊……ではないと思いますけど」
 そうは言っても、小宮も千代子が何者なのか説明できない。
 実在しているのかすら疑わしいのだ。
「それを羽崎に聞きたくて、一緒に連れて行けというんだな」
「そうです」
 原田に赤いワンピースの少女の事を話したら、正体解明に協力してくれる約束をしてくれたという。
 小宮から聞いた晴彦の最期の心情や思考を、追い詰められて精神が崩壊した末の事として納得しようとしていたらしいが、正体不明の少女の話を聞いて真実を追究したくなったようだ。こんな奇妙な話をすれば、あの好奇心旺盛な子が食いつかないわけがない。
 そうでなくても原田は晴彦の最期に固執している。
「あの嬢ちゃんは、何でいつまでも晴彦にこだわってるんだ? やっぱり生前に礼を言わなかった罪悪感を未だに引きずってるのか?」
「それもあるかもしれませんが、アイデンティティーの問題じゃないかと思います」
「何だ、それは」
「あの子の共感覚は、自分が自分である証と同じなんですよ。それが晴彦や俺に、今まで見たこともない自分の中の常識とは違うものを見て、自分の共感覚が本当に正常なのか動揺してしまったんじゃないですかね。共感覚なんて自分しか分からないから、誰かに聞いて答え合わせができるものじゃない。自分にしか判断できないけどずっと信じてきたものが疑わしいものになってしまったら、あの年頃なら自己崩壊を起こしかねませんよ」
「ようするに、あの子は自分の共感覚が正しいと証明したいのか」
「ええ、多分。自分は正気だ、幻覚を見ているんじゃない、と自分への信頼を取り戻したいんですよ。俺もあの子と似たようなものです。自分の頭がおかしくなったんじゃないと確かめたいだけです」
 分かった、と井川は頷いた。
「羽崎に聞いてみる。正直なところお前が来てくれると助かる。何をしでかすか分からん無能と好奇心の権化の子供の二人を俺一人で監督するのは手に余る」
 井川は早速羽崎に連絡してみると言って本署に戻っていった。
 数十分後、スマホに井川からのメールが入った。
『羽崎に了解を取った。さすがに手ぶらでいくわけにはいかんから、俺は果物でも買っていく。お前は洋菓子を頼む』
 良く気が回る人だ、と小宮は感心する。この気配りを上司に向けてうまく立ち回る気があったら、もっと出世しているだろうに、そういう気はないらしい。
 本当に損な人柄だ。
 でも人徳はあの世に行った時に閻魔大王が驚くくらい積んでいるだろうと思うと、とても愉快な気分になった。


 土曜日の朝、井川に原田から電話があった。
「おはようございます、井川さん。あの、すみません」
「どうした? もしかして体調が悪いのか?」
「いいえ、私は元気なんですけど、母が熱を出してしまって。風邪のようなんです」
 熱があるなら同伴は無理だ。保護者が行けないなら、いかに井川が警察官といえど公務ではない私事のために、病持ちの女子中学生を他県へ連れて行くわけにはいかない。
 残念だが原田の協力は諦めるしかないかと思うより先に、
「でも、母が私だけでも行ってきなさいって」
 原田が急いで付け加えた。
「いや、それは駄目だ。親御さんが俺達を信用してくれるのはありがたいが、病を持ってる未成年の君に万が一のことがあったら」
「井川さんならそう言うと思ってました」
 原田は笑うように言って、電話を母親と交代した。
「おはようございます。詩織の母です」
 原田の母親とは面識がある。原田が協力要請を受けてくれた翌日、井川は彼女の家へ挨拶に行った。父親はまだ仕事から帰っておらず不在だったが、母親には一応の挨拶はできた。
「すみません、肝心な日に」
 電話で聞くとより一層原田と声がよく似ていたが、発熱のせいか声に張りがなかった。
「いいえ、病気なら仕方ありません。協力していただく件は取り下げますので、どうぞもう休んでください」
「あの、詩織だけでも連れて行くことはできませんか?」
 母親の申し出に、井川は慌てた。
「いや、それは」
 保護者の付き添いがない状態で未成年の女子を県外に連れて行くことはできないと答えると、
「でも、今日詩織が協力しなければ、もしかしたらまた近い将来誰かが被害に遭うんじゃありませんか」
 原田の共感覚で捜査に協力してもらう理由として、母親には「捜査上詳しい話はできないが、ある犯罪者に犯罪協力をした疑いがある人物がまた同じ行動を起こす恐れがあるかどうかを見てもらいたい」と言ってあった。
「詩織は協力したいと言っています。本人も自分の病気についてきちんと理解していますので、無理はしないと思います」
 原田が言ったとおり、できるだけ娘の意思を尊重しようとする母親だった。
 場合によっては単なる甘やかしになるが、徹頭徹尾自分の意見を曲げず、息子を追い詰めてしまった久住秀雄よりはましかもしれない。
 体調の悪い人間に長話は良くない。思い切って、井川は母親の申し出を受けることにした。
「ではお言葉に甘えて、お嬢さんの力をお借りします」
 もう一度原田に電話を代わってもらい、井川と小宮の携帯電話の番号を母親に知らせておくよう頼んだ。
 次いで羽崎と小宮にも原田の母親が行けなくなった事を伝えた。
「ああ、そうですか。でも原田さんはしっかりしてるから、大丈夫だと思いますよ」
 小宮はいつもの通りの飄々とした受け答えだった。
 何か自分一人が無駄に最悪を考え過ぎて心配し狼狽えているようでバカらしくなり、気分を変えるためにカーテンを開いて外を見ると、雨か雪でも降り出しそうな曇り空が広がっていた。
 晴彦の事件に関わってから、ずっとこんな曇り空が続いているような気がして、井川は乱暴にカーテンを閉めた。
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