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第2話 媚薬

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「旦那様、お知らせしたい事がございます」

神妙な顔で入ってきたのは、執事長のアンドレである。

代々フェラガモテ侯爵家に支える執事の家系で、先代から引き継いだ執事長の為、真っ黒の髪が若々しい執事長だ。

「どうした?」

ブルークは仕事の手を止めて、昔からよく知るアンドレの顔に視線を向けた。

「申し上げにくい事なのですが、旦那様のワインボトルに怪しげな薬を盛っている者を見つけました」

アンドレは、手に持ったお盆の上の白いナプキンをサッと取り上げた。

まるで隠してきたように取り出したワインのボトルを丁寧な手付きで、ブルークの前に差し出した。

「まだ何の薬かは確認が取れておりません。新しく入った使用人が、小瓶から侯爵様の朝食にお出しする予定だったワインボトルに薬を垂らすのをこの目で確認しました」

アンドレの声は落ち着いていたが、目には明らかに怒りが込められていた。

「私に薬を盛った者がいるというのか。その使用人は、今どこにいる」

ブルークは、手元の書類を怒りでぐしゃぐしゃに握り潰して睨み付けた。

「旦那様の判断を仰ぐ為に、使用人には気付かないふりをしております。ただ暗殺の場合、逃げる恐れもございますので、新人の指導と誤魔化して侯爵家の者に見張らせています」

「どこから送り込まれた者か分かっているのか」

ブルーク侯爵の鋭い問いに、アンドレは素早く答えた。

「結婚式の際に、男爵家からの紹介状で雇った者の一人でした」

アンリエッタの身の回りの世話や食事の好みが分からないだろうと、無理矢理押し付けられた使用人がいると報告を受けていた。

「まさか、何の為に男爵家が私に薬など盛るのだ。いやアンリエッタである可能性もあるわけか。まずは主治医を呼んで何の薬か確認しろ。この事は、夫人は勿論、誰にも悟られるな」

ブルークはワインボトルを忌々しげに指の背で押して、アンドレに下げるように言い付けた。

 この時ブルークは、自分の中にあったアンリエッタに対する期待や好意が薄れていくのを感じていた。

◇◆◇

 翌日の朝食は、いつもの侯爵家の朝食の時間よりも遅めに始まった。

「夫人、そんなに見つめてどうしました」

ブルークは朝食の席でからかうように、アンリエッタの視線を見つめ返した。

「あっ、申し訳ありません。誰かと朝食をするのは久しぶりすぎて」

それも本当の事だった。

男爵家では、両親と嫡男が食事する席に、私生児のアンリエッタが座る事はなかった。

しかも朝食を抜かされる事も度々あったのだ。

「いつもお一人で食事をされていたのですか?実は私も侯爵の地位を継いでからは、一人で食事をしてきたので、夫人がいてくれて嬉しいです」

ブルークの言葉にアンリエッタは顔を赤らめた。

周りの侍女達はため息をもらして、アンリエッタを羨ましがった。

実際には貴族間の男女の会話における社交辞令でしかなかった。

だが、自分を蔑む男爵家の人間としか関わりを持つ事のなかったアンリエッタには、それすら分からなかった。

「ふむ」

ブルークはアンリエッタの様子から、薬を盛るような女性には見えないが、それも演技だとしたら恐ろしすぎると考えていた。

侯爵様は無事なご様子だけど、怪しい使用人はいないかしら?

アンリエッタは、使用人がブルークに飲み物を注ぐ時にも、怪しげな薬を盛られないか態度がおかしくないか、さりげなくチェックしていた。

「今日のスープは侯爵家の庭で採れた野菜を使用しています」

執事長の言葉にアンリエッタは頷いて、手元のスープを見てからスプーンですくって口元に持っていった。

こんなに美味しい野菜のスープは初めてだわ。

侯爵家の庭では美味しい野菜が採れるみたいね。

アンリエッタは初めて食べる美味しい野菜スープに、ブルークへの注意を怠ってしまった。

「ゲホゲホゲホっ」

ワインを飲んでいたブルークが口の中のワインを吐き出して、咳き込みテーブルに突っ伏していた。

「侯爵様が血を血を┅┅毒かもしれません。吐かせなくては」

アンリエッタはすぐさま駆け寄った。

そしてテーブルのお水を手にして強引に水を飲ませて、背中を叩いてワインを吐かせようとした。

「奥様、血ではありません。赤ワインです」

執事長のアンドレが胸のハンカチーフをブルークに差し出しながら、アンリエッタの手を制止して落ち着くように促した。

「夫人、驚かせてすまない。ワインが変な所に入ってしまって咳き込んだだけだ」

ブルークは手渡されたハンカチーフで口元を拭いもう大丈夫だと、周りの者を元の位地に付かせた。

アンリエッタは不安な気持ちを残したまま席に戻った。

◇◆◇

 ブルークがワインを吐き出した日の前日に遡る。

アンリエッタは過去の夢を見ていた。

いや実際には、過去か前世か分からないが実際にあったと思われる事を夢として思い出していた。

『侯爵家の跡継ぎを生む為に、毎日侯爵には媚薬を飲ませている。お前は早く跡継ぎを生まないと侯爵が早死にして、後家になるわよ。くくくっ』

バッ

 アンリエッタは悪夢から覚めるようにベッドから飛び起きた。

「侯爵夫人、突然起きられて大丈夫ですか」

アンリエッタ付の侍女が心配して顔を覗き込んでいる。

「ちょっと嫌な夢を見て」

アンリエッタは、またもや前世の夢で目を覚ました。

いや今世でも同じ事があり、過去の夢なのかもしれないが、生まれ変わったのが結婚式前日だった為に、どちらの記憶かは思い出せない。

確かなのは、男爵家が跡継ぎを生ませる為に、ブルークに媚薬を盛っていると言う事実だ。

しかも、飲み続ければ命が危ない。

なぜ、自分で媚薬を飲ませると言わなかったのか。

自分で盛らなければ、罪の意識を感じないとでも言うのか。

過去の自分に吐き気がした。

媚薬を盛っているのは誰だろう?

男爵家から連れてきた侍女がいたとしても、元からの私付の侍女なんていなかったから、紹介されなければ分からない。

「お支度しますね」

侍女が洗面器に暖かいお湯を運んできてくれた。

「あの男爵家から来た方ですか」

アンリエッタは恐る恐る聞いてみた。

男爵家では、侍女からもバカにされてきた。

食事を抜かれる等の酷い仕打ちもされた。

アンリエッタにとって侍女は恐ろしい存在でしかなかった。

「まあ侯爵夫人、私に敬語なんてお止めください。私は侯爵家に勤めているモリーと申します。美しい夫人にも誠心誠意お仕え致します」

「美しいなんてお世辞は止めて下さい」

男爵家で(薄汚い、その髪の色は何だ、その目付きを止めろ)と蔑まれてきた。

自分が美しくない事は分かっていた。

「奥様、なんの冗談ですか?白い肌に苺ミルクのような髪、琥珀色の瞳なんて、奥様より美しい女性を私は見たことがありません」

「ありがとうございます」

侍女のお世辞だと分かっている。

でも貶されないだけマシだ。

そして、初めて自分に感じ良く接するモリーと言う侍女に、アンリエッタはびっくりしてしていた。

「あの男爵家から来た人を知りませんか」

アンリエッタは、それがどれほど不躾であるか分からずに、口に出してしまった。

「何かお困りの事やご用事があれば、侯爵家の使用人は全て夫人のお申し付けを全身全霊で受け止めますので、おっしゃって下さいまし」

アンリエッタが慣れない侯爵家の侍女や使用人を信用出来ないと勘違いされてしまったのだろう。

「違うんです。本当にそつじゃなくて」

媚薬の事を話せる筈もないアンリエッタは二の句が継げない。

「お気になさらないで下さい。新しい使用人は侍女長か執事長、もしくは旦那様にお聞きになるのが一番だと思います」

不躾な言葉にも気にせず、モリーは笑顔で答えてくれた。

「ありがとうございます」

アンリエッタは、敬語は不要ですと言うモリーの声を遠く聞いていた。

どうしよう。

誰に聞いても、自分たち侯爵家の者を信用出来ないのかと思われてしまうに違いない。

いいえ、たとえ自分の信用が落ちようともブルークの命には変えられない。

でも誰に言えばいいの。

いくらモリーが感じが良くても、男爵家の回し者が侯爵に媚薬を盛っているなんて相談出来る筈がない。

やはり相談するなら執事かしら。

だってブルークに直接、しかも媚薬の話なんて出来る筈ない。

そうだ、メモを渡せばいいんじゃない?

アンリエッタはモリーに紙とペンを用意してもらった。

『新しい使用人に注意。侯爵様に薬』

それだけ書いて、執事長の部屋のドアの隙間からメモを差し込んだ。

モリーの話だと執事長は部屋にいない時には与えられた自室に鍵を掛けている。

用事がある時には、部屋ではなくて執務室に行くように教わっていたからだ。

「侯爵様が薬を飲んでしまいませんように」

◇◆◇

 アンドレが薬の盛られたワインボトルを持ってブルークの執務室にやって来た日。

男爵家から来た使用人の仕業だと報告していった。

「旦那様、こちらは私に届いた走書きのメモですが」

アンドレはワインボトルの横にメモを置いて、ブルークの指示を待った

「薬の盛られたワインを飲んだふりをして、犯人が行動を起こさないか様子を見よう」

ブルークからワインの中味を入れ換える指示を受けたアンドレは、ワインボトルを手にすると一礼して素早く執務室を出ていった。

 その後夜中の内に呼ばれた主治医が薬を調べたところ、媚薬が盛られていた事が分かった。

悪質にも強い媚薬で麻薬に近く服用を続ければ、廃人になっていたと報告を受けた。

我が侯爵領では見かけない南国の商人が取り扱う媚薬だという。

珍しい品なので、調べれば購入者も分かるだろうと言われて、背景を調べるように侯爵領の諜報員を遣わした。

 媚薬を盛った使用人に関しては、そのまま泳がせて媚薬を好きなだけ盛らせてやる事にした。

犯人や犯行が予め分かっていれば、恐ろしい事もなく黒幕と連絡を取るのを待てばいい。

その黒幕が身近にいるかもしれない場合には、なおさらだ。

媚薬と言うことは、一番怪しいのはアンリエッタ夫人か。

まだ結婚したばかりで、媚薬を使うとは、遺産目当てと言うことか。

「それにしても走書きのメモは誰が寄越したんだ?」

ブルークは独り言のように呟いてメモを机の引き出しにしまって鍵を掛けた。
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