早春の向日葵

千年砂漠

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父の不実

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 二月に入り、私立の高校の入試が始まってから受験ムードは一気に加速した。
 私が受ける予定の聖エリス女子高校は私立では一番遅く三月に入ってからで、県立高校の入試が一番最後だった。私のクラスは多くの子が公立校希望で、私立に行く子の中には早々に推薦枠で入学が決まっている子もいたが、そんな数人を除けばみんな自分の将来のために必死になっていて、私も例外ではなくその一人だった。
 伯母の家に住む選択は正しかったと思う。少なくとも、意外に重労働だった家事から解放された分、受験勉強に時間が取れる。無口な伯父は苦手だったが、面と向かって邪魔者扱いされた事はなかったので、極力顔を合わせないようにすれば母が退院して自分の家に帰るまでなら耐えられそうだった。
 しかし、その母の退院の目途は立たなかった。一月中に一度母との面会の許可が下り伯母と見舞いに行ったが、以前の母と比べると痩せて萎れた姿になっていた。話しかけても反応は鈍く、会話らしい会話は成り立たなかった。医者に言わせるとこれでも治療は順調で、だからこそ母は自己の葛藤と戦い始めているのだそうだ。まだふとした弾みで不安定になってしまうので今は刺激を少なくしたいと、次の面会はまた当分先になった。
 父も面会には来たようだ。看護師に聞くとあまり話しかけはしなかったが、それでもずっと母の傍に座っていたらしい。父がいる間は母はとても穏やかな顔をしていたという。
 父からの私へ連絡は携帯のメールばかりだった。毎回私の近況を訊ねて受験勉強頑張れと結ばれるメールに、私も当たり障りのない報告のメールしか返さなかった。
 本当は父に、自殺を計った母をどう思っているのか聞きたかった。自分の行為を反省して不倫相手とは別れたのか、問い質したかった。
 やはり私は父に似ている。大事な時に大事な事ほど言葉に上手く表せない。
 口を噤んで目を閉じていれば全て時が解決するなどありえないと、分かってはいるのだけれど。


 母の淹れたコーヒーが飲みたい、と思ったのは、学校から帰って飲んだインスタントコーヒーが好みに合わなかったからだった。
 母はコーヒーの好きな人で、自分でコーヒー豆をブレンドするほど凝っていた。対して伯母は安売りのインスタントでもいい、こだわりのない人だった。
 今まで飲んでいた物がなくなり、前の物とは違うメーカーの品を伯母が買ってきたが、苦いばかりで風味もない。
 私が試験勉強をしている時、母が必ず夜淹れて部屋に持って来てくれたあのコーヒーが恋しかった。父も母の淹れたコーヒーが好きで、豊かなコーヒーの香りは家族円満だった頃の象徴の一つだった。
 一度思い出すと、どうしてもあのコーヒーが飲みたくてたまらなくなった。伯母の家にはコーヒーメーカーはないが、ペーパードリップでなら淹れられる器具は揃っている。コーヒー豆は売り場にコーヒーミルを備え付けている店も多いので買うついでに挽けばいいのだが、母のブレンドは二種類のコーヒー豆を半々に混ぜていると聞いた事はあるものの、それがどこの会社の何というコーヒー豆なのかまでは知らなかった。それなら三田浜の家にまだ残っているブレンド豆を取りに行けばいいのだと思い立ち、伯母には黙って家を出た。伯母に頼めば車で連れて行ってくれるだろうが、普段色々世話をかけている気兼ねがあり、些細な用事を頼むのは気が退けた。三田浜の家までは少し遠いが、いつも図書館で勉強している時間の後、用があって友人の家に寄るから少し帰宅が遅くなると連絡すれば、バスで行って帰れる時間はあった。
 三田浜の家に着いたのは六時前だった。
 家には灯りがついていて、父が帰っているのだと思った。あまり顔合わせしたくなかったが、ここまできてしまったのだし、父の様子を知りたくもあった。
 鍵を開けて玄関に入ると、そこにあるはずの父の靴はなく、見覚えのないパンプスが揃えて置かれていた。奥からは料理の匂いと人の気配がした。
 まさか母が戻って来たのだろうか。病院に黙って抜け出して来たのでは。
 足早にリビングに向かい、ドアを開けると、そこにいたのは、見も知らない女性だった。
 女性はエプロンをつけ、作った料理をテーブルに並べている最中だった。
「あなた誰よ! ここで何してるのよ!」
 怒鳴った私を目を見開いて見ていた女性は、強張った顔のまま呟くように問うてきた。
「あなた……和人かずとさんの娘さん?」
 父の名を親しげに呼んだ事で分かった。
 この人が父の浮気相手なのだと。
 私はテーブルに歩み寄ると、並べられた料理に皿を腕で払って全て床に落とした。派手な音を立てて、何枚かの皿は割れた。
「出て行って! ここは私の家よ! あんたなんかが来る所じゃない!」
 この女は父を母から横取りした上に、入院中で母のいない家に勝手に上がり込み、母が揃えた食器で自分の手料理を父と二人で食べるつもりだったのだ。
 どこまで母を馬鹿にすれば気が済むのだろう。
 どうして父は母よりこんな女がいいのだろう。
「出ていけ!」
 私は床に落ちた料理の残骸を掴んで、彼女に投げつけた。
 料理は彼女の顔に当たり、彼女は無言でエプロンで顔を拭うとカウンターの上に置いてあったバッグを掴み、玄関の方へ歩き出した。
「泥棒! あんたはお母さんからお父さんを取った泥棒よ!」
 リビングを出て行く背中に叫んだ悪態に彼女は足を止めて振り返り、私を睨み付け、次いで笑った。
「取られる方が間抜けなのよ」
 捨て台詞を吐いて出て行った彼女が音を立てて閉めたドアに、落ちて割れた皿の破片を投げつけ、私は大声を上げて泣いた。
 これほど悲しくて悔しくて泣いた事はなかった。


 ポケットの携帯の着信が鳴ったのは、それから一時間ほど過ぎてからだった。
 私はまだ三田浜の家にいて、リビングの床に座り込んでいた。
 電話は伯母からで、私は半ば放心状態のまま、三田浜の家にいると答えた。
「……何故?」
 しばらくの沈黙の後、聞こえてきた伯母の声は固かった。明らかに怒っている声だった。
「何故三田浜の家にいるの?」
 正直に、母がブレンドした豆のコーヒーが飲みたくてコーヒー豆を取りに来たと言って呆れられないだろうかと答えるのを迷っていると、
「そんなにうちが嫌なの?」
 伯母の声の硬さが増した。
 即座に否定できなかったのは、やはり親戚と言っても所詮他人の家で居心地の悪さを感じていたからだろう。それに、今何故そんな事を聞かれるのか分からなくて、返事を返すのが遅れた。致命的に。
 答えないのは肯定と捉えられてもしかたのない状況だったというのに。
「何がそんなに不満なのよ!」
 伯母の怒鳴り声が耳を貫いた。
「これでも美咲ちゃんのために一生懸命考えて、色々してきたつもりなのに、何がそんなに気に入らないの? 一体何をどうして欲しいのよ!」
 そう怒鳴られて、私はやっと気付いた。伯母は私が伯母の家が嫌で家出し、三田浜の家に帰ったと思っているのだ。何も言わずに家を出て、いつもの帰宅時間になっても連絡も入れず、しかも三田浜に家にいるのだから誤解されるのも当然かもしれない。けれど、そんなつもりではなかったと言い訳するには、伯母を激怒させた後では遅すぎた。
「もういいわ。勝手にしなさい」
 こちらに帰る必要はない、と伯母は斬って捨てるように言った。
「そっちで好きなように暮らせばいいわ。伯母さんのお節介が過ぎて悪かったわね」
 怒りの勢いそのままに電話は切られた。すぐに私からかけ直したが、伯母は電話に出てくれなかった。
 私はもう座っている気力もなく、リビングの冷たい床に寝そべった。
 散らばった料理と皿の欠片を見ながら、今の私のようだとぼんやり思った。
 つまり、誰も必要としないゴミだ。
 伯母をあれほど怒らせたのだから、もうあの家には帰れない。この家に戻るしかないけれど、学校はどうすればいいのだろう。また三田浜中に戻るのか。またあそこに戻ろうと思うほど厚顔無恥ではない。いや、まず学校側が受け入れないだろう。
 あの学校の教頭は本当は騒ぎを起こすような問題ある生徒を追い払ってしまいたくて、伯母の申し出に賛成したのだ。伯母が言い出さなかったら、教頭自らが提案して来たかもしれない。
 どちらの学校にも行けず、多分高校受験も失敗して、私は何の価値もないゴミになって、この世の隅で腐り埋もれて行く。
 私は手にしたままだった携帯から、父へ電話した。
 父はこんな私でも見捨てないでいてくれるだろうか。あんな女より、私を選んで母を選んで家に戻って来てくれないだろうか。
 言いたい事がまとまらないまま、呼び出し音を聞く。父は電話に出ず、呼び出し音がしばらく続いた後、出られないのでメッセージをというアナウンスに切り替わった。
「……お父さん」
 呼びかけた途端涙があふれて、声が出なかった。私の嗚咽ばかりが記録されていく。
 父に何を言えばいいのか分からなかった。もう頼れる大人は父だけだというのに、これまで抱えて来た思考が、感情が、涙と共に濁流となって溢れ出し、そこから適切な言葉を拾い上げる事ができなかった。
 私は電話を切り、目を閉じた。もうこのまま二度と目が覚めなければいいのにと願いながら。
 しかしすぐに携帯の着信音がなり、私は目を開いた。表示を見て確かめるまでもない、父からの電話に設定したメロディーが、手にしたままの携帯から流れていた。
「美咲、どうした。何かあったのか」
 通話ボタンを押すと同時に、父の焦りを帯びた声が聞こえて来た。
「……お父さん」
 答えようとしたが、また涙が溢れて来て上手く声が出なかった。
「今、どこにいるんだ」
「三田浜の……家」
 私の返事に、父が息を飲むのが聞こえた。
「お前……もしかして、会ったのか」
 誰に、と聞かなくても分かる。会った、と短く答えると、
「お父さんが家に呼んだんじゃない。誤解しないでくれ」
 速攻で返った声は嘘をついているようには聞こえなかった。それで少し落ち着きを取り戻した私は、あの女が家で料理を作っていた事を話した。
「そうか……」
 鍵は知らない間に勝手に持って行かれていたのだという。
「持って行った鍵は家の郵便ポストの中に入れておく、今日家に帰ったら良い事があるってメールに入ってたから何だろうと思ってたんだが」
 ではあの女はこの家で父と共に食事をする気ではなかったのか。
「本当に、本当に知らなかったんだ。信じてくれ」
「……うん、信じる」
 父が精神を病んで入院中の母の留守宅へ愛人を平気で連れ込むような人間だとは思いたくなかった。
「すぐ、家に帰るからな」
 久しぶりに優しい父の声を聞いた。
「今会社にいるけど、すぐに帰るから」
 お土産買って帰る、と電話は切れた。
 私は幼い頃に戻ったような気持ちになり、再び目を閉じた。


 それから三十分ほど過ぎた頃、家のチャイムが鳴った。
 私は少し眠りかけていたのかぼんやりする頭で、父が帰って来たのだと思った。
 しかしチャイムは鳴り止まなかった。父ならあの女が置いて行っただろう郵便ポストの鍵を使って家に入るはずだ。不思議に思っていると、家の玄関が開く音がした。どうやらあの女は鍵もかけずに帰ったらしい。
「美咲ちゃん! いるの? いるんでしょ? 美咲ちゃん!」
 伯母の声だった。伯母は大声で私を呼びながらリビングに入って来た。
「――どうしたの、これは」
 リビングの惨状を見て伯母は目を見開き、気だるく身体を起したばかりの私と床を交互に見比べて聞いた。
 帰ってみたら父の愛人が料理を作っていたので怒りのままに料理を全て払い落し追い出した話をすると、伯母は顔を両手で覆い、座りこんだ。
「……伯母さん」
 伯母が酷く悲しんでいるのは分かったが、何と声をかけて良いのか分からなかった。それに伯母がこの家まで来た訳も。
「帰ろう、美咲ちゃん。伯母さんの家へ」
 しばらくして伯母は目元を拭って顔を上げた。
「伯母さんが悪かったわ。美咲ちゃんの気持ちも聞かないで一方的に怒ったりして。謝るから、帰ろう?」
 伯母は何も悪くない。悪くないのに謝り、迎えに来てくれたのだ。悪いのは私だった。説明して頼む面倒臭さを遠慮と名付けて、一言相談すれば済んだ簡単な話を拗らせた。
 分かっているのに素直に謝れない。
「……伯母さんの家はそんなに嫌だった?」
 葛藤するあまり黙り込んでしまった私に、伯母が悲しげに聞く。
「違う! そうじゃないの!」
 私は即座に首を振った。今度こそ遅刻しないように。
 リビングのソファーに置いてあるクッションの向日葵模様が目に入り、ふと太陽の笑顔が浮かんだ。
 勇気を出して、と声が聞こえた気がした。
「ごめんなさい、伯母さん。私、お母さんのコーヒーがどうしても飲みたくなって――」
 ブレンド豆を取りに来たと続けるはずの言葉は涙に遮られてしまったが、母がコーヒー好きなのを知っている伯母は察してくれた。
「じゃあついでにコーヒーメーカーも持って行こうね。うちの台所狭いけど、置く所くらい作るわ」
 とりあえずここを片づけましょうと伯母が立ち上がった時、私は父が帰ってくると言ったのを思い出し、父との電話での話も全て伯母に話した。しかし伯母は、眉根を寄せて首を振った。
「美咲ちゃんには悪いけど、私はそんな話信じられないわ」
 伯母は父が自分で鍵を渡して、あの女を家に招いたと疑っていた。
「もう美咲ちゃんの前で喧嘩したくないから、今はあの人に会いたくない」
 帰ると言ってくれた父に会いたかったが、私は伯母と帰る事にした。伯母は私以上に傷ついているのかもしれないと思ったからだ。私は父の愛人と直接対峙して文句も言えたし、手料理をテーブルから叩き落とすという報復もできた。でも伯母は大事な妹の大事な家を浮気相手に無神経に荒らされた痕を見せつけられただけなのだ。父に八つ当たりするだろう伯母も、弁解もせず黙り込んでしまう父も見たくなかった。
 伯母は私の携帯から父へ、私を麻生の家へ連れて帰るから後片付けは自分でするようにとメールを送り、コーヒーメーカーとコーヒー豆を車に積み込んだ。
 家を出る時、郵便ポストの中を覗いて見たが、鍵はなかった。
 伯母も私も無言で玄関に鍵をかけ、家を後にした。


 麻生の家に帰ると、伯父が玄関先に立っていた。
 家の灯りが逆光になり表情は見えなかったが、迷惑をかけた私をさぞかし怒っているだろうと謝りかけると、
「風呂、沸いてる。入れ」
 私が口を開く前にそう言ってさっさと家の中に入ってしまった。夕食の用意をしておくからと伯母にも先に入るよう勧められ、私はもう何も考えたくないほど疲れていた心身を風呂で温めた。
 風呂から出ると伯父はもう寝室に引き揚げてしまったのか、居間にはいなかった。
 夜食の時間になってしまった夕食を取った後、伯母がキッチンに置いてくれたコーヒーメーカーでさっそくコーヒーを入れた。コーヒー豆を挽く事から始める手順を少し嬉しく思いながら進めていると、
「コーヒー淹れてるのか」
 伯父に後ろから声をかけられた。
「はい。……あの……伯父さんの分も淹れましょうか?」
 恐る恐る問うと、うんと素っ気ない返事が返った。
 居間で新聞を読みながら待っていた伯父にコーヒーを差し出すと、一口飲んだ後「美味い」と呟いた。
 コーヒーを飲む伯父はいつもよりほんの少し纏う空気が柔らかかった。私はコーヒーを淹れた後自分の部屋で飲むつもりだったが、伯父の傍に座って飲んだ。
「伯父さん、今日はごめんなさい」
 太陽の笑顔と同じくらい母のコーヒーは偉大で、私が素直に伯父に謝罪する後押しをしてくれた。
「無事だったんだから、いい」
 伯父はむっつり一言言っただけで、後は何も言わなかった。けれど「無事だったんだから」という言葉だけで伯父が心配してくれていた事が分かり、本当に申し訳なく思った。
 最後の一滴まできれいに飲み干し「ごちそうさん」と立ち上がりかけた伯父に、
「良かったらこれからも私が飲む時、一緒に淹れましょうか?」
 と、聞いてみた。
「いらん」
 伯父は愛想なく答えた。その声は不機嫌ではなかったが、優しくもなかった。
「お前が好きなだけ飲め」
 私の顔も見ずに伯父は居間を出て行き、母のコーヒーで慰められた心もそこでまた萎んでしまった。
 カップとコーヒーサーバーを片づけた後自室に戻り携帯を開いてみたが、父からの連絡は入っていなかった。
『郵便受けに鍵は入ってなかった』
 私はそうメールで送ったが、返信は来なかった。
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