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橋の上で
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学校と伯母の家を往復するだけだった私は町の地理に詳しくなく、息が切れるまででたらめに走った後は、よろよろと知らない道をさまよい歩いた。
ぼんやりと地面だけを見ながら歩いて、歩いて、気がつけば麻生町と森松市の境に掛かる重田大橋に来ていた。
橋は広く車道と歩道が分けてある。自転車も通行できる歩道を真ん中辺りまで歩いて立ち止まり、私の肩くらいまである欄干にもたれかかって、川幅に比べて水量の少ない川の風景を眺めた。
日はもう沈みかけ、薄赤い日の光が川辺に茂り始めた草原を照らしていた。暗くなって行く景色の中でも鮮やかに明るい色を発しているのは群生する菜の花だ。
菜の花の黄色。黄色の向日葵。向日葵が追い続ける太陽――太陽。
私は頭を振って、あの明るい笑顔を思い出すのを止めた。汚らわしい現実に打ちのめされた心を慰めるために彼の笑顔を思い浮かべるのは、彼をも汚すような気がしたからだ。
肩越しに車道の方を振り返ると、行きかう車と時折過ぎて行く自転車、歩行者のいる日常の風景があった。
そこにいる誰もが幸せそうに見えるとは言わない。自分だけが不幸だとも。平凡な毎日を生きる彼らと私に、それほどの差があるとは思えなかった。
親の離婚など今の世の中では珍しくもない。離婚の原因が父親の不倫というのも、今更小説やテレビドラマのネタにもならないほどありふれたものだ。それなのにどうして私はこれほど動揺しているのだろう。漫画やネット小説に出て来るような、傷害事件や覚せい剤やレイプによる妊娠中絶などという衝撃的な体験をしたわけでもないのに、何故私はこんなにも傷ついてしまっているのだろう。
自問の答えは明確だった。
父の恋愛によって、自分の存在の意味を否定されたから傷ついているのだ。
父は『父親』という生き物でなく、『父親』は人間の男である父のほんの一面であるに過ぎない。人間の男なら恋愛もするし、心変りもする。
父が母と離婚したいのは、母との恋愛関係を否定したいからだ。それは母との間あったはずの愛情の否定で、その愛情の具現である私の存在の否定だった。
歩き回ったせいだけではない疲労感が倦怠感に変わって行く。
明日の試験を受ける気も失せていた。受けても無駄だ。例え入試に合格しても、離婚が成立すれば父は私を捨てて県外へ行く。母子家庭になれば公立校の三倍はする私立の高い学費など払える訳がない。前の学校のクラスメートの一人がその理由で公立校に志望先を変えたのを知っている。
私が聖エリス女子高校に進学したかったのは、母の思い出話に対する憧れからだった。
エリ女は母の母校で、合唱部に所属してミッション系の高校らしく賛美歌を歌い、友と笑い合い、英語教師を兼ねていた金髪碧眼の若い男性神父にほのかな思いを寄せた母の青春時代をおとぎ話のように聞いて育った。
母の頃とは時代も制服も違うけれど、私も同じ学校に入ればそんな美しく素晴らしい学校生活を送れるのだと思い込んでいた。けれど、思い違いだった。それは母が母であるがゆえに得られた日々であり、私には永遠に巡って来ない幻だった。
何もかもがどうでも良くなってしまった私はどこにも行けず、橋の上から暮れて行く川の風景をぼんやりと眺めていた。
不意に足元に柔らかい毛並みを感じた。
下を見ると薄紫の首輪の白い猫が私の足にすり寄っていた。
神社の白猫だった。
神社の猫がどうしてこんな所にいるのだろう。
不思議に思いながらも屈んで背中を撫でようと手を伸ばしたが、白猫はすいっと私の手のひらから身をかわし、丁度通りかかった男子高校生三人の自転車の列に紛れ込こんで姿を消してしまった。
白猫が一瞬でいなくなってしまった事に呆然としていると、よく知った声がした。
「高野さん。どうしたの? こんなところで」
かけられた声に、一瞬息が詰まった。
一番聞きたくて、一番聞きたくない声だった。
逃げ出したかったが、向日葵は太陽を無視できない。振り返ると、笑顔の太陽が自転車を押しながら近づいて来た。
「明日試験なんじゃないの? 風邪でもひいたら大変だよ」
いつも太陽は優しい言葉をくれる。でもそれは元々の性格故で、相手が私だからではないのだ。私は単なるクラスメートで、特別な人がいる太陽にしてみればその他大勢の一人に過ぎない。心の中の唯一の人に対してだけではない、誰にでも示すような思いやりを、今、私に示さないでほしかった。
太陽の優しさが、私のためだけであればいいのにと願ってしまう。そのために、太陽が胸に秘めている誰かへの思いがなくなればいいと、いっそ手酷く振られて傷ついて私の所へ来てくれないかと願ってしまう。
太陽の優しさは残酷だ。私の醜さをこんなにもはっきりと照らし出す。
「ほっといてよ! 太陽には関係ないでしょう!」
私の怒鳴り声に太陽は歩みを止めた。
「何怒ってるの?」
呆気にとられた顔で首を傾げる。
「訳も分からず怒られると、僕、困るよ」
困ると言うならそのまま方向転換して、黙って去ってくれればいい。
ヒステリックな私に幻滅して、もう二度と関わりたくないと思ってくれればいい。
嫌われて避けられれば、太陽に好かれたいあまりに醜い事を考える私を知られなくて済むから。
そう、私は醜い。生涯の愛を誓い合ったはずの母を簡単に捨てて、目新しい恋人を選ぶような人間を父に持ち、好きな人が大切思う誰かに嫉妬心を抱き、身勝手な独占欲を募らせる私は醜い生き物なのだ。
「何かあったの?」
「何もない!」
太陽に聞かせられる事は、何も。
不意に涙がこぼれた。これ以上醜態を晒したくないのに、涙を止められなかった。
私は確かに醜いけれど、母と私を捨てて行く父だって醜い。そんな父を妊娠を武器に奪っていくあの女だって醜い。生まれてくる私の兄弟だってあんな女に育てられて美しく育つ訳がない。父に執着して挙げ句命を投げ出そうとした母も、誠意は金だと言った伯母も、私を邪魔者と思っているくせに何も言わない伯父も十分醜い。
「……私の世界は醜いものばっかり」
「え……え? 何?」
突然泣き出した私を目を見開いて見ていた太陽は、思わずこぼした私の言葉の意味を量りかね、困惑した表情を浮かべた。
「高野さん……本当にどうしたの?」
私の方こそ太陽が何故そんなに私を気遣うのか分からなかった。
好きな女の子がいるくせに。誤解されたくないと言ったくせに。
醜い私は悲しみに苛立って、考えたくない事を考えてしまう。
太陽も父と同じで、特別大事な人がいても他の女の子にも興味を示して、いい格好をしたいだけなのではないのか、と。
「だから、太陽には関係ないって言ってるでしょう!」
太陽には好きな人に一途な人間でいて欲しかった。たとえそれが私のエゴであろうと、勝手な幻想の押しつけであろうと、私にはこの世にたった一人でも、好きな人への思いを大切にする人の存在が必要だった。
そのためにはもうこれ以上私に関わらないで欲しかった。なのに、
「関係ない、なんて言うなよ!」
怒鳴った私の声よりもっと大きな声で、太陽が怒鳴り返してきた。
「そんなに泣いてるのに、知らん顔できるわけないだろっ!」
太陽は大きく息を吸い込むと自転車を橋の欄干に立てかけて歩み寄り、私の前に立った。
「どうしたの? 誰かと喧嘩した? 誰かに何か嫌な事でもされたの?」
怒りを露わに眉根を寄せて早口にまくし立てる。心配する気持ちを無碍に突っぱねられたというのに、言うのは私への心配ばかりだ。
「泣くほど辛い事があったんなら話してくれてもいいじゃないか! 友達なんだから!」
その言葉に私の心は瞬時に凪いだ。
太陽は私を友達と言ってくれた。
ただのクラスメートでなく、友達だと。
友達なら、男であろうと女であろうと関係ない。卒業して別れてもいつかどこかで偶然出会った時、例え彼の隣に恋人が寄り添っていても、何の遠慮もなく声をかけられるだろう。そして太陽も気軽に笑って返事を返してくれるだろう。
この先もう何も良い事はないと絶望しかけた私にも、そんな穏やかな時間が廻り来るかもしれない希望が残されているような気がした。
「……ごめん、太陽」
涙に悲しいばかりでない感情が混じる。頬を伝って落ちて行く滴が、さっきとは違い温かな熱を帯びているのを感じた。
「八つ当たりだった。ごめん」
これ以上太陽に泣き顔を見られたくなくて欄干に顔を伏せるように俯くと、太陽の身体から怒気が抜けていく気配がした。
「……謝らなくてもいいよ。僕の方こそごめん」
私の横で欄干に身体を預けた太陽は、微かに笑うように呟いた。
「泣いてしまうほど辛い事は、簡単に人に言えないよね」
それは自分の無神経さの後悔というより、経験者の独白に聞こえた。毎日が楽しいと言う太陽にもやはり人に言えないほど悲しい事があるのは人として当然のことなのだろうが、それがどんなものかは私には想像もつかなかった。
気持ちが落ち着いて来るにつれて太陽の前で泣いた事が恥ずかしくなり、ますます顔を上げられなくなってしまった私の隣で太陽はしばらく黙っていたが、
「さっき、高野さんは『世界は醜いものばかりだ』って言ったけど」
欄干から身体を離し、私の方に向き直った。
「きれいなものもあるよ」
思わず顔を上げて太陽を見た私に、彼は「あれ」と目を細めて私の頭上を指さした。
太陽が指したのは、橋の向こうのビルの屋上にある大きな広告の看板だった。社名からは何の会社なのかは分からなかったが、垢ぬけない三流っぽい女性モデルが花束を胸に抱き笑顔を浮かべていて、その横には『明日も あなたに いいことがありますように』と書かれていた。
「人の幸せを祈る言葉って、この世で一番美しいよ」
明日もあなたにいいことがありますように。
明日もというのだから今日もいいことがあった人へ、今日のような幸せが明日も、と。
傲慢にも思えるけれど、素直に断続的な幸せを祈る言葉は確かに美しかった。
「だから、あの言葉あげるよ」
振り返ると、太陽の穏やかな笑顔があった。もう沈んでしまった早春の陽の名残の光が彼の笑顔を儚げに照らしていた。
普段の私なら太陽を「格好つけ過ぎ」と茶化して笑っただろう。
けれど、笑うどころかひと声も上げられなかった。あまりに太陽の声が真摯だったからだ。一番大切にしている宝物をそっと手渡しするような真剣で誠実な声に、私は何と返事をすればいいのか分からず、ただ太陽を見返していた。
そして急に不安になった。
常に明るい光の中にいるイメージの彼が夕暮れの薄闇にいるせいなのかもしれないが、このまま夜の闇に融けてなくなってしまいそうな錯覚を覚えた。そう思うとさっきの言葉が永遠の別れに際しての最期の私への贈り物のような気がして、心がざわついた。
「ねえ、高野さん。お腹空かない?」
しかし私の不安を余所に、一瞬前まで身にまとっていた真面目さを自ら壊して太陽はへらりと笑って見せた。
「おいしいカレーパン売ってるパン屋さんがあるんだ。そこに行く途中だったんだけど、一緒に行こうよ」
私の返事も聞かず、太陽は欄干に立てかけていた自転車に飛び乗ると、後ろの荷台を指した。
「乗って、乗って。ちょっと遠いから乗せて行ってあげる」
あまりに急な展開に頭がついて行けず唖然とする私の腕を掴んで荷台に座らせると、太陽は上機嫌で「出発、進行!」と宣言した。
ぼんやりと地面だけを見ながら歩いて、歩いて、気がつけば麻生町と森松市の境に掛かる重田大橋に来ていた。
橋は広く車道と歩道が分けてある。自転車も通行できる歩道を真ん中辺りまで歩いて立ち止まり、私の肩くらいまである欄干にもたれかかって、川幅に比べて水量の少ない川の風景を眺めた。
日はもう沈みかけ、薄赤い日の光が川辺に茂り始めた草原を照らしていた。暗くなって行く景色の中でも鮮やかに明るい色を発しているのは群生する菜の花だ。
菜の花の黄色。黄色の向日葵。向日葵が追い続ける太陽――太陽。
私は頭を振って、あの明るい笑顔を思い出すのを止めた。汚らわしい現実に打ちのめされた心を慰めるために彼の笑顔を思い浮かべるのは、彼をも汚すような気がしたからだ。
肩越しに車道の方を振り返ると、行きかう車と時折過ぎて行く自転車、歩行者のいる日常の風景があった。
そこにいる誰もが幸せそうに見えるとは言わない。自分だけが不幸だとも。平凡な毎日を生きる彼らと私に、それほどの差があるとは思えなかった。
親の離婚など今の世の中では珍しくもない。離婚の原因が父親の不倫というのも、今更小説やテレビドラマのネタにもならないほどありふれたものだ。それなのにどうして私はこれほど動揺しているのだろう。漫画やネット小説に出て来るような、傷害事件や覚せい剤やレイプによる妊娠中絶などという衝撃的な体験をしたわけでもないのに、何故私はこんなにも傷ついてしまっているのだろう。
自問の答えは明確だった。
父の恋愛によって、自分の存在の意味を否定されたから傷ついているのだ。
父は『父親』という生き物でなく、『父親』は人間の男である父のほんの一面であるに過ぎない。人間の男なら恋愛もするし、心変りもする。
父が母と離婚したいのは、母との恋愛関係を否定したいからだ。それは母との間あったはずの愛情の否定で、その愛情の具現である私の存在の否定だった。
歩き回ったせいだけではない疲労感が倦怠感に変わって行く。
明日の試験を受ける気も失せていた。受けても無駄だ。例え入試に合格しても、離婚が成立すれば父は私を捨てて県外へ行く。母子家庭になれば公立校の三倍はする私立の高い学費など払える訳がない。前の学校のクラスメートの一人がその理由で公立校に志望先を変えたのを知っている。
私が聖エリス女子高校に進学したかったのは、母の思い出話に対する憧れからだった。
エリ女は母の母校で、合唱部に所属してミッション系の高校らしく賛美歌を歌い、友と笑い合い、英語教師を兼ねていた金髪碧眼の若い男性神父にほのかな思いを寄せた母の青春時代をおとぎ話のように聞いて育った。
母の頃とは時代も制服も違うけれど、私も同じ学校に入ればそんな美しく素晴らしい学校生活を送れるのだと思い込んでいた。けれど、思い違いだった。それは母が母であるがゆえに得られた日々であり、私には永遠に巡って来ない幻だった。
何もかもがどうでも良くなってしまった私はどこにも行けず、橋の上から暮れて行く川の風景をぼんやりと眺めていた。
不意に足元に柔らかい毛並みを感じた。
下を見ると薄紫の首輪の白い猫が私の足にすり寄っていた。
神社の白猫だった。
神社の猫がどうしてこんな所にいるのだろう。
不思議に思いながらも屈んで背中を撫でようと手を伸ばしたが、白猫はすいっと私の手のひらから身をかわし、丁度通りかかった男子高校生三人の自転車の列に紛れ込こんで姿を消してしまった。
白猫が一瞬でいなくなってしまった事に呆然としていると、よく知った声がした。
「高野さん。どうしたの? こんなところで」
かけられた声に、一瞬息が詰まった。
一番聞きたくて、一番聞きたくない声だった。
逃げ出したかったが、向日葵は太陽を無視できない。振り返ると、笑顔の太陽が自転車を押しながら近づいて来た。
「明日試験なんじゃないの? 風邪でもひいたら大変だよ」
いつも太陽は優しい言葉をくれる。でもそれは元々の性格故で、相手が私だからではないのだ。私は単なるクラスメートで、特別な人がいる太陽にしてみればその他大勢の一人に過ぎない。心の中の唯一の人に対してだけではない、誰にでも示すような思いやりを、今、私に示さないでほしかった。
太陽の優しさが、私のためだけであればいいのにと願ってしまう。そのために、太陽が胸に秘めている誰かへの思いがなくなればいいと、いっそ手酷く振られて傷ついて私の所へ来てくれないかと願ってしまう。
太陽の優しさは残酷だ。私の醜さをこんなにもはっきりと照らし出す。
「ほっといてよ! 太陽には関係ないでしょう!」
私の怒鳴り声に太陽は歩みを止めた。
「何怒ってるの?」
呆気にとられた顔で首を傾げる。
「訳も分からず怒られると、僕、困るよ」
困ると言うならそのまま方向転換して、黙って去ってくれればいい。
ヒステリックな私に幻滅して、もう二度と関わりたくないと思ってくれればいい。
嫌われて避けられれば、太陽に好かれたいあまりに醜い事を考える私を知られなくて済むから。
そう、私は醜い。生涯の愛を誓い合ったはずの母を簡単に捨てて、目新しい恋人を選ぶような人間を父に持ち、好きな人が大切思う誰かに嫉妬心を抱き、身勝手な独占欲を募らせる私は醜い生き物なのだ。
「何かあったの?」
「何もない!」
太陽に聞かせられる事は、何も。
不意に涙がこぼれた。これ以上醜態を晒したくないのに、涙を止められなかった。
私は確かに醜いけれど、母と私を捨てて行く父だって醜い。そんな父を妊娠を武器に奪っていくあの女だって醜い。生まれてくる私の兄弟だってあんな女に育てられて美しく育つ訳がない。父に執着して挙げ句命を投げ出そうとした母も、誠意は金だと言った伯母も、私を邪魔者と思っているくせに何も言わない伯父も十分醜い。
「……私の世界は醜いものばっかり」
「え……え? 何?」
突然泣き出した私を目を見開いて見ていた太陽は、思わずこぼした私の言葉の意味を量りかね、困惑した表情を浮かべた。
「高野さん……本当にどうしたの?」
私の方こそ太陽が何故そんなに私を気遣うのか分からなかった。
好きな女の子がいるくせに。誤解されたくないと言ったくせに。
醜い私は悲しみに苛立って、考えたくない事を考えてしまう。
太陽も父と同じで、特別大事な人がいても他の女の子にも興味を示して、いい格好をしたいだけなのではないのか、と。
「だから、太陽には関係ないって言ってるでしょう!」
太陽には好きな人に一途な人間でいて欲しかった。たとえそれが私のエゴであろうと、勝手な幻想の押しつけであろうと、私にはこの世にたった一人でも、好きな人への思いを大切にする人の存在が必要だった。
そのためにはもうこれ以上私に関わらないで欲しかった。なのに、
「関係ない、なんて言うなよ!」
怒鳴った私の声よりもっと大きな声で、太陽が怒鳴り返してきた。
「そんなに泣いてるのに、知らん顔できるわけないだろっ!」
太陽は大きく息を吸い込むと自転車を橋の欄干に立てかけて歩み寄り、私の前に立った。
「どうしたの? 誰かと喧嘩した? 誰かに何か嫌な事でもされたの?」
怒りを露わに眉根を寄せて早口にまくし立てる。心配する気持ちを無碍に突っぱねられたというのに、言うのは私への心配ばかりだ。
「泣くほど辛い事があったんなら話してくれてもいいじゃないか! 友達なんだから!」
その言葉に私の心は瞬時に凪いだ。
太陽は私を友達と言ってくれた。
ただのクラスメートでなく、友達だと。
友達なら、男であろうと女であろうと関係ない。卒業して別れてもいつかどこかで偶然出会った時、例え彼の隣に恋人が寄り添っていても、何の遠慮もなく声をかけられるだろう。そして太陽も気軽に笑って返事を返してくれるだろう。
この先もう何も良い事はないと絶望しかけた私にも、そんな穏やかな時間が廻り来るかもしれない希望が残されているような気がした。
「……ごめん、太陽」
涙に悲しいばかりでない感情が混じる。頬を伝って落ちて行く滴が、さっきとは違い温かな熱を帯びているのを感じた。
「八つ当たりだった。ごめん」
これ以上太陽に泣き顔を見られたくなくて欄干に顔を伏せるように俯くと、太陽の身体から怒気が抜けていく気配がした。
「……謝らなくてもいいよ。僕の方こそごめん」
私の横で欄干に身体を預けた太陽は、微かに笑うように呟いた。
「泣いてしまうほど辛い事は、簡単に人に言えないよね」
それは自分の無神経さの後悔というより、経験者の独白に聞こえた。毎日が楽しいと言う太陽にもやはり人に言えないほど悲しい事があるのは人として当然のことなのだろうが、それがどんなものかは私には想像もつかなかった。
気持ちが落ち着いて来るにつれて太陽の前で泣いた事が恥ずかしくなり、ますます顔を上げられなくなってしまった私の隣で太陽はしばらく黙っていたが、
「さっき、高野さんは『世界は醜いものばかりだ』って言ったけど」
欄干から身体を離し、私の方に向き直った。
「きれいなものもあるよ」
思わず顔を上げて太陽を見た私に、彼は「あれ」と目を細めて私の頭上を指さした。
太陽が指したのは、橋の向こうのビルの屋上にある大きな広告の看板だった。社名からは何の会社なのかは分からなかったが、垢ぬけない三流っぽい女性モデルが花束を胸に抱き笑顔を浮かべていて、その横には『明日も あなたに いいことがありますように』と書かれていた。
「人の幸せを祈る言葉って、この世で一番美しいよ」
明日もあなたにいいことがありますように。
明日もというのだから今日もいいことがあった人へ、今日のような幸せが明日も、と。
傲慢にも思えるけれど、素直に断続的な幸せを祈る言葉は確かに美しかった。
「だから、あの言葉あげるよ」
振り返ると、太陽の穏やかな笑顔があった。もう沈んでしまった早春の陽の名残の光が彼の笑顔を儚げに照らしていた。
普段の私なら太陽を「格好つけ過ぎ」と茶化して笑っただろう。
けれど、笑うどころかひと声も上げられなかった。あまりに太陽の声が真摯だったからだ。一番大切にしている宝物をそっと手渡しするような真剣で誠実な声に、私は何と返事をすればいいのか分からず、ただ太陽を見返していた。
そして急に不安になった。
常に明るい光の中にいるイメージの彼が夕暮れの薄闇にいるせいなのかもしれないが、このまま夜の闇に融けてなくなってしまいそうな錯覚を覚えた。そう思うとさっきの言葉が永遠の別れに際しての最期の私への贈り物のような気がして、心がざわついた。
「ねえ、高野さん。お腹空かない?」
しかし私の不安を余所に、一瞬前まで身にまとっていた真面目さを自ら壊して太陽はへらりと笑って見せた。
「おいしいカレーパン売ってるパン屋さんがあるんだ。そこに行く途中だったんだけど、一緒に行こうよ」
私の返事も聞かず、太陽は欄干に立てかけていた自転車に飛び乗ると、後ろの荷台を指した。
「乗って、乗って。ちょっと遠いから乗せて行ってあげる」
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