早春の向日葵

千年砂漠

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二人乗りの自転車で

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 私たちはパンが冷めないうちに店舗横の公園で食べることにした。
 公園に植えてある木にはクリスマスツリーなどに良く使われる青白い電飾が巻き付けてあり、陽が落ちてしまった園内を華やかに照らしていた。
 いくつかあるベンチの一つに二人で座り、パンにかじりつく。できたてだけあって、中のカレーはまだ湯気が立つほど温かかった。
 太陽の言った通り、本当においしいパンだった。閉店時間も近いというのに客足が途絶えないだけのことはある。他のパンの味も期待できそうだった。
「どうしても高野さんにこのカレーパン食べてもらいたかったんだ。おいしい物食べて元気出してもらいたいって思ったのもあるけど」
 太陽は温かな色の灯が点る店に視線を向けた。
「僕、ここのパン屋の職人さんを見て、パン職人になりたいと思ったんだ」
 このパン屋の店舗は工房との境の一部がガラス窓になっていて、パンを作成する様子が見えるようになっていた。
「元々何か作るのが好きだったんだけど、パンを作る職人さんの手つきが鮮やかでかっこよくて、憧れた。それに、このカレーパンがおいしくて、パン一つでこんなに人を幸せにできるんだって感動したんだ」
 太陽が自分の事を語るのは珍しかった。いつだったか家から一番近い場所にある県立高校に行く予定だとは聞いた事があるが、その先の話は初めてだった。
「じゃあ高校卒業したら専門学校に行くの? それともパン屋に就職するの?」
「んー、どうだろうね」
 太陽は電飾の青白い光の中で曖昧に笑った。
 その薄い笑みの口元が、記憶の中の一人と重なる。
 屋上の少年が別れ際に見せた、少し寂しげな笑みの形と良く似ているような気がした。
 やはり太陽はあの屋上の彼ではないのか。
 率直に問うべきか、迷った。もし同一人物であるなら彼がその事実を言わない理由を簡単に聞いてはいけない気がしたし、別人なら二人の優しさを勝手に重ねたようで申し訳ない気がしたからだ。
 しかし、やはり思い切って問おうと口を開きかけた時、
「あ、ヤバイ。もう七時になるよ」
 太陽は勢いよくベンチから立ち上がった。
「この店閉まっちゃうし、もうそろそろ帰らないと」
 店の玄関先で閉店準備をする店員の姿が見えた。店が閉店すれば敷地内であるこの公園にいるわけにもいかない。
 それでも私はベンチから立ち上がれなかった。希望のない現実へ引き戻される悲しみともっと太陽と一緒に居たい気持ちが混じり合い、私の重い足かせとなっていた。
「……帰りたくない」
 俯いて呟いた私に、
「えっ? それって僕と朝帰りしたいってお誘い? もー高野さんったら大胆」
 太陽はおどけて笑って見せたが、顔も上げない私にため息をついた。
「帰りたくないって言ったって、そうもいかないじゃない。明日は入試なんだから」
「入試は……いいの。もう受けないから」
「どうして」
「無駄だから。合格しても学費が払えなくなるかもしれなくなって……」
 いつも優しい彼なら、いつもにも増して優しい言葉をかけてくれると、私は無意識に期待していたのかもしれない。だから、
「それ、アルバイトしても絶対無理なの?」
 短い沈黙の後頭上から振って来た冷ややかな声が太陽のものだとは、一瞬信じられなかった。
「自分で学費をどうにかすることは考えた?」
 顔を上げると、太陽はむっつりと口を尖らせていた。
「高野さんは甘えてるよ」
 斬って捨てるように言われ、さすがに私もカッとして言い返した。
「な、何よ。私のどこが」
「甘えてるよ。奨学金制度は調べた? 先生には相談した? 自分でできることを考えてみた? 何もしないで、学費がないから高校行かないなんて、小さい子が自分の思い通りにならないって拗ねてるのと同じだ」
「だって――みんな学費は親に出してもらえるのに」
「『みんな』って誰だよ。高野さんが知ってる人がたまたま全員、親に学費を出してもらえる人だっただけだろ。僕の姉さんの友達の一人は、高校に入ってすぐお父さんが病気で亡くなったから、三年間バイトして自分で学費払って卒業したよ」
 私に反論する暇も与えず、太陽は拳を握りしめて早口に言い立てた。彼は怒ると早口になるらしかった。
「この世の誰一人、他人と同じ条件で生きてる人なんていないよ。顔の善し悪しも頭の出来も経済力もそれぞれ違う。高野さんは学費がないかもしれないけど、病気で行けない人間だっているんだ。健康で高校に行けるチャンスがあるだけ高野さんは恵まれてるのに、何拗ねて諦めてるんだよ!」
 太陽は私の腕を掴んで立ち上がらせると、自転車を停めた方へ歩き出した。
「家まで送る」
 無理やり私を荷台に乗せ、太陽は来た道を戻り始めた。
 無言でがむしゃらにペダルを漕ぐ太陽の背中は怒りにあふれていた。帰りたくない気持ちはあったが、本当に帰りたくないなら自転車から飛び降りて逃げればいいとでも思っているのか私を突き放すように太陽が怒っているのが悲しくて、私は彼の学生服を握りしめて荷台に座っていた。
 やがて交差点の信号に引っ掛かり、ブレーキをかけて止まった太陽はふっと肩の力を抜いた。
「……ごめん」
 肩越しに振り返り私に謝る太陽に怒りの影はもうなかった。
「高野さんの気持ちも考えないで、勝手なこと言ってごめん」
 謝らなければならないのは私の方だった。冷静に考えれば私が甘ったれているという太陽の意見は正しい。正論だからこそ耳が痛くて反発した自分の幼さと素直に謝れない意固地さに自己嫌悪に陥り、私は返事も返せなかった。
「でも、入試は受けた方が良いよ。絶対」
 信号が青に変わり、横断歩道の上をゆっくり走り出した私たちの横を、向かい側から歩いて来た十歳くらいの女の子と父親らしい男性が仲良く喋りながらすり抜けて行った。
 ほんの何年か前の私と父の姿。そしてもう永遠に取り戻せないだろう姿だった。
「私の両親、多分もうすぐ離婚するの」
 太陽は私の言葉に振り返ろうとしたが、止めて前を向いた。
「お父さんはお母さんの他に好きな女の人ができて、その人との間に子供ができたの」
「うん」
「それで、その人と県外に行って暮したいから、早くお母さんと離婚したいんだって」
「うん、うん」
 太陽の相槌を打つ声は柔らかかった。
「自分だけ幸せになりたいから、まだ入院してるお母さんも私も捨てて行くの」
 父にもう母と私への愛情はないのだ。それどころか邪魔だとさえ思っているだろう。夫婦も親子も、共に脆い絆だった。私たちは家族ではなく、ただの同居人と同じだったのだ。
「そんな人が、捨てて行く娘の学費なんて考える訳がない」
 吐き捨てるように言った途端、涙がこぼれた。
 父が無条件に私を愛してくれていると思っていた愚かさが無性に悲しかった。
「学費どころか、これからお母さんと二人でどうやって暮らしていけばいいのか分からないのに、入試なんて受けても」
「大丈夫!」
 太陽が私の涙声をかき消すほどの大声で叫んだ。
「高野さんなら大丈夫! 高校にも合格する! お母さんを助けて楽しく生きる! 何があっても絶対負けない! 僕が保証する!」
 だから、と太陽は笑って顎をしゃくって前方を指した。
「あの橋を僕が高野さんを乗せたまま渡り切ったら、高野さんは僕の言う事を信じて明日の入試を受けるって、約束して」
 私たちは重田大橋の下まで戻ってきていた。
 太陽は私の返事も聞かず、急な坂へペダルを踏み込んだ。大橋の坂は一人で上がるだけでもきつい勾配で、二人乗りで上れるとは思えなかった。それでも太陽は歯を食いしばり、立ち漕ぎでよろけながらも坂を上がって行く。
 約束できないと自転車を下りる事も私にはできた。
 そんな約束しなくても明日の入試は受けると言って下りる事も。
 けれど私にはできなかった。
 苦しい息を吐きながら力の限りペダルを漕ぐ太陽の一足一足が誠意そのものだった。
 懸命な太陽の背中に、熱い涙があふれた。
 じわじわと、しかし確実に、太陽は坂を征服して行く。いつしか私の心も太陽と一緒に橋を渡っていた。

 上がれ。希望を持って上がれ。困難な上り坂を。

 下れ。俯かず下れ。失意の坂も。

 大きな橋――大きな川を渡り切って、大きな人間になるために。

 太陽は見事橋を渡り切った。橋のたもとまで下って自転車が止まると、私は荷台から飛び降りて前の回り、太陽ごと倒れそうになった自転車をハンドルに抱きついて止めた。
「ありがとう! 太陽、ありがとう!」
 息が乱れて返事もできない太陽に、私は精一杯の感謝と誓いを叫んだ。
「私、頑張る! 頑張って、絶対負けない! 約束する!」
 うん、と荒い息に紛れた太陽の声がした。
 真夏のように熱い掌がハンドルを抱えて支える私の頭を柔らかに撫でて離れると、私は嗚咽を噛み殺す努力を放棄した。
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