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1巻
1-3
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(3)
細くて華奢なゴールドのリングを三つ重ね付けするのはおしゃれだし、先端にパールが付いたオープンリングは個性的だ。
しかし、レイさんならば、一粒ダイヤが輝く、上品な指輪を選ぶのではないだろうか。アクセサリーコーナーの前に立つ彼女を、俺はじっと見守っていた。
「わあっ、これです。どうして……でも、良かった」
レイさんは両手で口元を隠しながら、感嘆の声を上げた。
「どうぞ手にとってお確かめください」
南雲さんが促すと、レイさんは目当ての指輪を手にとった。
「えっ……! それ?」
俺は思わず、カウンターの中で叫んだ。
レイさんは、はにかみながら「はい」と答えると、大事そうに指輪を撫でる。
俺の予想は大いに外れ、レイさんは一番シンプルな指輪を手にしていた。それは、アルファベットの「S」がデザインされただけの、特に特徴のないリングだった。
意外だけど、レイさんと元カレの趣味で選んだものならば仕方ない。勝手に納得する俺だった。
「指に嵌めてみませんか?」
南雲さんの言葉に、レイさんは静かに頷いた。それから、薬指に指輪を嵌め、顔の前にかざして嬉しそうに微笑む。
「サイズもぴったり。この指輪を付けられる日が来るなんて、夢みたい。彼と一緒にデザインを決めてオーダーしたんです」
まさか、わざわざ南雲さんが再オーダーしたとか?
この短期間でそんなにうまく話がまとまるとは思えない。何か裏がありそうだ。
しかし今は、そんなことよりレイさんが心配だ。俺は指輪の件がどうしても腑に落ちなかった。
レイさんの恋する表情は、どんなアクセサリーよりピカピカと輝く。元カレのことが本当に好きだったのだろう。俺はどんどん複雑な心境になっていった。
「南雲さん、ありがとうございます。肌身離さず大切にします」
別れた恋人との思い出を、そこまで大事にする必要はあるのだろうか。
むしろ、忘れたほうが建設的じゃないだろうか。
「やめたほうがいいんじゃ……」
そこで、うっかり口を滑らせてしまった。間違いなく、レイさんに聞こえてしまっただろう。それでも、考え直してくれるほうがきっといい。俺は口を引き結んだ。
もう、傷ついてほしくないから――
「エイトさん」
南雲さんは、窘めるように俺を見る。やはり、雑貨屋の店員が口出しするようなことではなかったのか。
「そうですね……私が思いを残したら、迷惑かもしれない……」
レイさんの顔がみるみるうちに曇り、余計なことを言ってしまったと少し後悔する。言葉はやはり難しい。どうにか挽回しようと、俺は思考を巡らせた。
「ええと、その……よりを戻すことはできないんですか?」
視界の端には、こめかみを押さえる南雲さん。言葉を発した瞬間に、誰よりも俺が失言だったと理解した。焦れば焦るほど、背中に嫌な汗を感じる。
一度口にしたことは取り消せないというのに、なんてことを言ってしまったのだ。よりを戻せなんて、傷口に塩を塗るようなものだろう。
思いが先走って空回りしてしまうのは、俺の悪い癖だ。
悪い癖……?
やはり、前にもそんなことがあったのだろうか?
霞がかかった記憶を探りながら、俺は目を細める。
似た失敗をいつもしているような気がするが、具体的なシーンは思い出せず、焦燥感に駆られた。
「もう、元には戻れないんです」
その台詞に、俺は目を見開く。悲しそうなレイさんの顔が目に入り、俺はますます慌てた。
「す、すみません、俺……」
「あの、少しだけお話を聞いていただけませんか?」
するとレイさんが、俺に向かって柔らかく笑った。
「俺なんかで良かったら、いくらでも聞きます。愚痴でもなんでもぶっちゃけてください。レイさんみたいな綺麗な人を振るなんて、信じられません!」
テンパる俺を見て、レイさんは「ありがとう」とまた笑った。大袈裟かもしれない。だけど、本音だった。
「別れることになってしまったけど、彼のおかげで私の人生は素晴らしいものになりました。仕事がうまくいかず苦しかった時、悩みを打ち明けることのできる唯一の相手でした。どんな時も私を励まし、支えてくれたのが彼です。彼がいなかったら、私は責任を放棄して、大切な人たちの前から逃げ出していたかもしれない。そんなことしていたら、ひどく後悔して、今ここに立っていることもできなかったはず。こうして、すっきりとした気持ちでいられるのは、彼のおかげです。心から、彼と出会えたことに感謝しています。ほんの少しの時間だったけれど、幸せでした。できることなら、私という存在が消えてなくなるまで、彼を好きなままでいたいんです。でも、我儘かもしれませんね……。彼のためにも未練なんて抱いてはいけないのに」
「未練……?」
俺は、それとは違うと直感した。
未練と聞くとマイナスなイメージが先立ってしまうけど、レイさんの思いはもっと浄化されているような気がしたからだ。
話を聞いていると、俺まで胸がぎゅっとして切なくなる。
それはただ、純粋に過去の恋人を思っているだけの、密やかでいて、あたたかい心だった。別れたあとも相手のことを大事に思うレイさんの生き方が、俺の胸に刺さったのだ。
レイさんを応援できるような、意味のある言葉はないだろうか。
しかし、どんなに考えたところで思いつかない。俺の頭の中は、やっぱりがらんどうになってしまったのかもしれない。
「未練ではありませんよ。神林様が手にしているのは、思い出です」
南雲さんが穏やかに言った。
「曖昧で迷いやすいものですが、未練と思い出は別ですよ。未練を残して次に進むのは難しいけれど、思い出は先に行くための糧となります」
ああ、それだ、と俺は深く頷く。
思い出とはそういうものだった。疲れた時にそっと寄り添ってくれたり、勇気が持てない自分の背中を押してくれたり。心の中に持っているだけで、明日を生きる力をくれるものだったはずだ。
「私、この指輪を持っていていいんですね……」
「もちろんです。これは、神林様の思い出ですから」
南雲さんの言葉に、レイさんもホッとしたような顔になる。
良かった。レイさんの手元に思い出が戻って良かった。いつしか、自分のことのように嬉しくなっているのに気づく。
思い出は、他人のものだったとしても、触れると優しい気持ちになれるものだ。
レイさんの指輪はシンプルだけど、どの指輪よりも煌めいているように見えた。きっと、思い出が詰まっているからに違いない。
「おいくらですか?」
それから、レイさんは指輪を嵌めたままお会計を済ませると、南雲さんと俺に軽く会釈した。
「お世話になりました」
とても清々しい表情だ。眩しくて、レイさんから目が離せなくなる。
「あ、あの」
それでつい、店を出ていこうとするレイさんを、俺は引き止めてしまった。それに、問いたいこともあったのだ。
「思い出って、やっぱり、いいものですよね?」
口にした途端、恥ずかしくなる。
「……って、何言ってんだよ。すみません。またお店に来てくださいね」
笑ってごまかそうとするが、レイさんも南雲さんも怪しむような表情になった。
「いや、その……」
記憶を失ってしまった俺だけど、思い出という概念だけは覚えていたということが分かった。だけど、確信が欲しかったのかもしれない。記憶を取り戻すことを恐れる必要はないのだと。
そこでレイさんが言った。
「はい。思い出はいいものです。良い思い出はもちろん、悪い思い出の中にも時が経てば印象が変わるものがあるから、思い出って不思議ですよね。仕事を辞めたいと悩んだ日々さえ、懐かしいと思えます」
「そんなもんなんですね……」
「すべて消してしまいたいと考えた時もあったけど、思い出がなんにもないのは、寂しいですよね。生きているから今が思い出になる。誰にでも思い出はあると信じています。きっとあなたにも」
レイさんがふわりと微笑む。
「あの、余計なことかもしれませんが、前髪、切ったほうがいいですよ」
「は、はい。そうっすね。ははは」
俺は髪を掻きむしった。
「とても綺麗な目をしているから」
レイさんの言葉に照れくさくなる。
「それじゃ、私はそろそろ。最後に御礼を言わせてください。思い出が見つかって良かった。お二人に会えて良かった。本当に、ありがとうございました」
名残惜しいとは、こういう気持ちのことだろう。俺はいつまでもレイさんを見ていたいと思った。だけど、それは叶わない。きっと、もうお別れだ。ただの客と店員なのだから。俺は覚悟して、そっとレイさんの背中を見送る。
さよなら、レイさん。
静かに『おもひで堂』の扉が目の前で閉じられた。やがて、乱反射した夏の強い日差しがガラスを突き抜けてくる。眩しさに思わず目を細めた。
きっと、誰にでも思い出はある。
思い出が見つかって良かった。
レイさんの心からの思いは、じわりと俺の心にも染み入っていった。
現金かもしれないが、レイさんを見送ったあとは、お楽しみのランチが待っていた。腹が減っては戦ができぬ、である。
ちょっと殺風景だが居心地のよい二階のダイニングには、海の匂いが漂っている。俺はわくわくしながら、テーブルについた。
「今日もウマそうですね」
木製のプレートに盛られているのは、おにぎり、卵焼き、温野菜。それから、味噌汁も付いている。
「直売所で買った釜揚げしらすでおにぎりを作りました」
南雲さんはデニムのエプロンを外し、壁のフックに掛けた。
「直売所?」
「長谷駅の近くにある直売所ですよ」
先日、長谷寺に出かけた時に購入したのかもしれない。その時の情景を思い出そうとしていると、途中でお腹が鳴ってしまった。美味しそうな食事を前に、空腹の限界だ。
「食べましょう。いただきます」
南雲さんは手を合わせた。
「いただきます」
俺も手を合わせる。
しらすのおにぎりは初めてだ。プレートには、おにぎりがふたつ載っている。
「しらす、大葉、ごまを混ぜたものと、しらす、チーズ、めんつゆを混ぜたもの、おにぎりは二種類の味にしました」
「いつもありがとうございます」
「いいえ。どうぞ召し上がってください」
恐縮しつつも、俺はおにぎりに手を伸ばす。
鮮やかな緑と香りにつられ、まずは大葉としらすのおにぎりを口にした。ごはんには、しらすの塩気だけでしっかりと味がついている。大葉とごまのアクセントも絶妙だ。ぺろりと一個を平らげてしまった。
「この組み合わせ、最強っすね!」
「そうですね」
嬉々とする俺に対し、南雲さんは相変わらずクールだった。はしゃぎすぎたかなと少々反省しながら、俺は二個めのおにぎりに手を伸ばす。
しらすとチーズのおにぎりは、意外にも相性が良い組み合わせだった。めんつゆがふたつの素材をうまく繋いでおり、濃厚な味わいに満足感が得られるところもいい。
「こっちも、ウマいです」
「エイトさんはなんでも美味しそうに食べるんですね。作りがいがあります」
やっぱり無表情ではあるけれど、南雲さんも喜んでいるような気がする。
そして、待望の卵焼きは懐かしい甘めの味付けだった。
懐かしい……?
記憶のない俺にでも、懐かしむものなんてあるのだろうか。
続いて、カラフルな温野菜へと箸は向かう。大根、人参、ズッキーニ、オクラ。それから……。断面が赤と白の渦巻きになった野菜の名前が分からない。
箸で持ち上げ、食い入るように見つめる。
「渦巻きビーツという野菜です。輪切りにすると、同心円状に赤い輪があります。ビーツは赤カブに似ていますが別物のようです」
「ビーツ……なんか、おしゃれな食いもんですね」
俺は恐る恐る渦巻き模様の野菜を口にする。
「……やわらかくて甘い」
野菜の自然な甘みが口いっぱいに広がった。
「どれも、レンバイの鎌倉野菜です」
「レンバイ?」
「鎌倉市農協連即売所の愛称で、近くにある農作物直売所のことです。色んな野菜が袋詰めになったものを買ったので、お得でした」
南雲さんは味噌汁を飲んで、ふぅ、と満足そうに息を吐いた。
「いい香りですね」
味噌汁の椀を手に取ると、ふわっと磯の香りが鼻腔に届く。ねぎとあおさの素朴な味噌汁。とろりとしたあおさがとにかく美味しい。
非常に、幸せだ。
このままずっと、鎌倉で、南雲さんにお世話されていたい。
南雲さんみたいな、お嫁さんが欲しい……かも?
そこで、ちょっと笑ってしまった。
「どうしたんですか?」
南雲さんが怪訝な顔をする。
「いいえ。なんでもありません」
俺は味噌汁を飲み干して、顔を綻ばせた。
「そういえば……今日は、猫、見ませんね」
少し寂しそうに南雲さんが言った。
「あいつ、神出鬼没だからなぁ」
南雲さんに撫でられて、餌をもらい、いつの間にかいなくなる。そして気づけば、店の中で遊んでいる。扉や窓が閉まっていても、どこからか自由に出入りしているようだ。店の中に潜んでいるのだろうか。黒白猫は隠れるのが好きなのかもしれない。
「あの猫、なんて名前だろう。南雲さんにすっかりなついてますよね」
俺が言うと、南雲さんの眉毛がぴくりと動いた。
「そうですね。慣れています」
しかしすぐになんでもないことのように、南雲さんはお茶の入ったマグカップを手にする。
慣れている?
猫になつかれやすいのか?
何匹もの猫に囲まれて憂えている南雲さんを想像して、俺はまた少し笑った。
しかも、猫だけじゃない。俺も、すっかり南雲さんになついている。
やっぱり、南雲さんはいい人だと、俺はつくづく思うのだ。
一階の店に戻り、扉にかかった札をくるっと回転して『OPEN』に戻す。午後から、お客様が来てくれればいいけれど。
通りの観光客はいつものように通り過ぎていくだけだ。
「だろうなぁ……」
暇なので、店内の掃除をすることにした。箒で床を掃いていると、これまで見たことのなかった商品に気づく。
また仕入れたのだろうか。
あまり売れていないのに。
年季の入った陶器の壺は、もしかしたら価値があるものかもしれない。割らないように気をつけながら、床に並んだ大小の壺の間を縫うように箒で掃いた。
「お前、こんなところにいたのか!」
壺の横に置かれた器のようなものの中で、黒白猫が丸まっていた。どっしりとしたエメラルドグリーンの丸い器に、すっぽりとはまりこんでいる。
「それ、売り物だから、傷つけないでくれよ……」
俺は箒を置いて腰を屈め、黒白猫を覗き込んだ。
「……うわ!」
器の表面にはすでにひびが入り、一部が欠けていた。そこで階段を下りてくる足音が聞こえる。まずいことになった、と俺は腕組みをして考え込んだ。
ゆっくりと振り返れば、南雲さんと目が合う。
「猫、ここにいました。でも、ひびが……。どうしましょう?」
南雲さんを手招きする。
「ああ、盆栽鉢……」
そばまでやってきて、南雲さんは言った。
「盆栽の?」
「はい。盆栽用の釉薬鉢ですね」
「ひびが入っているんですけど」
俺はひびの部分を指差した。
「構いませんよ。猫の思い出の品かもしれませんしね」
猫の思い出の品?
この猫も、レイさんみたいに、思い出を探しに来たのか?
南雲さんは時々おかしなことを言うが、俺も慣れてきたようだ。
「でも、猫はお金持ってないし、品物を買えませんね?」
さらっと軽い口調で返す。さすがに猫は『おもひで堂』のお客様ではないだろう。
「払える人が払うので大丈夫です。たとえば、この猫の飼い主とか」
「は、はぁ? まさか本当に、この猫に、盆栽鉢を売るつもりですか?」
「もちろん」
当然とばかりに、南雲さんは頷いた。
マジか――。やっぱり理解不能だ!
そんな俺たちのやりとりなんかお構いなしに、黒白猫は盆栽鉢の中ですやすやと眠っている。白いお腹が膨らんだりしぼんだり、とても気持ち良さそうで、ながめていると俺まで眠たくなってしまうのだった。
細くて華奢なゴールドのリングを三つ重ね付けするのはおしゃれだし、先端にパールが付いたオープンリングは個性的だ。
しかし、レイさんならば、一粒ダイヤが輝く、上品な指輪を選ぶのではないだろうか。アクセサリーコーナーの前に立つ彼女を、俺はじっと見守っていた。
「わあっ、これです。どうして……でも、良かった」
レイさんは両手で口元を隠しながら、感嘆の声を上げた。
「どうぞ手にとってお確かめください」
南雲さんが促すと、レイさんは目当ての指輪を手にとった。
「えっ……! それ?」
俺は思わず、カウンターの中で叫んだ。
レイさんは、はにかみながら「はい」と答えると、大事そうに指輪を撫でる。
俺の予想は大いに外れ、レイさんは一番シンプルな指輪を手にしていた。それは、アルファベットの「S」がデザインされただけの、特に特徴のないリングだった。
意外だけど、レイさんと元カレの趣味で選んだものならば仕方ない。勝手に納得する俺だった。
「指に嵌めてみませんか?」
南雲さんの言葉に、レイさんは静かに頷いた。それから、薬指に指輪を嵌め、顔の前にかざして嬉しそうに微笑む。
「サイズもぴったり。この指輪を付けられる日が来るなんて、夢みたい。彼と一緒にデザインを決めてオーダーしたんです」
まさか、わざわざ南雲さんが再オーダーしたとか?
この短期間でそんなにうまく話がまとまるとは思えない。何か裏がありそうだ。
しかし今は、そんなことよりレイさんが心配だ。俺は指輪の件がどうしても腑に落ちなかった。
レイさんの恋する表情は、どんなアクセサリーよりピカピカと輝く。元カレのことが本当に好きだったのだろう。俺はどんどん複雑な心境になっていった。
「南雲さん、ありがとうございます。肌身離さず大切にします」
別れた恋人との思い出を、そこまで大事にする必要はあるのだろうか。
むしろ、忘れたほうが建設的じゃないだろうか。
「やめたほうがいいんじゃ……」
そこで、うっかり口を滑らせてしまった。間違いなく、レイさんに聞こえてしまっただろう。それでも、考え直してくれるほうがきっといい。俺は口を引き結んだ。
もう、傷ついてほしくないから――
「エイトさん」
南雲さんは、窘めるように俺を見る。やはり、雑貨屋の店員が口出しするようなことではなかったのか。
「そうですね……私が思いを残したら、迷惑かもしれない……」
レイさんの顔がみるみるうちに曇り、余計なことを言ってしまったと少し後悔する。言葉はやはり難しい。どうにか挽回しようと、俺は思考を巡らせた。
「ええと、その……よりを戻すことはできないんですか?」
視界の端には、こめかみを押さえる南雲さん。言葉を発した瞬間に、誰よりも俺が失言だったと理解した。焦れば焦るほど、背中に嫌な汗を感じる。
一度口にしたことは取り消せないというのに、なんてことを言ってしまったのだ。よりを戻せなんて、傷口に塩を塗るようなものだろう。
思いが先走って空回りしてしまうのは、俺の悪い癖だ。
悪い癖……?
やはり、前にもそんなことがあったのだろうか?
霞がかかった記憶を探りながら、俺は目を細める。
似た失敗をいつもしているような気がするが、具体的なシーンは思い出せず、焦燥感に駆られた。
「もう、元には戻れないんです」
その台詞に、俺は目を見開く。悲しそうなレイさんの顔が目に入り、俺はますます慌てた。
「す、すみません、俺……」
「あの、少しだけお話を聞いていただけませんか?」
するとレイさんが、俺に向かって柔らかく笑った。
「俺なんかで良かったら、いくらでも聞きます。愚痴でもなんでもぶっちゃけてください。レイさんみたいな綺麗な人を振るなんて、信じられません!」
テンパる俺を見て、レイさんは「ありがとう」とまた笑った。大袈裟かもしれない。だけど、本音だった。
「別れることになってしまったけど、彼のおかげで私の人生は素晴らしいものになりました。仕事がうまくいかず苦しかった時、悩みを打ち明けることのできる唯一の相手でした。どんな時も私を励まし、支えてくれたのが彼です。彼がいなかったら、私は責任を放棄して、大切な人たちの前から逃げ出していたかもしれない。そんなことしていたら、ひどく後悔して、今ここに立っていることもできなかったはず。こうして、すっきりとした気持ちでいられるのは、彼のおかげです。心から、彼と出会えたことに感謝しています。ほんの少しの時間だったけれど、幸せでした。できることなら、私という存在が消えてなくなるまで、彼を好きなままでいたいんです。でも、我儘かもしれませんね……。彼のためにも未練なんて抱いてはいけないのに」
「未練……?」
俺は、それとは違うと直感した。
未練と聞くとマイナスなイメージが先立ってしまうけど、レイさんの思いはもっと浄化されているような気がしたからだ。
話を聞いていると、俺まで胸がぎゅっとして切なくなる。
それはただ、純粋に過去の恋人を思っているだけの、密やかでいて、あたたかい心だった。別れたあとも相手のことを大事に思うレイさんの生き方が、俺の胸に刺さったのだ。
レイさんを応援できるような、意味のある言葉はないだろうか。
しかし、どんなに考えたところで思いつかない。俺の頭の中は、やっぱりがらんどうになってしまったのかもしれない。
「未練ではありませんよ。神林様が手にしているのは、思い出です」
南雲さんが穏やかに言った。
「曖昧で迷いやすいものですが、未練と思い出は別ですよ。未練を残して次に進むのは難しいけれど、思い出は先に行くための糧となります」
ああ、それだ、と俺は深く頷く。
思い出とはそういうものだった。疲れた時にそっと寄り添ってくれたり、勇気が持てない自分の背中を押してくれたり。心の中に持っているだけで、明日を生きる力をくれるものだったはずだ。
「私、この指輪を持っていていいんですね……」
「もちろんです。これは、神林様の思い出ですから」
南雲さんの言葉に、レイさんもホッとしたような顔になる。
良かった。レイさんの手元に思い出が戻って良かった。いつしか、自分のことのように嬉しくなっているのに気づく。
思い出は、他人のものだったとしても、触れると優しい気持ちになれるものだ。
レイさんの指輪はシンプルだけど、どの指輪よりも煌めいているように見えた。きっと、思い出が詰まっているからに違いない。
「おいくらですか?」
それから、レイさんは指輪を嵌めたままお会計を済ませると、南雲さんと俺に軽く会釈した。
「お世話になりました」
とても清々しい表情だ。眩しくて、レイさんから目が離せなくなる。
「あ、あの」
それでつい、店を出ていこうとするレイさんを、俺は引き止めてしまった。それに、問いたいこともあったのだ。
「思い出って、やっぱり、いいものですよね?」
口にした途端、恥ずかしくなる。
「……って、何言ってんだよ。すみません。またお店に来てくださいね」
笑ってごまかそうとするが、レイさんも南雲さんも怪しむような表情になった。
「いや、その……」
記憶を失ってしまった俺だけど、思い出という概念だけは覚えていたということが分かった。だけど、確信が欲しかったのかもしれない。記憶を取り戻すことを恐れる必要はないのだと。
そこでレイさんが言った。
「はい。思い出はいいものです。良い思い出はもちろん、悪い思い出の中にも時が経てば印象が変わるものがあるから、思い出って不思議ですよね。仕事を辞めたいと悩んだ日々さえ、懐かしいと思えます」
「そんなもんなんですね……」
「すべて消してしまいたいと考えた時もあったけど、思い出がなんにもないのは、寂しいですよね。生きているから今が思い出になる。誰にでも思い出はあると信じています。きっとあなたにも」
レイさんがふわりと微笑む。
「あの、余計なことかもしれませんが、前髪、切ったほうがいいですよ」
「は、はい。そうっすね。ははは」
俺は髪を掻きむしった。
「とても綺麗な目をしているから」
レイさんの言葉に照れくさくなる。
「それじゃ、私はそろそろ。最後に御礼を言わせてください。思い出が見つかって良かった。お二人に会えて良かった。本当に、ありがとうございました」
名残惜しいとは、こういう気持ちのことだろう。俺はいつまでもレイさんを見ていたいと思った。だけど、それは叶わない。きっと、もうお別れだ。ただの客と店員なのだから。俺は覚悟して、そっとレイさんの背中を見送る。
さよなら、レイさん。
静かに『おもひで堂』の扉が目の前で閉じられた。やがて、乱反射した夏の強い日差しがガラスを突き抜けてくる。眩しさに思わず目を細めた。
きっと、誰にでも思い出はある。
思い出が見つかって良かった。
レイさんの心からの思いは、じわりと俺の心にも染み入っていった。
現金かもしれないが、レイさんを見送ったあとは、お楽しみのランチが待っていた。腹が減っては戦ができぬ、である。
ちょっと殺風景だが居心地のよい二階のダイニングには、海の匂いが漂っている。俺はわくわくしながら、テーブルについた。
「今日もウマそうですね」
木製のプレートに盛られているのは、おにぎり、卵焼き、温野菜。それから、味噌汁も付いている。
「直売所で買った釜揚げしらすでおにぎりを作りました」
南雲さんはデニムのエプロンを外し、壁のフックに掛けた。
「直売所?」
「長谷駅の近くにある直売所ですよ」
先日、長谷寺に出かけた時に購入したのかもしれない。その時の情景を思い出そうとしていると、途中でお腹が鳴ってしまった。美味しそうな食事を前に、空腹の限界だ。
「食べましょう。いただきます」
南雲さんは手を合わせた。
「いただきます」
俺も手を合わせる。
しらすのおにぎりは初めてだ。プレートには、おにぎりがふたつ載っている。
「しらす、大葉、ごまを混ぜたものと、しらす、チーズ、めんつゆを混ぜたもの、おにぎりは二種類の味にしました」
「いつもありがとうございます」
「いいえ。どうぞ召し上がってください」
恐縮しつつも、俺はおにぎりに手を伸ばす。
鮮やかな緑と香りにつられ、まずは大葉としらすのおにぎりを口にした。ごはんには、しらすの塩気だけでしっかりと味がついている。大葉とごまのアクセントも絶妙だ。ぺろりと一個を平らげてしまった。
「この組み合わせ、最強っすね!」
「そうですね」
嬉々とする俺に対し、南雲さんは相変わらずクールだった。はしゃぎすぎたかなと少々反省しながら、俺は二個めのおにぎりに手を伸ばす。
しらすとチーズのおにぎりは、意外にも相性が良い組み合わせだった。めんつゆがふたつの素材をうまく繋いでおり、濃厚な味わいに満足感が得られるところもいい。
「こっちも、ウマいです」
「エイトさんはなんでも美味しそうに食べるんですね。作りがいがあります」
やっぱり無表情ではあるけれど、南雲さんも喜んでいるような気がする。
そして、待望の卵焼きは懐かしい甘めの味付けだった。
懐かしい……?
記憶のない俺にでも、懐かしむものなんてあるのだろうか。
続いて、カラフルな温野菜へと箸は向かう。大根、人参、ズッキーニ、オクラ。それから……。断面が赤と白の渦巻きになった野菜の名前が分からない。
箸で持ち上げ、食い入るように見つめる。
「渦巻きビーツという野菜です。輪切りにすると、同心円状に赤い輪があります。ビーツは赤カブに似ていますが別物のようです」
「ビーツ……なんか、おしゃれな食いもんですね」
俺は恐る恐る渦巻き模様の野菜を口にする。
「……やわらかくて甘い」
野菜の自然な甘みが口いっぱいに広がった。
「どれも、レンバイの鎌倉野菜です」
「レンバイ?」
「鎌倉市農協連即売所の愛称で、近くにある農作物直売所のことです。色んな野菜が袋詰めになったものを買ったので、お得でした」
南雲さんは味噌汁を飲んで、ふぅ、と満足そうに息を吐いた。
「いい香りですね」
味噌汁の椀を手に取ると、ふわっと磯の香りが鼻腔に届く。ねぎとあおさの素朴な味噌汁。とろりとしたあおさがとにかく美味しい。
非常に、幸せだ。
このままずっと、鎌倉で、南雲さんにお世話されていたい。
南雲さんみたいな、お嫁さんが欲しい……かも?
そこで、ちょっと笑ってしまった。
「どうしたんですか?」
南雲さんが怪訝な顔をする。
「いいえ。なんでもありません」
俺は味噌汁を飲み干して、顔を綻ばせた。
「そういえば……今日は、猫、見ませんね」
少し寂しそうに南雲さんが言った。
「あいつ、神出鬼没だからなぁ」
南雲さんに撫でられて、餌をもらい、いつの間にかいなくなる。そして気づけば、店の中で遊んでいる。扉や窓が閉まっていても、どこからか自由に出入りしているようだ。店の中に潜んでいるのだろうか。黒白猫は隠れるのが好きなのかもしれない。
「あの猫、なんて名前だろう。南雲さんにすっかりなついてますよね」
俺が言うと、南雲さんの眉毛がぴくりと動いた。
「そうですね。慣れています」
しかしすぐになんでもないことのように、南雲さんはお茶の入ったマグカップを手にする。
慣れている?
猫になつかれやすいのか?
何匹もの猫に囲まれて憂えている南雲さんを想像して、俺はまた少し笑った。
しかも、猫だけじゃない。俺も、すっかり南雲さんになついている。
やっぱり、南雲さんはいい人だと、俺はつくづく思うのだ。
一階の店に戻り、扉にかかった札をくるっと回転して『OPEN』に戻す。午後から、お客様が来てくれればいいけれど。
通りの観光客はいつものように通り過ぎていくだけだ。
「だろうなぁ……」
暇なので、店内の掃除をすることにした。箒で床を掃いていると、これまで見たことのなかった商品に気づく。
また仕入れたのだろうか。
あまり売れていないのに。
年季の入った陶器の壺は、もしかしたら価値があるものかもしれない。割らないように気をつけながら、床に並んだ大小の壺の間を縫うように箒で掃いた。
「お前、こんなところにいたのか!」
壺の横に置かれた器のようなものの中で、黒白猫が丸まっていた。どっしりとしたエメラルドグリーンの丸い器に、すっぽりとはまりこんでいる。
「それ、売り物だから、傷つけないでくれよ……」
俺は箒を置いて腰を屈め、黒白猫を覗き込んだ。
「……うわ!」
器の表面にはすでにひびが入り、一部が欠けていた。そこで階段を下りてくる足音が聞こえる。まずいことになった、と俺は腕組みをして考え込んだ。
ゆっくりと振り返れば、南雲さんと目が合う。
「猫、ここにいました。でも、ひびが……。どうしましょう?」
南雲さんを手招きする。
「ああ、盆栽鉢……」
そばまでやってきて、南雲さんは言った。
「盆栽の?」
「はい。盆栽用の釉薬鉢ですね」
「ひびが入っているんですけど」
俺はひびの部分を指差した。
「構いませんよ。猫の思い出の品かもしれませんしね」
猫の思い出の品?
この猫も、レイさんみたいに、思い出を探しに来たのか?
南雲さんは時々おかしなことを言うが、俺も慣れてきたようだ。
「でも、猫はお金持ってないし、品物を買えませんね?」
さらっと軽い口調で返す。さすがに猫は『おもひで堂』のお客様ではないだろう。
「払える人が払うので大丈夫です。たとえば、この猫の飼い主とか」
「は、はぁ? まさか本当に、この猫に、盆栽鉢を売るつもりですか?」
「もちろん」
当然とばかりに、南雲さんは頷いた。
マジか――。やっぱり理解不能だ!
そんな俺たちのやりとりなんかお構いなしに、黒白猫は盆栽鉢の中ですやすやと眠っている。白いお腹が膨らんだりしぼんだり、とても気持ち良さそうで、ながめていると俺まで眠たくなってしまうのだった。
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