早春の向日葵

千年砂漠

文字の大きさ
7 / 22

トラブル

しおりを挟む
 食堂に行くと、ちょうど伯母が来たところだった。
 私は屋上にいた事を何となく言いたくなくて、食堂でジュースを飲んだ後、売店に行っていたと言い訳した。
「遅くなって悪かったわね。先生とこれからの事も含めて相談していたから」
 母はしばらく入院する事になったという。母のあの様子を見れば予想はついていたので、それほど動揺しなかった。詳しい話は家で、と言われ、私は伯母と家に戻った。
「喜美子は今、とても疲れてるみたいなの」
 家に戻り紅茶をいれてくれた伯母は、ため息をついて居間のソファーに沈み込んだ。
 伯母が医師から説明された話によると、母はストレスに耐えきれなくなり、無意識下でこれ以上のストレスを抱え込まないよう排除しようとしているのだそうだ。だから、夫婦の不仲を姉に知られて心配かけたくなかった母は、病院に迎えに来た伯母を「姉ではない」と否定し、上手くいかない家庭を思い出させる娘の私は無視したのだという。
「これからカウンセリングを受けて、気持ちに整理をつけさせて、現実にきちんと対応できるように治療していくんだけどね、しばらく面会は遠慮してくれって」
 ストレスの場となっている家庭から一度斬り離して違う環境に置き、これからどうすればいいかゆっくり考えをまとめさせる治療で、思考の混乱を防ぐために、精神的にある程度落ち着くまでは家族にも会わない方が良いというのが医師の診断だった。
 母が入院し、しばらく面会もできないという話に、私は心にどこかで安堵していた。母に会えないのは寂しく不安だったが、母が何一つ問題が解決しないままの家に戻ってきてまた発作的に自殺行動を起こしたらと思うと、病院にいてくれた方が安心していられた。
 面会できるようになるのがいつになるのか見通しが立っていないため、伯母には自分の家へ引き上げてもらった。伯母にも家族がいて生活がある。これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。
「私が帰っても、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。……お父さんもいるから」
 父への信用を完全に失くした伯母は何かを言いかけたが、飲み込んで代わりにため息をついた。前回を反省して、子供の前で父親を罵る事だけは避けてくれたようだ。
 伯母は私の携帯に自分の携帯番号を登録し、何かあったら直ぐに連絡するようしつこいほど繰り返して、帰っていった。


 母がいない家で、私は一人だった。
 伯母が帰った翌日、父は家に戻ってきたが、戻ったのは午後十一時を過ぎた頃で、私は自分の部屋で勉強していて起きていたが出迎えはしなかった。母を追い詰めた父を許す気持ちにはなれなかったからだ。
 朝は私が起きる前に父は仕事に出かけていた。洗濯機横の籠には父の洗濯物がまとめて入れてあったが、私はそれを無視して自分の物だけ洗濯した。
 帰ってくるかどうか分からない父の分の夕食は用意しなかった。父の方も当てにしていないのか夕食時には戻らず、帰るのは私が自室にいる夜遅くになってからだった。
 生活費に充てていた母の財布の金がなくなると、父の携帯へ「食費をください」と簡素なメールを入れた。すると、翌日の朝にはテーブルの上にいくらかの現金が置いてあった。
 父の洗濯物は洗濯籠に出されなくなっていた。母が入院して以来、父と私の会話は全くなくなっていた。
 父の存在は自分の部屋で音で聞くのみだった。


 学校でも、私は一人だった。
 母が自殺を計ったあの日喧嘩別れした友人達は、私に話しかけなくなっていた。私の方からも話しかけなかったので、他に親しかった者のいない私は、クラスで孤立していた。
 私は自分だけの一人分の家事とはいえ、食事の支度や後片付け、洗濯や掃除やゴミ出しなどの雑用と受験勉強に疲れていて、友人との仲の回復にまで手を伸ばす気力がなかった。彼女達が無言で帰ってしまった私に対してまだ怒っているらしいのは分かっていたが、私の方も一方的に言われた腹立たしさを抱えていて、それが仲直りをする努力の妨げとなっていた。彼女達の方から話しかけてきたらこちらも折れてもいい、くらいに考えていた。
 が、随分甘えた考えだったと気付かされたのは、母が入院して一週間が過ぎた頃だった。
 その日、夜もよく眠れず疲れ果てていた私は給食の後気分が悪くなり、トイレで食べた物全て吐いてしまった。嘔吐した後の苦しさと気だるさに耐えながら個室の中で息を整えていると、数名の聞きなれた声が聞こえて来た。洗面台の前辺りで話し始めた集団は、昼食後身だしなみを整えに来たらしい。
「何か、ムカつかない? 美咲の態度」
 言い捨てた声は、私を気分屋と糾弾した彼女だった。
「これ見よがしに翌日休んだと思ったら、次は無視だよ。私たちの方が悪いって言いたげじゃない?」
 応じたのは、あの日一緒にいた子たちだった。
「友達のよしみで悪い所言ってあげたのに、全然反省してないよね、あれ」
「素直に謝るんだったらまた付き合ってあげてもいいかなって思ってたけど」
 ないよね、と声が揃った。
「一人でも平気、みたいな顔しちゃって、ほんとムカつく」
「何様よ、って感じ」
「ホント、性格悪いよね」
 私は大きく息を吸い込むと、音を立てて個室を出た。
「じゃあ、あんたたちはどれだけ性格が良いって言うのよ」
 いきなり出て来た私に彼女達はひどく驚き、目を見開いて固まった。まさか本人がすぐ傍で聞いているとは思わなかったのだろう。
「本人のいない所で悪口言う方が最低じゃないの」
 黙って引き下がれる性分ではない私は正論を振りかざし、彼女達に対峙した。
「わ、悪口じゃないわよ。本当の事じゃない」
「そうよ。本当の事言って何が悪いのよ」
 彼女達は居直り、人数の優位に任せて反論してきた。幼稚な口喧嘩だったはずだが、当人たちは頭に血が上っていて、言い争いは自然にエスカレートして行った。
「あんたの顔、見るだけで腹立つ。学校に来ないでよ」
「そうよ、あんたなんているだけで迷惑なのよ」
 口喧嘩は多勢に無勢だった。多人数からの集中攻撃を受けて、家庭のトラブルで疲弊していた私の精神はギリギリまで擦り減っていた。
「もう、あんたなんて死ねば?」
 彼女の言葉は売り言葉に買い言葉で、十割丸々本気の発言ではなかっただろう。それでも何割かの本心が混じっていただろう罵りに、私の中で何かが振り切れた。
 私は彼女達を押し退け、洗面台の鏡を素手で叩き割った。切れた手から血が溢れたが構わず、割れた鏡の一番大きな破片を握った。
「私が死ねばあんたたちは満足なのね」
 鏡の破片を自分の首に押し当てた私を見て、彼女達は悲鳴を上げた。
「あんたは私に学校に来るなって言った。あんたは私がいるだけで迷惑だって言った」
 私はもう一方の手で、一人一人指さしながら言った。
「あんたは私に死ねばいいって言った。あんたたちが忘れても、そこで見ている人たちが忘れないから安心して」
 トイレの入り口には、騒ぎを聞きつけたらしい生徒たちが集まっていた。彼らにも聞こえるように、私は声を張り上げた。
「あんたたちは自分が満足するためには平気で人に死ねって言う人間だって、みんなが覚えていてくれるからね」
 顔を強張らせた彼女達に、顔も知らない父の愛人の影が重なって見えた。自分の幸福のために平気で人を死に追いやる者に一生悪者の烙印を焼きつけるために、相手の良心に剥がれない罪を張り付けるために死ぬのだと考えると、何故か殉教者になった気分がした。破片を強く握りながら、自殺を計った母の気持ちが理解できたような気がした。
 が、次の瞬間、大きな影が目の前に飛び込んできて、手加減のない力で破片を握った腕を掴まれた。
「何をやってるんだ!」
 怒鳴り声と共に、男性教師に破片を叩き落とされた。誰かが私たちが喧嘩していると教師に言いつけたのだろう。
 関係ない生徒は教室に戻れと怒鳴る教師の声や喧嘩相手の泣きわめく声が、何故か遠かった。
 私は茫然としたまま、担任の女性教師に保健室に連れて行かれた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

ナッツアーモンド
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模S子。新入社員として入った会社でS子を待ち受ける運命とは....。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

処理中です...