古都鎌倉おもひで雑貨店

深月香

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1巻

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  (3)

 細くて華奢なゴールドのリングを三つ重ね付けするのはおしゃれだし、先端にパールが付いたオープンリングは個性的だ。
 しかし、レイさんならば、一粒ダイヤが輝く、上品な指輪を選ぶのではないだろうか。アクセサリーコーナーの前に立つ彼女を、俺はじっと見守っていた。

「わあっ、これです。どうして……でも、良かった」

 レイさんは両手で口元を隠しながら、感嘆の声を上げた。

「どうぞ手にとってお確かめください」

 南雲さんが促すと、レイさんは目当ての指輪を手にとった。

「えっ……! それ?」

 俺は思わず、カウンターの中で叫んだ。
 レイさんは、はにかみながら「はい」と答えると、大事そうに指輪を撫でる。
 俺の予想は大いに外れ、レイさんは一番シンプルな指輪を手にしていた。それは、アルファベットの「S」がデザインされただけの、特に特徴のないリングだった。
 意外だけど、レイさんと元カレの趣味で選んだものならば仕方ない。勝手に納得する俺だった。

「指にめてみませんか?」

 南雲さんの言葉に、レイさんは静かに頷いた。それから、薬指に指輪を嵌め、顔の前にかざして嬉しそうに微笑む。

「サイズもぴったり。この指輪を付けられる日が来るなんて、夢みたい。彼と一緒にデザインを決めてオーダーしたんです」

 まさか、わざわざ南雲さんが再オーダーしたとか?
 この短期間でそんなにうまく話がまとまるとは思えない。何か裏がありそうだ。
 しかし今は、そんなことよりレイさんが心配だ。俺は指輪の件がどうしても腑に落ちなかった。
 レイさんの恋する表情は、どんなアクセサリーよりピカピカと輝く。元カレのことが本当に好きだったのだろう。俺はどんどん複雑な心境になっていった。

「南雲さん、ありがとうございます。肌身離さず大切にします」

 別れた恋人との思い出を、そこまで大事にする必要はあるのだろうか。
 むしろ、忘れたほうが建設的じゃないだろうか。

「やめたほうがいいんじゃ……」

 そこで、うっかり口を滑らせてしまった。間違いなく、レイさんに聞こえてしまっただろう。それでも、考え直してくれるほうがきっといい。俺は口を引き結んだ。
 もう、傷ついてほしくないから――

「エイトさん」

 南雲さんは、たしなめるように俺を見る。やはり、雑貨屋の店員が口出しするようなことではなかったのか。

「そうですね……私が思いを残したら、迷惑かもしれない……」

 レイさんの顔がみるみるうちに曇り、余計なことを言ってしまったと少し後悔する。言葉はやはり難しい。どうにか挽回ばんかいしようと、俺は思考を巡らせた。

「ええと、その……よりを戻すことはできないんですか?」

 視界の端には、こめかみを押さえる南雲さん。言葉を発した瞬間に、誰よりも俺が失言だったと理解した。焦れば焦るほど、背中に嫌な汗を感じる。
 一度口にしたことは取り消せないというのに、なんてことを言ってしまったのだ。よりを戻せなんて、傷口に塩を塗るようなものだろう。
 思いが先走って空回りしてしまうのは、俺の悪い癖だ。
 悪い癖……?
 やはり、前にもそんなことがあったのだろうか?
 かすみがかかった記憶を探りながら、俺は目を細める。
 似た失敗をいつもしているような気がするが、具体的なシーンは思い出せず、焦燥感に駆られた。

「もう、元には戻れないんです」

 その台詞に、俺は目を見開く。悲しそうなレイさんの顔が目に入り、俺はますます慌てた。

「す、すみません、俺……」
「あの、少しだけお話を聞いていただけませんか?」

 するとレイさんが、俺に向かって柔らかく笑った。

「俺なんかで良かったら、いくらでも聞きます。愚痴ぐちでもなんでもぶっちゃけてください。レイさんみたいな綺麗な人を振るなんて、信じられません!」

 テンパる俺を見て、レイさんは「ありがとう」とまた笑った。大袈裟おおげさかもしれない。だけど、本音だった。

「別れることになってしまったけど、彼のおかげで私の人生は素晴らしいものになりました。仕事がうまくいかず苦しかった時、悩みを打ち明けることのできる唯一の相手でした。どんな時も私を励まし、支えてくれたのが彼です。彼がいなかったら、私は責任を放棄して、大切な人たちの前から逃げ出していたかもしれない。そんなことしていたら、ひどく後悔して、今ここに立っていることもできなかったはず。こうして、すっきりとした気持ちでいられるのは、彼のおかげです。心から、彼と出会えたことに感謝しています。ほんの少しの時間だったけれど、幸せでした。できることなら、私という存在が消えてなくなるまで、彼を好きなままでいたいんです。でも、我儘わがままかもしれませんね……。彼のためにも未練なんて抱いてはいけないのに」
「未練……?」

 俺は、それとは違うと直感した。
 未練と聞くとマイナスなイメージが先立ってしまうけど、レイさんの思いはもっと浄化されているような気がしたからだ。
 話を聞いていると、俺まで胸がぎゅっとして切なくなる。
 それはただ、純粋に過去の恋人を思っているだけの、ひそやかでいて、あたたかい心だった。別れたあとも相手のことを大事に思うレイさんの生き方が、俺の胸に刺さったのだ。
 レイさんを応援できるような、意味のある言葉はないだろうか。
 しかし、どんなに考えたところで思いつかない。俺の頭の中は、やっぱりがらんどうになってしまったのかもしれない。

「未練ではありませんよ。神林様が手にしているのは、思い出です」

 南雲さんが穏やかに言った。

曖昧あいまいで迷いやすいものですが、未練と思い出は別ですよ。未練を残して次に進むのは難しいけれど、思い出は先に行くためのかてとなります」

 ああ、それだ、と俺は深く頷く。
 思い出とはそういうものだった。疲れた時にそっと寄り添ってくれたり、勇気が持てない自分の背中を押してくれたり。心の中に持っているだけで、明日を生きる力をくれるものだったはずだ。

「私、この指輪を持っていていいんですね……」
「もちろんです。これは、神林様の思い出ですから」

 南雲さんの言葉に、レイさんもホッとしたような顔になる。
 良かった。レイさんの手元に思い出が戻って良かった。いつしか、自分のことのように嬉しくなっているのに気づく。
 思い出は、他人のものだったとしても、触れると優しい気持ちになれるものだ。
 レイさんの指輪はシンプルだけど、どの指輪よりもきらめいているように見えた。きっと、思い出が詰まっているからに違いない。

「おいくらですか?」

 それから、レイさんは指輪を嵌めたままお会計を済ませると、南雲さんと俺に軽く会釈えしゃくした。

「お世話になりました」

 とても清々すがすがしい表情だ。眩しくて、レイさんから目が離せなくなる。

「あ、あの」

 それでつい、店を出ていこうとするレイさんを、俺は引き止めてしまった。それに、問いたいこともあったのだ。

「思い出って、やっぱり、いいものですよね?」

 口にした途端、恥ずかしくなる。

「……って、何言ってんだよ。すみません。またお店に来てくださいね」

 笑ってごまかそうとするが、レイさんも南雲さんも怪しむような表情になった。

「いや、その……」

 記憶を失ってしまった俺だけど、思い出という概念だけは覚えていたということが分かった。だけど、確信が欲しかったのかもしれない。記憶を取り戻すことを恐れる必要はないのだと。
 そこでレイさんが言った。

「はい。思い出はいいものです。良い思い出はもちろん、悪い思い出の中にも時が経てば印象が変わるものがあるから、思い出って不思議ですよね。仕事を辞めたいと悩んだ日々さえ、懐かしいと思えます」
「そんなもんなんですね……」
「すべて消してしまいたいと考えた時もあったけど、思い出がなんにもないのは、寂しいですよね。生きているから今が思い出になる。誰にでも思い出はあると信じています。きっとあなたにも」

 レイさんがふわりと微笑む。

「あの、余計なことかもしれませんが、前髪、切ったほうがいいですよ」
「は、はい。そうっすね。ははは」

 俺は髪を掻きむしった。

「とても綺麗な目をしているから」

 レイさんの言葉に照れくさくなる。

「それじゃ、私はそろそろ。最後に御礼を言わせてください。思い出が見つかって良かった。お二人に会えて良かった。本当に、ありがとうございました」

 名残惜なごりおしいとは、こういう気持ちのことだろう。俺はいつまでもレイさんを見ていたいと思った。だけど、それは叶わない。きっと、もうお別れだ。ただの客と店員なのだから。俺は覚悟して、そっとレイさんの背中を見送る。
 さよなら、レイさん。
 静かに『おもひで堂』の扉が目の前で閉じられた。やがて、乱反射した夏の強い日差しがガラスを突き抜けてくる。眩しさに思わず目を細めた。
 きっと、誰にでも思い出はある。
 思い出が見つかって良かった。
 レイさんの心からの思いは、じわりと俺の心にも染み入っていった。


 現金かもしれないが、レイさんを見送ったあとは、お楽しみのランチが待っていた。腹が減ってはいくさができぬ、である。
 ちょっと殺風景だが居心地のよい二階のダイニングには、海の匂いが漂っている。俺はわくわくしながら、テーブルについた。

「今日もウマそうですね」

 木製のプレートに盛られているのは、おにぎり、卵焼き、温野菜。それから、味噌汁も付いている。

「直売所で買った釜揚かまあげしらすでおにぎりを作りました」

 南雲さんはデニムのエプロンを外し、壁のフックに掛けた。

「直売所?」
「長谷駅の近くにある直売所ですよ」

 先日、長谷寺に出かけた時に購入したのかもしれない。その時の情景を思い出そうとしていると、途中でお腹が鳴ってしまった。美味しそうな食事を前に、空腹の限界だ。

「食べましょう。いただきます」

 南雲さんは手を合わせた。

「いただきます」

 俺も手を合わせる。
 しらすのおにぎりは初めてだ。プレートには、おにぎりがふたつ載っている。

「しらす、大葉おおば、ごまを混ぜたものと、しらす、チーズ、めんつゆを混ぜたもの、おにぎりは二種類の味にしました」
「いつもありがとうございます」
「いいえ。どうぞし上がってください」

 恐縮しつつも、俺はおにぎりに手を伸ばす。
 鮮やかな緑と香りにつられ、まずは大葉としらすのおにぎりを口にした。ごはんには、しらすの塩気だけでしっかりと味がついている。大葉とごまのアクセントも絶妙だ。ぺろりと一個をたいらげてしまった。

「この組み合わせ、最強っすね!」
「そうですね」

 嬉々とする俺に対し、南雲さんは相変わらずクールだった。はしゃぎすぎたかなと少々反省しながら、俺は二個めのおにぎりに手を伸ばす。
 しらすとチーズのおにぎりは、意外にも相性あいしょうが良い組み合わせだった。めんつゆがふたつの素材をうまく繋いでおり、濃厚な味わいに満足感が得られるところもいい。

「こっちも、ウマいです」
「エイトさんはなんでも美味しそうに食べるんですね。作りがいがあります」

 やっぱり無表情ではあるけれど、南雲さんも喜んでいるような気がする。
 そして、待望の卵焼きは懐かしい甘めの味付けだった。
 懐かしい……?
 記憶のない俺にでも、懐かしむものなんてあるのだろうか。
 続いて、カラフルな温野菜へとはしは向かう。大根、人参にんじん、ズッキーニ、オクラ。それから……。断面が赤と白の渦巻きになった野菜の名前が分からない。
 箸で持ち上げ、食い入るように見つめる。

「渦巻きビーツという野菜です。輪切りにすると、同心円状に赤い輪があります。ビーツは赤カブに似ていますが別物のようです」
「ビーツ……なんか、おしゃれな食いもんですね」

 俺は恐る恐る渦巻き模様の野菜を口にする。

「……やわらかくて甘い」

 野菜の自然な甘みが口いっぱいに広がった。

「どれも、レンバイの鎌倉野菜です」
「レンバイ?」
「鎌倉市農協連即売所のうきょうれんそくばいじょの愛称で、近くにある農作物直売所のことです。色んな野菜が袋詰めになったものを買ったので、お得でした」

 南雲さんは味噌汁を飲んで、ふぅ、と満足そうに息を吐いた。

「いい香りですね」

 味噌汁のわんを手に取ると、ふわっといその香りが鼻腔びこうに届く。ねぎとあおさの素朴そぼくな味噌汁。とろりとしたあおさがとにかく美味しい。
 非常に、幸せだ。
 このままずっと、鎌倉で、南雲さんにお世話されていたい。
 南雲さんみたいな、お嫁さんが欲しい……かも?
 そこで、ちょっと笑ってしまった。

「どうしたんですか?」

 南雲さんが怪訝けげんな顔をする。

「いいえ。なんでもありません」

 俺は味噌汁を飲み干して、顔をほころばせた。

「そういえば……今日は、猫、見ませんね」

 少し寂しそうに南雲さんが言った。

「あいつ、神出鬼没しんしゅつきぼつだからなぁ」

 南雲さんに撫でられて、餌をもらい、いつの間にかいなくなる。そして気づけば、店の中で遊んでいる。扉や窓が閉まっていても、どこからか自由に出入りしているようだ。店の中に潜んでいるのだろうか。黒白猫は隠れるのが好きなのかもしれない。

「あの猫、なんて名前だろう。南雲さんにすっかりなついてますよね」

 俺が言うと、南雲さんの眉毛がぴくりと動いた。

「そうですね。慣れています」

 しかしすぐになんでもないことのように、南雲さんはお茶の入ったマグカップを手にする。
 慣れている?
 猫になつかれやすいのか?
 何匹もの猫に囲まれて憂えている南雲さんを想像して、俺はまた少し笑った。
 しかも、猫だけじゃない。俺も、すっかり南雲さんになついている。
 やっぱり、南雲さんはいい人だと、俺はつくづく思うのだ。


 一階の店に戻り、扉にかかった札をくるっと回転して『OPEN』に戻す。午後から、お客様が来てくれればいいけれど。
 通りの観光客はいつものように通り過ぎていくだけだ。

「だろうなぁ……」

 暇なので、店内の掃除をすることにした。箒で床を掃いていると、これまで見たことのなかった商品に気づく。
 また仕入れたのだろうか。
 あまり売れていないのに。
 年季ねんきの入った陶器とうきつぼは、もしかしたら価値があるものかもしれない。割らないように気をつけながら、床に並んだ大小の壺の間をうように箒で掃いた。

「お前、こんなところにいたのか!」

 壺の横に置かれた器のようなものの中で、黒白猫が丸まっていた。どっしりとしたエメラルドグリーンの丸い器に、すっぽりとはまりこんでいる。

「それ、売り物だから、傷つけないでくれよ……」

 俺は箒を置いて腰をかがめ、黒白猫を覗き込んだ。

「……うわ!」

 器の表面にはすでにひびが入り、一部が欠けていた。そこで階段を下りてくる足音が聞こえる。まずいことになった、と俺は腕組みをして考え込んだ。
 ゆっくりと振り返れば、南雲さんと目が合う。

「猫、ここにいました。でも、ひびが……。どうしましょう?」

 南雲さんを手招きする。

「ああ、盆栽鉢ぼんさいばち……」

 そばまでやってきて、南雲さんは言った。

「盆栽の?」
「はい。盆栽用の釉薬うわぐすり鉢ですね」
「ひびが入っているんですけど」

 俺はひびの部分を指差した。

「構いませんよ。猫の思い出の品かもしれませんしね」

 猫の思い出の品?
 この猫も、レイさんみたいに、思い出を探しに来たのか?
 南雲さんは時々おかしなことを言うが、俺も慣れてきたようだ。

「でも、猫はお金持ってないし、品物を買えませんね?」

 さらっと軽い口調で返す。さすがに猫は『おもひで堂』のお客様ではないだろう。

「払える人が払うので大丈夫です。たとえば、この猫の飼い主とか」
「は、はぁ? まさか本当に、この猫に、盆栽鉢を売るつもりですか?」
「もちろん」

 当然とばかりに、南雲さんは頷いた。
 マジか――。やっぱり理解不能だ!
 そんな俺たちのやりとりなんかお構いなしに、黒白猫は盆栽鉢の中ですやすやと眠っている。白いお腹が膨らんだりしぼんだり、とても気持ち良さそうで、ながめていると俺まで眠たくなってしまうのだった。


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