アポリアの林

千年砂漠

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56  山口智香  その1

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 これから会う相手が、想像した以上に辺鄙な場所に住んでいることに、山口は苛立っていた。
 羽崎が家に招いてくれたのは良いが、こんなに暗い防風林の中に立っている家だとは思わなかった。
 正確には住居でなく別荘で、羽崎は管理人として住み込んでいるのだと聞いたが、街から遠く離れた所に暮らしていて退屈ではないのだろうか。
 スマホに送られてきた(それも当日、距離を考えればすぐに出発しなければ約束の時間に間に合わない時間ぎりぎりになってだ)道案内通りに防風林の中の細い道を進む。
 乗ってきたのが自分の軽四自動車で良かった。
 遠出には父の3ナンバーの大型車の方が楽かと思い借りようとしたが、やはり乗り慣れた車の方がいいと思い直した。父の車で来たらこの道幅の狭さに難儀したかも知れない。


 別荘の敷地内を囲うフェンスの突き当たりまで来るとそこはちょっとした広場になっていて、車が一台止まっていた。多分先客の車だろう。
 最初は羽崎と二人きりで会う予定だったのに、後になって他に招待客が増えたと連絡が来た。
 知人の女性とその子供。子供は女子中学生だという。
 ――二人きりの食事会では若い女性のあなたは色々不安に思うでしょうし、周りに誤解されてご迷惑がかかってもいけませんので
 二人きりで会ったところで、山口には誤解されて困るような人はもういなくなっていた。
 本来なら二月に結納、八月に挙式の予定だった彼は周りに何を吹き込まれたのか知らないが、山口が世間に叩かれ失意のどん底にいるときに支えてもくれず去って行った。
『イジメに耐えかねて家出した少年が追い詰められて事件を起こしたのは、親から相談があっても何の指導もしなかった担任教師が無能すぎたからだ』
『クラスで目立つお調子者の男子生徒を贔屓して、彼らが地味で真面目なクラスメートをいじめているのを放置した担任教師が一番悪い』
 ネット上に連日そんなふうに書き込まれ、一時は顔写真と自宅の住所と電話番号まで上げられた。
 そのせいで暴言を一方的に吐く電話が鳴り止まず、回線を切って祖父母の家へ避難するしかなかった。今もまだ恐くて自宅に帰れない。

 学校にも苦情の電話が多数来た、と入院先に教頭が来て言った。
 ――事件の報告のためPTAに対しての説明会を行いましたが、その会で「何故怪我を負ってもいない担任が欠席なのか」と多くの親御さんがお怒りでした。クラスの保護者の方々からも、受験生の大事な時期に学校に出てこられないほど体調が悪いのなら、担任を副担任の水島先生と交代してもらいたいとの意見が出されました
 これからどうするつもりか問われ、答える前に学校からの結論を告げられた。
「あなたがまた考えもなく発言すると子供達が動揺するし、保護者からの苦情も予想できるので、できればこのまま退職して欲しい」と。
 ――クラスの大半の保護者があなたに学校へ戻ってきて欲しくないそうです。もちろん、保護者の方々にはあなたに退職を求める権限はありません。ですから生徒の親御さん方があなたをどんな目で見ようがどんな感情を持とうが構わないのでしたら、どうぞ復帰してください。それはあなたの自由です。但し、学校はあなたの復帰を望んでいません。戻って来たあなたに他の教師たちが親切にするかどうかは、これもまたその人たちの自由だということを覚えておいてください

 山口はその場で退職を申し出た。

 事件後、友達の殆どと疎遠になった。何人かはまだ「落ち着いたらまた連絡して」と言ってくれたが、他の子達のLINEはブロックされてもう連絡が取れない。
 エックスも全く知らない人間からの酷い書き込みが多いため、アカウントを消した。
 事件のせいで山口の人生は変わってしまった。

 事件に関わった人間はみんな傷つき、何らかの被害を被った。
 が、一人だけ誰にも後ろ指指されなかった者がいる。
 家出した晴彦を保護し、事件直前まで世話をしていた人間だ。

 その人だけはマスコミにもネットにも確かな情報は上がらず、久住氏の中学時代の同級生か高校でのラグビー部の先輩ではないかというあやふやな話のまま、世間から事件への関心が薄れるのと共に消えた。
 しかし山口は忘れない。事件の関係者であるのに、無傷だったその人間を。
 そしてようやくその人物を特定できた。
 これから会う予定の羽崎だ。
 山口は彼に会い、色々情報を集めて全部ネットに晒してやるつもりでいる。
 この男が両親やイジメをしてきたクラスメートを殺すよう少年を唆したのではないかと付け加えて。
 山口はとりあえず防風林の写真を何枚か撮った。当然住んでいる別荘の写真も撮る。
 その男はここに住んでいると写真を貼り付ける予定だ。
 顔も名前も住所も全部ネットに書き込む気でいる。

 事件に関わったのに、一人だけ被害を受けないなんて許さない。
 自分が味わった不幸を羽崎にも味わわせてやりたい。

「私のように何もかも失えば良いのよ」
 山口は歪んだ笑みを浮かべ、呟いた。
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