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35 未来への写真
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顔を洗って居間に戻ると、拓司が麦茶を入れてくれた。
彼は座卓にコップを置くと、一枚の写真を差し出した。
「お前にやるよ」
若い父と母がまだ赤ん坊の隆志を真ん中に寄り添って笑っている。手前にはろうそくが一本立ったケーキが写っていた。
「これ、僕の一歳の誕生日の……」
若干の違いはあるが、これとほぼ同じの写真がアルバムにあった記憶がある。多分セルフタイマーで何枚か撮った内の一枚なのだろう。
「和也さんからうちの親父に送られて来たものだって」
中学進学で実家を出て以来、帰郷もせず両親とも殆ど連絡を取らず、結婚も隆志の誕生も電話で事後報告のみだったという父だから地元の人間とのつき合いも皆無だったかというとそうではなく、永麓寺の前住職、真道の父親の勝弘とは交流があったそうだ。
勝弘が一時期寺で書道教室を開いていたときに父はその教室に通っていたそうだから、勝弘を師として慕っていたのかもしれない。
しかし交流自体はそう深いものではなく、年賀状や暑中見舞いのやり取りをする程度だったが、短い近況などが書き添えてあり、それらは世間話の一つとして勝弘から真道に伝えられた。
その頃まだ県外の寺にいた真道は、同級生というだけで特に父と親しい訳ではなかったが、自分と同じ時期に結婚して同じ頃に子供に恵まれた父に親近感を覚え、祝いの品と手紙を送った。すると丁寧な礼状と返礼の品がこの写真と共に送られて来たそうだ。
「親父もお前が持ってる方がいいだろうって」
世久の屋敷の火事で、全ての物が灰になった。写真はもちろん、両親の形見になるようなものも何一つ残っていない。
もう二度と戻らない家族が、一枚きりの写真とはいえ手の中に戻ってきたのは素直に嬉しかった。
隆志が礼を言うより先に、
「……なあ、与姫の裏伝説を教えてくれたのって、元高校の教師の野田って人だって言ったよな」
拓司は脈絡のない話を持ち出してきた。何か複雑そうな顔をする彼に、
「そうだけど……それがどうかしたのか?」
若干の不安を感じながら問うと、
「その人がうちの親父の高校時代の担任だったって、知ってたか」
「――え」
隆志は勢いよく目も口も大きく開き、首を振った。
「俺も昨日親父に聞いて、ちょっと驚いた。何か、妙な縁だよな」
真道も野田も地元の人間だからあり得ないことではないが、予想外ではある。
「で、一昨日その野田先生が寺に来て、世久家の歴史に関する研究ノート全部納めて行ったって」
「どうしてそんな……」
ほぼ半生をかけての研究だったはずなのに。
「本当はいつか自費出版してでも本にするつもりだったらしい。でも、お前に会って、これは世に出していい話ではないと思い直したんだそうだ。けど、自分で焼き捨ててしまう決心もつかなくて、世久家の菩提寺のこの寺に納めようと思ったんだと」
恩師と思わぬ再会をした真道は懐かしさからアルバムを開き、そのおかげで和也から送られた写真があったのを思い出したという。
「親父が写真の事を思い出すきっかけになったのはいいけどさ、いったいどんな心境の変化なんだ? 何があったか知らないけど、普通なら出版の意思がなくなったからって、せっかく今まで研究してきた物を焼き捨てようとまではしないだろう。挙げ句に寺へ押し付けるなんて……」
顔をしかめる拓司に隆志は苦笑する。
「野田先生は今回に限っては歴史家――傍観者じゃなかったってことなんだよ」
野田の親族と世久家の関わりを知らない拓司にその奇縁を話して聞かせた。
「もし野田先生がこの土地にもここの人間にも何の関わりもない人だったら、いつかきっと本を出版してたと思う。けど」
見も知らない他人の身に起こった話と多少なりとも関わりを持った人間が体験した話は受け取り方が全く違う。海外の戦争で何万人の命が失われることより、同じ学校の誰か一人が交通事故で亡くなる方がはるかにショックを受けるように。
まして、自分が物語の縁の内側にいるなら尚更だろう。
「野田先生は畏れを抱いたんだよ。人の縁の不思議に、と言うか、廻り合わせの妙に」
「陳腐を承知で言うなら、『運命』に、だろうな」
人の意識が及ばない所で織り成されるものを『運命』と呼ぶのだとしたら、そうなのかもしれない。
だったら、これはその運命が形を成したもの。
廻る運命が、今、自分の手の中にある。
隆志はもう一度写真に視線を落とす。
写真の中の両親は幸せそうだった。特に父は――隆志に頬を寄せ母の肩を抱いて笑う父には、ひた隠しにしてきた過去の罪の陰も世久の業の陰りもなく、家族への愛だけが溢れていた。
そう、父にもこんな瞬間があったのだ。
罪も業もなく、ただ愛に満たされた時が。
それなら、全ての負の事情を横へ押しやり、息子に会いたいと思ってくれた時もあったかもしれない。過去を詫びようと思ってくれた時があったかもしれない。
だとしたら、拓司の言ったことを信じて、いつか心から父を許せる日が来るかもしれなかった。
「……なあ。真道さんたちが帰って来たら、みんなで写真撮ってくれないかな」
父を許せるかもしれないと思った今の自分を、そう思わせてくれるように導いてくれた人たちを、忘れないために。
隆志の唐突な頼みを拓司は軽く笑って受け入れてくれた。
「ああ、いいぞ。親父たちが帰って来たら、庭で撮ろう」
理由も聞かず、彼は庭へ視線を移す。つられて同じ方を向いた隆志は、詩織が植えたという向日葵の鮮やかな黄色に一瞬視野を焼かれ、目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、まだ撮る前だというのに出来上がる写真が浮かび上がる。
穏やかな笑みの真道と、自然に笑う拓司。突然の写真撮影に大騒ぎで髪形を整え服を着替えて来た詩織は、ぎこちなくそれでもはにかんだ笑顔を浮かべている。そして量らずも真ん中に押しやられ、照れた笑顔の自分。晴れた夏空の下で、隅にはひっそりと空っぽの犬小屋も写っている――そんな写真だ。
「東京に戻ったら犬を飼うのか?」
拓司の声に、隆志は意識を現実に戻す。
「いや、無職では生き物は飼えないよ。最低でも大学を卒業してどこかに就職してからだ」
室内で飼うような小型犬は欲しくない。大型犬、とは言わない、中型犬でいい。ペットショップで血統書付きの犬を買うのでなく、雑種の保護犬を引き取りたい。
「独身のうちにペットを飼うと結婚が遠のくって言うぞ」
「……僕は一生結婚しないかも」
薄く笑ってそう言った隆志の背中を拓司が強く叩いた。
「そういう自虐は何の罪滅ぼしにもならない。ただの馬鹿馬鹿しい自己満足だ」
拓司に叩かれた背中は痛かったがありがたかった。
望んでもいいだろうか。
愛する女性と愛しい子供。喧嘩をしても仲直りできて笑い合える家族と共に犬を飼う、そんな未来を。
その未来が本当にあったら、と、隆志は夢想する。
自分の息子か娘が十代になった頃、今日撮った写真を古いアルバムから見つけて来て問うのだ。この人達は誰か、と。
「昔の友人だ」という簡単な説明しかせず、どこか影を感じる笑みを浮かべて詳しくは語らない父を見て奇妙な好奇心が沸いた子供は、密かに自分で調べて永麓寺に辿り着き、実際に自分で寺を訪ねる。
そこには住職になった拓司がいて、今は無き世久の家についての話を彼から聞き、そして、そこで偶然にも同い年である拓司の子供と出会い、一生の友になる。
拓司と自分のように。
隆志はそうであればいいと夢見る想像世界に浸ろうとして――止めた。
人の想像や思惑を超えたものが運命なのだ。
人生を共に生きる人ときっといつか巡り会うとだけ、今は信じていればいい。
玄関が開く音がして、詩織が隆志を呼ぶ声が聞こえた。
「買ってきた物を台所に運ぶの手伝って、だな。……居候の身だし、病み上がりのこの家の長男に代わって働くか」
もう世久家のしきたりに従う意味はないのだし。
「そうそう。労働は尊い」
言いながらも拓司も立ち上がる。
「働かざるもの食うべからず、てな」
隆志と拓司は笑い合い、玄関へ歩いていった。
(了)
彼は座卓にコップを置くと、一枚の写真を差し出した。
「お前にやるよ」
若い父と母がまだ赤ん坊の隆志を真ん中に寄り添って笑っている。手前にはろうそくが一本立ったケーキが写っていた。
「これ、僕の一歳の誕生日の……」
若干の違いはあるが、これとほぼ同じの写真がアルバムにあった記憶がある。多分セルフタイマーで何枚か撮った内の一枚なのだろう。
「和也さんからうちの親父に送られて来たものだって」
中学進学で実家を出て以来、帰郷もせず両親とも殆ど連絡を取らず、結婚も隆志の誕生も電話で事後報告のみだったという父だから地元の人間とのつき合いも皆無だったかというとそうではなく、永麓寺の前住職、真道の父親の勝弘とは交流があったそうだ。
勝弘が一時期寺で書道教室を開いていたときに父はその教室に通っていたそうだから、勝弘を師として慕っていたのかもしれない。
しかし交流自体はそう深いものではなく、年賀状や暑中見舞いのやり取りをする程度だったが、短い近況などが書き添えてあり、それらは世間話の一つとして勝弘から真道に伝えられた。
その頃まだ県外の寺にいた真道は、同級生というだけで特に父と親しい訳ではなかったが、自分と同じ時期に結婚して同じ頃に子供に恵まれた父に親近感を覚え、祝いの品と手紙を送った。すると丁寧な礼状と返礼の品がこの写真と共に送られて来たそうだ。
「親父もお前が持ってる方がいいだろうって」
世久の屋敷の火事で、全ての物が灰になった。写真はもちろん、両親の形見になるようなものも何一つ残っていない。
もう二度と戻らない家族が、一枚きりの写真とはいえ手の中に戻ってきたのは素直に嬉しかった。
隆志が礼を言うより先に、
「……なあ、与姫の裏伝説を教えてくれたのって、元高校の教師の野田って人だって言ったよな」
拓司は脈絡のない話を持ち出してきた。何か複雑そうな顔をする彼に、
「そうだけど……それがどうかしたのか?」
若干の不安を感じながら問うと、
「その人がうちの親父の高校時代の担任だったって、知ってたか」
「――え」
隆志は勢いよく目も口も大きく開き、首を振った。
「俺も昨日親父に聞いて、ちょっと驚いた。何か、妙な縁だよな」
真道も野田も地元の人間だからあり得ないことではないが、予想外ではある。
「で、一昨日その野田先生が寺に来て、世久家の歴史に関する研究ノート全部納めて行ったって」
「どうしてそんな……」
ほぼ半生をかけての研究だったはずなのに。
「本当はいつか自費出版してでも本にするつもりだったらしい。でも、お前に会って、これは世に出していい話ではないと思い直したんだそうだ。けど、自分で焼き捨ててしまう決心もつかなくて、世久家の菩提寺のこの寺に納めようと思ったんだと」
恩師と思わぬ再会をした真道は懐かしさからアルバムを開き、そのおかげで和也から送られた写真があったのを思い出したという。
「親父が写真の事を思い出すきっかけになったのはいいけどさ、いったいどんな心境の変化なんだ? 何があったか知らないけど、普通なら出版の意思がなくなったからって、せっかく今まで研究してきた物を焼き捨てようとまではしないだろう。挙げ句に寺へ押し付けるなんて……」
顔をしかめる拓司に隆志は苦笑する。
「野田先生は今回に限っては歴史家――傍観者じゃなかったってことなんだよ」
野田の親族と世久家の関わりを知らない拓司にその奇縁を話して聞かせた。
「もし野田先生がこの土地にもここの人間にも何の関わりもない人だったら、いつかきっと本を出版してたと思う。けど」
見も知らない他人の身に起こった話と多少なりとも関わりを持った人間が体験した話は受け取り方が全く違う。海外の戦争で何万人の命が失われることより、同じ学校の誰か一人が交通事故で亡くなる方がはるかにショックを受けるように。
まして、自分が物語の縁の内側にいるなら尚更だろう。
「野田先生は畏れを抱いたんだよ。人の縁の不思議に、と言うか、廻り合わせの妙に」
「陳腐を承知で言うなら、『運命』に、だろうな」
人の意識が及ばない所で織り成されるものを『運命』と呼ぶのだとしたら、そうなのかもしれない。
だったら、これはその運命が形を成したもの。
廻る運命が、今、自分の手の中にある。
隆志はもう一度写真に視線を落とす。
写真の中の両親は幸せそうだった。特に父は――隆志に頬を寄せ母の肩を抱いて笑う父には、ひた隠しにしてきた過去の罪の陰も世久の業の陰りもなく、家族への愛だけが溢れていた。
そう、父にもこんな瞬間があったのだ。
罪も業もなく、ただ愛に満たされた時が。
それなら、全ての負の事情を横へ押しやり、息子に会いたいと思ってくれた時もあったかもしれない。過去を詫びようと思ってくれた時があったかもしれない。
だとしたら、拓司の言ったことを信じて、いつか心から父を許せる日が来るかもしれなかった。
「……なあ。真道さんたちが帰って来たら、みんなで写真撮ってくれないかな」
父を許せるかもしれないと思った今の自分を、そう思わせてくれるように導いてくれた人たちを、忘れないために。
隆志の唐突な頼みを拓司は軽く笑って受け入れてくれた。
「ああ、いいぞ。親父たちが帰って来たら、庭で撮ろう」
理由も聞かず、彼は庭へ視線を移す。つられて同じ方を向いた隆志は、詩織が植えたという向日葵の鮮やかな黄色に一瞬視野を焼かれ、目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、まだ撮る前だというのに出来上がる写真が浮かび上がる。
穏やかな笑みの真道と、自然に笑う拓司。突然の写真撮影に大騒ぎで髪形を整え服を着替えて来た詩織は、ぎこちなくそれでもはにかんだ笑顔を浮かべている。そして量らずも真ん中に押しやられ、照れた笑顔の自分。晴れた夏空の下で、隅にはひっそりと空っぽの犬小屋も写っている――そんな写真だ。
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拓司の声に、隆志は意識を現実に戻す。
「いや、無職では生き物は飼えないよ。最低でも大学を卒業してどこかに就職してからだ」
室内で飼うような小型犬は欲しくない。大型犬、とは言わない、中型犬でいい。ペットショップで血統書付きの犬を買うのでなく、雑種の保護犬を引き取りたい。
「独身のうちにペットを飼うと結婚が遠のくって言うぞ」
「……僕は一生結婚しないかも」
薄く笑ってそう言った隆志の背中を拓司が強く叩いた。
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望んでもいいだろうか。
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「昔の友人だ」という簡単な説明しかせず、どこか影を感じる笑みを浮かべて詳しくは語らない父を見て奇妙な好奇心が沸いた子供は、密かに自分で調べて永麓寺に辿り着き、実際に自分で寺を訪ねる。
そこには住職になった拓司がいて、今は無き世久の家についての話を彼から聞き、そして、そこで偶然にも同い年である拓司の子供と出会い、一生の友になる。
拓司と自分のように。
隆志はそうであればいいと夢見る想像世界に浸ろうとして――止めた。
人の想像や思惑を超えたものが運命なのだ。
人生を共に生きる人ときっといつか巡り会うとだけ、今は信じていればいい。
玄関が開く音がして、詩織が隆志を呼ぶ声が聞こえた。
「買ってきた物を台所に運ぶの手伝って、だな。……居候の身だし、病み上がりのこの家の長男に代わって働くか」
もう世久家のしきたりに従う意味はないのだし。
「そうそう。労働は尊い」
言いながらも拓司も立ち上がる。
「働かざるもの食うべからず、てな」
隆志と拓司は笑い合い、玄関へ歩いていった。
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