1 / 16
1巻
1-1
しおりを挟む
第一章 迷い猫と誓いの指輪
(1)
波の音が聴こえる。
振り返ると、こんもりした島が黒い海に浮かんでいた。島のてっぺんには光る塔も見える。つまり、時間帯は夜だ。
ここはどこだろう。
湿った風が頬を掠めた。少し肌寒いが、半袖のTシャツを着ているということは、季節は夏、かもしれない。
そして、俺は、誰だ?
自転車を押して、海岸沿いを歩く俺は、誰なんだ。
どこからやってきて、どこに向かっているのだろう。何もかもさっぱり分からない。
なのに、いやに落ち着いていた。というよりこの心境は、やけくそ、に近いかもしれない。
どうにでもなれ――
なぜか俺の中には、目の前に広がる黒い海と同等かそれ以上の、暗く冷えた悲壮感が漂っていた。
それで、今さら慌てたところで仕方ないと、また歩き始めるのだ。
薄暗い道を、車のヘッドライトが照らす。遠くで踏切警報音が鳴っていた。
音のするほうへ進んでいくと、踏切が目に入る。ちょうど遮断機が上がるところだ。そして線路は一本だけ。
単線ということは、都市部ではないのだろうか。暗くてはっきりしないが、行く手は山に囲まれているようにも見える。
線路に沿って歩けば駅に着くかもしれない。しかし、見回したところそんな道はなかった。仕方なく、線路を越えて静かな住宅街をさらに進んでいった。ところが、複雑な小径は迷路のようで、すっかり迷子になる。
いや、迷子って……
最初から彷徨っていたんだし。
俺は妙な諦め方をして、さらに歩き続けた。
やがて、道路沿いに店が並ぶ大通りへと出る。中には営業中の店がいくつかあった。
古い銀行を思わせる建物から、オレンジ色の光が漏れる。客が出入りする際に開いたドアから中を覗くと、雰囲気のある店内と、カウンター席で談笑するカップルが見えた。
「おしゃれなバーだな」
気後れして、なんとなくやり過ごす。
それからどのくらい歩いたのだろう。かなりの距離を移動した気がするが、少しも疲れていなかった。すると、ふと見上げた先に、商店街のゲートを見つける。
「おんせい? 通り?」
看板には『御成通り』と書かれていた。
すでに商店街のシャッターは下りている。通りを歩く人もいない。
俺はゲートをくぐって進んだ。
「……あれ?」
通りに伸びる明かりを追って顔を上げれば、脇道があるのに気づく。さらに先を行くと、闇の中にぼんやりと一軒だけ営業している店があった。
妙だなと思いながら、店に近づく。木の看板には味のある文字で『おもひで堂』と記してあった。
「思い出?」
アンティークなガラスドアから中を覗くと、色のついた瓶や珍しい鉱物が所狭しと並んでいるのが見えた。それから、誰かの後ろ姿も。
「……あっ」
店の中でゆっくりと振り返ったのは、長い髪をひとつに縛った、美しい顔をした――男、だった。
まるで、アルフォンス・ミュシャのグラフィックデザインを観ているようだ。扉が開き、美しい男が顔を出す。
「鎌倉の夜は、夜らしい、でしょう?」
はじめまして、でも、いらっしゃい、でもなく、男はそう言った。
「夜らしい?」
意味が分からず、相手の言葉を復唱する。
「はい。静かで、暗くて、夜らしいでしょう?」
色んな思いが胸を巡ったが、もう口にはしなかった。
言葉はとても難しくて、不用意な一言が誰かの心を抉ることもある。この人を傷つけてはいけないと、咄嗟に思った。
そんな風に思うのは、俺自身が言葉によって傷ついたり、もしくは傷つけたりしたことがあるからなのかもしれない。
「どうぞ、中へ」
すべてを許し、包み込むような声に、心は穏やかになる。
店から漏れる光を浴びながら、まるでこの場所を目指してずっと歩き続けていたような、そんな、ちょっと高揚した気分になっていた。
§
六月初旬、そろそろ梅雨の入り口だが、その日は朝から眩しい太陽の光が店内に差し込んでいた。
裏駅(鎌倉駅西口)を出てすぐの、御成通りから少し入ったところに『おもひで堂』という雑貨店がある。御成通りは、観光客で溢れる小町通りより、少しばかり落ち着いた雰囲気の商店街だ。
建物をリノベーションした『おもひで堂』の外観は、鎌倉の街に溶け込むような雰囲気のいい古民家風である。しかし残念なことに、訪れる客は少ない。路地裏にあるせいだろうか。
「エイトさん、店番お願いしてもいいですか?」
店先から、長髪の美男子が憂い顔で見つめてくる。実際は憂えてなどいないのかもしれないが、ばさばさの長い睫毛で流し目をされると、そんな風に見えるのだ。
そして、エイト、というのは俺の名だ。
名付け親は彼である。この店にふらっと現れた時、ビリヤードの八番ボールがプリントされたTシャツを着ていたから、エイト……
そこではっと我に返る。
「えっ、俺、一人で、店番っ⁉」
カウンターの中にあるパイプ椅子から、俺は慌てて立ち上がった。
「…………」
彼は肯定も否定もせず、ただ無言で俺を見ている。
「わ、分かりました」
美男子の無言の圧はすごかった。俺はそっと椅子に腰を下ろし、店を出ていく彼の後ろ姿を見送る。ワイドサイズの白いTシャツに黒のスキニーを合わせたシンプルなスタイル。それだけで、モデルさながらのかっこよさだった。
「店長って……年いくつくらいだろう」
美男子は『おもひで堂』の店長で、名前は南雲景という。ツヤツヤの肌は産まれたての赤子のようであるし、落ち着き払った言動は老人のようでもある。一般人とは思えない麗しい顔の造作は、人間というより妖精に近い。
とりあえず常識の範囲内で予想するならば、二十代後半ぐらいが妥当だろう。
「それにしても……」
俺は店内を見渡した。
円柱、角柱、フラスコ、様々な形の瓶。砂糖菓子のような淡い色をした鉱物の標本。天井から下がるのは、繊細なカッティングが美しいガラスのランプ。ところどころ色が剥げた地球儀や錆びたジョウロもある。
趣はあるが、価値を見いだせない俺からすれば、どれもガラクタだ。南雲さんが、なんともしれない古道具や雑貨が溢れるこの店をやっている理由も謎だ。
「……はぁ」
カウンターテーブルに肘をのせ頬杖をついて考え事をしていると、なんだか眠たくなってきた。店は暇だしやることもない。だいたい、なんでここにいるのかも分からない。
「いつまで、こんなことやってなきゃならないんだろう」
俺はテーブルに突っ伏して、独りごちた。
「……俺こそ、いったい、何歳で、何者なんだよ」
一番の謎は、俺自身の正体だった。
三日前にふらっと『おもひで屋』に辿り着き、南雲さんに拾われ、バイトとして雇ってもらうことになった。
なぜなら、俺は、記憶喪失、だからだ。しかし、記憶が無いだけであとは至って健康体だ。働くこともできる。
警察には南雲さんに相談してもらったが、まだ手がかりはない。本来なら一時的であれ福祉施設等に入所するところ、南雲さんが身元引受人になってくれたおかげで、このように気楽に暮らしている。つまり、住まいや食事を提供してもらう代わりに、店番をしているというわけだ。
「それに、なんで……南雲さんは俺をここに置いてくれるんだろう」
南雲さんは「人手が足りないから」と言っていたが、たぶんでまかせだ。周りは行列店ばかりの観光地で、唯一流行ってないこの店に人手がいるとは思えなかった。
つまり、南雲さんはちょっと変わっているけれど、いい人だ。
口数は少ないし、無表情だけど、いい人だ……と思う。
見ず知らずの俺をここに置いてくれるんだから、いい人……だよな?
俺から何も聞き出そうとはしないし、急かすようなこともない。ただ、毎日美味しい食事を与えてくれ、あたたかな寝床を用意してくれる。
「そんないい人いるのかなぁ?」
別の狙いがあったりして……と多少不安になった。
ふと、棚にある古びた卓上ミラーに目が留まる。
立ち上がって覗き込んでみるが、鏡は曇っていて、顔がはっきりと映らない。髪が伸び放題でボサボサなのは、なんとなく分かった。ちゃんと顔は洗ったし歯磨きもした。その時、鏡を見たはずなのに記憶がない。俺は髪を撫で付けた。
「……顔はどうでもいいか」
俺はTシャツを捲って腹を見た。
「ほ、細ぇ……」
たいして筋肉も付いていない華奢な体に、魅力があるとも思えない。
もしかして好意を持たれているのでは、なんて、ちらっと考えてみたが、それこそ安易すぎる。
「そもそも、俺に興味なさそうだしな……」
日がな一日店の隅っこで読書にふける南雲さんの姿は、まるで世捨て人だ。
南雲さんの真の狙いも、結局見当は付かなかった。
「そうは言っても、いつまでも世話になるわけにもいかないよな」
俺はカウンターの上にあるノートパソコンを開いた。もちろん、自由に使っていいと言われている。
パーソナルデータが分からないだけで、一般常識から日常生活における一通りのことは頭に入っている。だから、ネットで検索するのだって当然できるわけだ。
「エイトボール、Tシャツ」
すぐさま、俺が着ていたものと同じTシャツが出てきた。ビリヤードのボールと一緒にプリントされていた、落書きのようなぐちゃぐちゃの文字が実はロゴで、十代に人気のブランドだと判明した。
「もしかして、俺、まだ十代なのか?」
もう一度、鏡を覗くが、やっぱり曇った鏡では分からない。
むしろ、学生だろうが社会人だろうが、今の俺には大差ない。
「考えるだけ無駄か……」
俺は一気にやる気を失い、カウンターに突っ伏した。開いた窓の向こうから、賑やかな声が聞こえ、少しだけ顔を上げる。前髪の隙間から見えるのは、楽しそうにはしゃぐ女子のグループだった。
ところが、まったく『おもひで堂』が目に入っていないのか、目的地まで一直線なのか、あっという間に通り過ぎていった。
「あーあ。暇だー」
俺と鎌倉、どういう関係があるのだろう。うとうとしながら思いを巡らす。
古都鎌倉といえば、源頼朝が幕府を開いた地であることや、鎌倉大仏などが思い浮かぶ。しかしそれらの知識は、中学校で学んだようなものばかりだ。
地元民ならではというような情報は、俺からは何ひとつ出てこなかった。
「なんで、鎌倉……なんだ……ろ」
いよいよ睡魔に負けて、瞼がくっつきそうになった時だった。
「みゃあ」
鳴き声に僅かに目を開けると、開いた窓の縁に黒猫が上っている。
「わっ、やべ……!」
そう思った時にはすでに遅く、ガラス瓶をなぎ倒しながら黒猫が店内に侵入してきてしまった。
床に着地した黒猫は、辺りに散乱したガラクタを見て驚いている様子だ。俺はそばまで行き、しゃがんで青いガラス瓶を拾い上げる。アンティークなデザインの瓶は分厚いガラスでできていたため、衝撃にも耐えてくれたようだ。
「おいおい、何やってんだよ。お前だって怪我するところだったんだぞ?」
黒猫は怯えているのか、金色の目を真ん丸にしていた。いや、よく見ると黒猫ではない。正確には黒白猫だ。ほぼ黒猫だが、お腹の部分だけ毛が白い。
首輪をしているので、飼い猫だろう。今どき珍しいけれど、放し飼いなのかもしれない。
「まぁ、不幸中の幸いってことだ。次から気をつければ良し」
俺は黒白猫を励ましてみたが、伝わったかどうかは分からない。
「お前、近所の猫?」
「みゃあ」
「……どっちだよ」
もしかしたら、黒白猫も迷子かもしれない。そう思うと親近感が湧いてきた。
そこで、思いがけずドアが開く。店長が戻ってきたのだろうと、ホッとして顔を上げた。
「……あっ」
「こんにちは。営業中ですか?」
見上げた先で、ウェーブした栗色の髪がふわりとなびいた。
鈴を転がすような声とはこういうのを言うのだろうか。
涼し気なミントグリーンのワンピースにサングラス、可愛らしくも大人っぽいコーディネートについ見惚れる。すると、艷やかなロングヘアの女性はそっとサングラスを外した。
俺は驚いて瞠目する。
女神、みたいだ。
「あの、営業中ですか?」
「は、はいっ……! 営業中です」
ここ二、三日で、南雲さんにやっと見慣れてきたところだったのに。あまりにも美しい女性を前に俺は狼狽えた。それにしてもこの世の中、美貌の持ち主が多すぎじゃないか。
「……私の顔に何か?」
「い、いいえ」
俺は何度も目を瞬かせた。見覚えがあるような気がするが、勘違いかもしれない。どこかで会っていたのなら、こんな美人を忘れるわけがないと思った。
「あの、ここ、『おもひで堂』ですよね? さっき人から聞いて。ここでなら、欲しいものが見つかるかもしれないって」
「えっ、そうなんですか?」
「……そう、だと、いいんですが」
女性は悲しそうに眉尻を下げた。まずいことになった気がして、焦ってしまう。
「え、ええと。俺、バイトで……今、店長が」
そこで再びドアが開き、タイミング良く紙袋を手にした南雲さんが現れた。黒白猫が、「みゃあ」と鳴いて、南雲さんの脚にまとわりつく。これで何とかなりそうだと、俺は胸を撫で下ろした。
「いらっしゃいませ」
南雲さんは紙袋を棚に置き、ふぅ、と息を吐いてから顔にかかった長い前髪を掻き上げた。
愛想はないが、美男子が接客しているというだけで神々しいのはなぜだろう。
「というわけで、今、店長が戻りました」
俺は、女性に説明しながら立ち上がる。どうやら女性も南雲さんのビジュアルに驚いているようだ。
「……あの」
「思い出をお探しですか?」
戸惑う女性に向かって、涼しい顔で南雲さんは言った。
思い出を探しているか、だって?
普通に、雑貨を買いに来たんじゃないのか?
とんでもないイケメンが、とんでもないことを言い出したのを、俺はハラハラしながら見守る。
「はい。別れた恋人との思い出を探しています」
しかし女性は真面目な声で返した。
「どうか……どうか、彼からもらうはずだった大事な指輪を売ってください」
彼女は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
「では、少しお話を伺えますか?」
折りたたみのスツールを取り出し、そこに座るよう南雲さんは女性にすすめた。どうやらこの場で、買い物客と店員の面談が始まるようだ。
俺はカウンターの中に戻り、ここから二人の様子を窺うことにする。
「何から話せばいいでしょうか?」
女性がスツールに腰を下ろした。
「お名前と年齢、職業などを教えてください」
南雲さんは淡々と質問する。
まるで事情聴取だ。買い物客に訊くようなことだろうかと、俺は首をひねる。
「神林レイ、二十五歳です。職業は……今は、無職です」
「では、神林様が欲しい商品について、もう一度詳しく聞かせてください」
南雲さんはメモを取るでもなく、レイさんと向き合って座り、悠々と脚を組んでいた。まったくもって、接客業だとは思えない態度だ。
「おつきあいしていた彼から誕生日に指輪をプレゼントしてもらうはずでした。オーダーメイドの一点ものです。だけど、事情があっていただく前にお別れすることになりました。でも私、まだ彼のことを思ってます。もう元には戻れませんけど、せめて、指輪だけでも持っていたくて」
……ええっ?
思わず声が漏れそうになり、俺は慌てて両手で口を押さえた。
別れた恋人がくれるはずだった指輪が欲しい?
それを買いにここへ?
突っ込みどころが多すぎて、頭が混乱し始める。
そんなものここに売っているわけな……
(1)
波の音が聴こえる。
振り返ると、こんもりした島が黒い海に浮かんでいた。島のてっぺんには光る塔も見える。つまり、時間帯は夜だ。
ここはどこだろう。
湿った風が頬を掠めた。少し肌寒いが、半袖のTシャツを着ているということは、季節は夏、かもしれない。
そして、俺は、誰だ?
自転車を押して、海岸沿いを歩く俺は、誰なんだ。
どこからやってきて、どこに向かっているのだろう。何もかもさっぱり分からない。
なのに、いやに落ち着いていた。というよりこの心境は、やけくそ、に近いかもしれない。
どうにでもなれ――
なぜか俺の中には、目の前に広がる黒い海と同等かそれ以上の、暗く冷えた悲壮感が漂っていた。
それで、今さら慌てたところで仕方ないと、また歩き始めるのだ。
薄暗い道を、車のヘッドライトが照らす。遠くで踏切警報音が鳴っていた。
音のするほうへ進んでいくと、踏切が目に入る。ちょうど遮断機が上がるところだ。そして線路は一本だけ。
単線ということは、都市部ではないのだろうか。暗くてはっきりしないが、行く手は山に囲まれているようにも見える。
線路に沿って歩けば駅に着くかもしれない。しかし、見回したところそんな道はなかった。仕方なく、線路を越えて静かな住宅街をさらに進んでいった。ところが、複雑な小径は迷路のようで、すっかり迷子になる。
いや、迷子って……
最初から彷徨っていたんだし。
俺は妙な諦め方をして、さらに歩き続けた。
やがて、道路沿いに店が並ぶ大通りへと出る。中には営業中の店がいくつかあった。
古い銀行を思わせる建物から、オレンジ色の光が漏れる。客が出入りする際に開いたドアから中を覗くと、雰囲気のある店内と、カウンター席で談笑するカップルが見えた。
「おしゃれなバーだな」
気後れして、なんとなくやり過ごす。
それからどのくらい歩いたのだろう。かなりの距離を移動した気がするが、少しも疲れていなかった。すると、ふと見上げた先に、商店街のゲートを見つける。
「おんせい? 通り?」
看板には『御成通り』と書かれていた。
すでに商店街のシャッターは下りている。通りを歩く人もいない。
俺はゲートをくぐって進んだ。
「……あれ?」
通りに伸びる明かりを追って顔を上げれば、脇道があるのに気づく。さらに先を行くと、闇の中にぼんやりと一軒だけ営業している店があった。
妙だなと思いながら、店に近づく。木の看板には味のある文字で『おもひで堂』と記してあった。
「思い出?」
アンティークなガラスドアから中を覗くと、色のついた瓶や珍しい鉱物が所狭しと並んでいるのが見えた。それから、誰かの後ろ姿も。
「……あっ」
店の中でゆっくりと振り返ったのは、長い髪をひとつに縛った、美しい顔をした――男、だった。
まるで、アルフォンス・ミュシャのグラフィックデザインを観ているようだ。扉が開き、美しい男が顔を出す。
「鎌倉の夜は、夜らしい、でしょう?」
はじめまして、でも、いらっしゃい、でもなく、男はそう言った。
「夜らしい?」
意味が分からず、相手の言葉を復唱する。
「はい。静かで、暗くて、夜らしいでしょう?」
色んな思いが胸を巡ったが、もう口にはしなかった。
言葉はとても難しくて、不用意な一言が誰かの心を抉ることもある。この人を傷つけてはいけないと、咄嗟に思った。
そんな風に思うのは、俺自身が言葉によって傷ついたり、もしくは傷つけたりしたことがあるからなのかもしれない。
「どうぞ、中へ」
すべてを許し、包み込むような声に、心は穏やかになる。
店から漏れる光を浴びながら、まるでこの場所を目指してずっと歩き続けていたような、そんな、ちょっと高揚した気分になっていた。
§
六月初旬、そろそろ梅雨の入り口だが、その日は朝から眩しい太陽の光が店内に差し込んでいた。
裏駅(鎌倉駅西口)を出てすぐの、御成通りから少し入ったところに『おもひで堂』という雑貨店がある。御成通りは、観光客で溢れる小町通りより、少しばかり落ち着いた雰囲気の商店街だ。
建物をリノベーションした『おもひで堂』の外観は、鎌倉の街に溶け込むような雰囲気のいい古民家風である。しかし残念なことに、訪れる客は少ない。路地裏にあるせいだろうか。
「エイトさん、店番お願いしてもいいですか?」
店先から、長髪の美男子が憂い顔で見つめてくる。実際は憂えてなどいないのかもしれないが、ばさばさの長い睫毛で流し目をされると、そんな風に見えるのだ。
そして、エイト、というのは俺の名だ。
名付け親は彼である。この店にふらっと現れた時、ビリヤードの八番ボールがプリントされたTシャツを着ていたから、エイト……
そこではっと我に返る。
「えっ、俺、一人で、店番っ⁉」
カウンターの中にあるパイプ椅子から、俺は慌てて立ち上がった。
「…………」
彼は肯定も否定もせず、ただ無言で俺を見ている。
「わ、分かりました」
美男子の無言の圧はすごかった。俺はそっと椅子に腰を下ろし、店を出ていく彼の後ろ姿を見送る。ワイドサイズの白いTシャツに黒のスキニーを合わせたシンプルなスタイル。それだけで、モデルさながらのかっこよさだった。
「店長って……年いくつくらいだろう」
美男子は『おもひで堂』の店長で、名前は南雲景という。ツヤツヤの肌は産まれたての赤子のようであるし、落ち着き払った言動は老人のようでもある。一般人とは思えない麗しい顔の造作は、人間というより妖精に近い。
とりあえず常識の範囲内で予想するならば、二十代後半ぐらいが妥当だろう。
「それにしても……」
俺は店内を見渡した。
円柱、角柱、フラスコ、様々な形の瓶。砂糖菓子のような淡い色をした鉱物の標本。天井から下がるのは、繊細なカッティングが美しいガラスのランプ。ところどころ色が剥げた地球儀や錆びたジョウロもある。
趣はあるが、価値を見いだせない俺からすれば、どれもガラクタだ。南雲さんが、なんともしれない古道具や雑貨が溢れるこの店をやっている理由も謎だ。
「……はぁ」
カウンターテーブルに肘をのせ頬杖をついて考え事をしていると、なんだか眠たくなってきた。店は暇だしやることもない。だいたい、なんでここにいるのかも分からない。
「いつまで、こんなことやってなきゃならないんだろう」
俺はテーブルに突っ伏して、独りごちた。
「……俺こそ、いったい、何歳で、何者なんだよ」
一番の謎は、俺自身の正体だった。
三日前にふらっと『おもひで屋』に辿り着き、南雲さんに拾われ、バイトとして雇ってもらうことになった。
なぜなら、俺は、記憶喪失、だからだ。しかし、記憶が無いだけであとは至って健康体だ。働くこともできる。
警察には南雲さんに相談してもらったが、まだ手がかりはない。本来なら一時的であれ福祉施設等に入所するところ、南雲さんが身元引受人になってくれたおかげで、このように気楽に暮らしている。つまり、住まいや食事を提供してもらう代わりに、店番をしているというわけだ。
「それに、なんで……南雲さんは俺をここに置いてくれるんだろう」
南雲さんは「人手が足りないから」と言っていたが、たぶんでまかせだ。周りは行列店ばかりの観光地で、唯一流行ってないこの店に人手がいるとは思えなかった。
つまり、南雲さんはちょっと変わっているけれど、いい人だ。
口数は少ないし、無表情だけど、いい人だ……と思う。
見ず知らずの俺をここに置いてくれるんだから、いい人……だよな?
俺から何も聞き出そうとはしないし、急かすようなこともない。ただ、毎日美味しい食事を与えてくれ、あたたかな寝床を用意してくれる。
「そんないい人いるのかなぁ?」
別の狙いがあったりして……と多少不安になった。
ふと、棚にある古びた卓上ミラーに目が留まる。
立ち上がって覗き込んでみるが、鏡は曇っていて、顔がはっきりと映らない。髪が伸び放題でボサボサなのは、なんとなく分かった。ちゃんと顔は洗ったし歯磨きもした。その時、鏡を見たはずなのに記憶がない。俺は髪を撫で付けた。
「……顔はどうでもいいか」
俺はTシャツを捲って腹を見た。
「ほ、細ぇ……」
たいして筋肉も付いていない華奢な体に、魅力があるとも思えない。
もしかして好意を持たれているのでは、なんて、ちらっと考えてみたが、それこそ安易すぎる。
「そもそも、俺に興味なさそうだしな……」
日がな一日店の隅っこで読書にふける南雲さんの姿は、まるで世捨て人だ。
南雲さんの真の狙いも、結局見当は付かなかった。
「そうは言っても、いつまでも世話になるわけにもいかないよな」
俺はカウンターの上にあるノートパソコンを開いた。もちろん、自由に使っていいと言われている。
パーソナルデータが分からないだけで、一般常識から日常生活における一通りのことは頭に入っている。だから、ネットで検索するのだって当然できるわけだ。
「エイトボール、Tシャツ」
すぐさま、俺が着ていたものと同じTシャツが出てきた。ビリヤードのボールと一緒にプリントされていた、落書きのようなぐちゃぐちゃの文字が実はロゴで、十代に人気のブランドだと判明した。
「もしかして、俺、まだ十代なのか?」
もう一度、鏡を覗くが、やっぱり曇った鏡では分からない。
むしろ、学生だろうが社会人だろうが、今の俺には大差ない。
「考えるだけ無駄か……」
俺は一気にやる気を失い、カウンターに突っ伏した。開いた窓の向こうから、賑やかな声が聞こえ、少しだけ顔を上げる。前髪の隙間から見えるのは、楽しそうにはしゃぐ女子のグループだった。
ところが、まったく『おもひで堂』が目に入っていないのか、目的地まで一直線なのか、あっという間に通り過ぎていった。
「あーあ。暇だー」
俺と鎌倉、どういう関係があるのだろう。うとうとしながら思いを巡らす。
古都鎌倉といえば、源頼朝が幕府を開いた地であることや、鎌倉大仏などが思い浮かぶ。しかしそれらの知識は、中学校で学んだようなものばかりだ。
地元民ならではというような情報は、俺からは何ひとつ出てこなかった。
「なんで、鎌倉……なんだ……ろ」
いよいよ睡魔に負けて、瞼がくっつきそうになった時だった。
「みゃあ」
鳴き声に僅かに目を開けると、開いた窓の縁に黒猫が上っている。
「わっ、やべ……!」
そう思った時にはすでに遅く、ガラス瓶をなぎ倒しながら黒猫が店内に侵入してきてしまった。
床に着地した黒猫は、辺りに散乱したガラクタを見て驚いている様子だ。俺はそばまで行き、しゃがんで青いガラス瓶を拾い上げる。アンティークなデザインの瓶は分厚いガラスでできていたため、衝撃にも耐えてくれたようだ。
「おいおい、何やってんだよ。お前だって怪我するところだったんだぞ?」
黒猫は怯えているのか、金色の目を真ん丸にしていた。いや、よく見ると黒猫ではない。正確には黒白猫だ。ほぼ黒猫だが、お腹の部分だけ毛が白い。
首輪をしているので、飼い猫だろう。今どき珍しいけれど、放し飼いなのかもしれない。
「まぁ、不幸中の幸いってことだ。次から気をつければ良し」
俺は黒白猫を励ましてみたが、伝わったかどうかは分からない。
「お前、近所の猫?」
「みゃあ」
「……どっちだよ」
もしかしたら、黒白猫も迷子かもしれない。そう思うと親近感が湧いてきた。
そこで、思いがけずドアが開く。店長が戻ってきたのだろうと、ホッとして顔を上げた。
「……あっ」
「こんにちは。営業中ですか?」
見上げた先で、ウェーブした栗色の髪がふわりとなびいた。
鈴を転がすような声とはこういうのを言うのだろうか。
涼し気なミントグリーンのワンピースにサングラス、可愛らしくも大人っぽいコーディネートについ見惚れる。すると、艷やかなロングヘアの女性はそっとサングラスを外した。
俺は驚いて瞠目する。
女神、みたいだ。
「あの、営業中ですか?」
「は、はいっ……! 営業中です」
ここ二、三日で、南雲さんにやっと見慣れてきたところだったのに。あまりにも美しい女性を前に俺は狼狽えた。それにしてもこの世の中、美貌の持ち主が多すぎじゃないか。
「……私の顔に何か?」
「い、いいえ」
俺は何度も目を瞬かせた。見覚えがあるような気がするが、勘違いかもしれない。どこかで会っていたのなら、こんな美人を忘れるわけがないと思った。
「あの、ここ、『おもひで堂』ですよね? さっき人から聞いて。ここでなら、欲しいものが見つかるかもしれないって」
「えっ、そうなんですか?」
「……そう、だと、いいんですが」
女性は悲しそうに眉尻を下げた。まずいことになった気がして、焦ってしまう。
「え、ええと。俺、バイトで……今、店長が」
そこで再びドアが開き、タイミング良く紙袋を手にした南雲さんが現れた。黒白猫が、「みゃあ」と鳴いて、南雲さんの脚にまとわりつく。これで何とかなりそうだと、俺は胸を撫で下ろした。
「いらっしゃいませ」
南雲さんは紙袋を棚に置き、ふぅ、と息を吐いてから顔にかかった長い前髪を掻き上げた。
愛想はないが、美男子が接客しているというだけで神々しいのはなぜだろう。
「というわけで、今、店長が戻りました」
俺は、女性に説明しながら立ち上がる。どうやら女性も南雲さんのビジュアルに驚いているようだ。
「……あの」
「思い出をお探しですか?」
戸惑う女性に向かって、涼しい顔で南雲さんは言った。
思い出を探しているか、だって?
普通に、雑貨を買いに来たんじゃないのか?
とんでもないイケメンが、とんでもないことを言い出したのを、俺はハラハラしながら見守る。
「はい。別れた恋人との思い出を探しています」
しかし女性は真面目な声で返した。
「どうか……どうか、彼からもらうはずだった大事な指輪を売ってください」
彼女は今にも泣き出しそうな顔でそう言った。
「では、少しお話を伺えますか?」
折りたたみのスツールを取り出し、そこに座るよう南雲さんは女性にすすめた。どうやらこの場で、買い物客と店員の面談が始まるようだ。
俺はカウンターの中に戻り、ここから二人の様子を窺うことにする。
「何から話せばいいでしょうか?」
女性がスツールに腰を下ろした。
「お名前と年齢、職業などを教えてください」
南雲さんは淡々と質問する。
まるで事情聴取だ。買い物客に訊くようなことだろうかと、俺は首をひねる。
「神林レイ、二十五歳です。職業は……今は、無職です」
「では、神林様が欲しい商品について、もう一度詳しく聞かせてください」
南雲さんはメモを取るでもなく、レイさんと向き合って座り、悠々と脚を組んでいた。まったくもって、接客業だとは思えない態度だ。
「おつきあいしていた彼から誕生日に指輪をプレゼントしてもらうはずでした。オーダーメイドの一点ものです。だけど、事情があっていただく前にお別れすることになりました。でも私、まだ彼のことを思ってます。もう元には戻れませんけど、せめて、指輪だけでも持っていたくて」
……ええっ?
思わず声が漏れそうになり、俺は慌てて両手で口を押さえた。
別れた恋人がくれるはずだった指輪が欲しい?
それを買いにここへ?
突っ込みどころが多すぎて、頭が混乱し始める。
そんなものここに売っているわけな……
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜
放浪人
恋愛
「処刑されるなんて真っ平ごめんです!」 無実の罪で投獄された悪役令嬢レティシア(中身は元社畜のアラサー日本人)は、処刑前夜、お腹の子供と共に脱獄し、辺境の田舎村へ逃亡した。 それから五年。薬師として穏やかに暮らしていた彼女のもとに、かつて自分を冷遇し、処刑を命じた夫――「氷の公爵」アレクセイが現れる。 殺される!と震えるレティシアだったが、再会した彼は地面に頭を擦り付け、まさかの溺愛キャラに豹変していて!?
「愛しているレティシア! 二度と離さない!」 「(顔が怖いです公爵様……!)」
不器用すぎて顔が怖い旦那様の暴走する溺愛。 そして、二人の息子であるシオン(1歳)は、実は前世で魔王を倒した「英雄」の生まれ変わりだった! 「パパとママは僕が守る(物理)」 最強の赤ちゃんが裏で暗躍し、聖女(自称)の陰謀も、帝国の侵略も、古代兵器も、ガラガラ一振りで粉砕していく。
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。