埋(うずみふ)腐 ――警部補戸田章三の日常(仮題)

三章企画

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第一章(その1) 警部補戸田章三

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 甲突町は、鹿箭島かやしま市を南北に二分して流れる甲突川の最下流にほど近い川沿いの一角にある。
 四月九日の、もう十五分もすれば午前七時になろうかという時刻に、ひとりの男が甲突町派出所の中にぬけぬけと入り込んできた。男の伸びかけた短髪にはところどころに白髪が混じりはじめており、薄手の水色と白のリバーシブルのジャンパーを羽織っている。アイロンとは仲の悪そうな薄茶色のズボンの下は、ごま塩色をした五つ指の靴下を履いた足が、ざっくりと突っ込まれたサンダル履きである。
「お疲れさん。目覚まし」
 男は、下げていた四本の缶茶のうち三本を派出所のカウンターの上に置くと、もう一本を開けながらソファーに腰を下ろしてくつろいでいる。
「おはようございます。いつもありがとうございます、戸田警部補」
 声をかけた男に、立ち上がった甲突派出所の若い川畑巡査が、まず敬礼を返した。
 遅れて定年を控えた下吉巡査部長が、書きかけの書類に向かったまま軽く答礼した。
  下吉巡査部長は、三時間ほど前に近くのコンビニを中心に連続して起きた暴行事件の微罪処分手続書の清書に苦闘していた。その姿と書類の中身を眼の端に止めて、
 暴行ですか、とサンダル履きの男、戸田章三が、顎で甲突川の方を示した。
「この時期、そこら辺の花見で、結局微罪とめい規が多くなるんでしょう。下𠮷しもさん、大変だな」
 甲突派出所の南側、それも目と鼻の先を流れている甲突川には、下流両岸に桜並木を抱えた緑地公園を持っている。そのせいか花見時ともなると、あれやこれやと派出所の仕事がぐっと増える。だが、その時期には今少し早かった。
「ええ。もうしばらくしたら、そうなるでしょうか」
 と川畑巡査の方が遠慮がちに口を開いた。巡査の目は、ゆっくりと戸田の足下に落ちた。
「あの。戸田警部補は、いつも通り、これから県警まで歩かれるんでしょうか。足下はそれで……」
 自分を見る川畑巡査の視線を、何気なく追っていた戸田は、
「あららっ」
 と短い嘆息を漏らして苦笑した。
「さすがに、履き替えんとまずいだろうな」
 ラッシュアワー対策として、鹿箭島県警本部の職員は九時半始業になっている。
 戸田は、四十五才を過ぎて微妙に衰えを感じ始めた体力回復を兼ねて、自宅から本部までのおよそ4キロを徒歩で一時間を掛けて通勤している。その最初の休憩地が、甲突派出所ということになっていた。戸田の自宅は、派出所の東へほんの三分ほど本部側に歩いた場所にあるからわずかばかりの回り道になるはずなのだが、
「なに、どうせ寄って行くだけのことやっで」ということらしい。
「だからですよ、戸田警部補」
 と、手続書を書き上げてほっとした様子の下吉巡査部長が、にやつきながら突っ込んだ。
「いい加減、嫁さんをもらわんと。あれこれ不自由でしょうが」
「いや、下さん。もう、慣れた」
 戸田は腰を浮かして退散の準備にかかった。これ以上長居すると、かつて、あれもこれもそれも、イロハから指導を受けた先輩の下吉巡査部長が、何を繰り出すかわからない。
 かつて、下吉巡査部長に世話を焼かれすぎて辟易していた当時、同僚間でぼやきあった、
『余計なお世話よ、下吉しもの世話』
 と喉まで出かけた戸田は、何とか呑み込んだ。
 さらに砕けた逃げ腰の戸田に追い打ちをかけるように、下吉巡査部長がさらに口を開きかけたとき、警報音が鳴って同報無線が入った。
[鹿箭島中央署管内、甲突町二十四番豊川内科医院前、甲突川左岸緑地前ゴミステーション路上から携帯電話での入電。ゴミステーション内のビニール袋から人間の左足と見られるものが発見された。各移動、各警戒員は現場に向かわれたい。繰り返す……]
「七時十三分」
 下吉巡査部長と川畑巡査は、呼称しながら受令器のイヤフォンを耳に突っ込み、持てるだけの現場保存テープを取り出すと、自転車に積み込んだ。派出所から現場まで二百メートルも離れていない。鹿箭島中央署からも七百メートル足らずの距離である。中央署の制服に負けるわけにはいかない。
「なんちゅう日か、こらぁ」
 下吉巡査部長の自分自身に向けた叱咤の怒号が響いた。今日は、深夜を廻ってからの緊急出場が四件目になる。
  かまわず戸田が聞く。
「川畑。足ポリは置いてるか」
 既に自転車に乗っていた川畑巡査は首を振った。
「足ポリ? ああ、シューズカバーですか? いや、置いてなかったと思います。ですが、予備のゴム長がB戸棚に入ってます。履き替えるんならどうぞ」
「わかった。川畑、念のためにポリ袋を持って行け。死体を見るのは初めてなんだろう」
 戸田は声を掛けたが、既に川畑巡査の姿はない。足ポリ、長めのシューズカバーがあればサンダルの上から履いておくと、現場で足下が目立たない。だが、ないものはしかたがない。戸田は、長靴を探しながら派出所の予備の受令器のイヤフォンを右耳に突っ込むと、左耳に当てた携帯電話で、県警本部捜査一係へ連絡を入れた。午前七時十四分。この時間なら当直の二班主任の警部補堂園了紀がいる。
「おはようございます。戸田です。状況聞きました。現在地、甲突派出所前。このまま現場に緊急出動しますか」
「おう。今連絡するところだった。機捜に二班が追い掛けることになる。係長には伝えて置くから先行してくれ。あくまでも現在は、所轄の足下の事件だから、そのつもりで」
 戸田は左耳で聞いていた携帯電話を切った。
「ほう」
 右耳のイヤフォンからは、通報者の若いが、際だって冷静な声と通信指令台からの慌ただしい指示とが交互に流れてくる。
「何者だ? こいつ」
 戸田は、捜していた備品借受簿を諦めて、ポケットからメモ用紙を取り出した。一枚をめくり取ると、受令器とゴム長を借り出した旨を手早く記載して拇印を押し、派出所長の机の上に置いた。借りたゴム長靴は、足長二十五、五センチの戸田にはやや大きかったと見えて、一歩走る毎に妙な音を立てた。蛙の鳴き声のような音だ。

 戸田が現場に着いたときには、まだ所轄の中央署からも県警本部の機捜からも誰も到着していない。派出所組が三人、川畑巡査が、現場保存テープを抱えたまま立ち入り規制を行っており、巡邏から急行した上温湯かみぬるゆ巡査長が状況の速報を入れていた。現場からやや離れた場所では、下吉巡査部長が、通報者と思われる老若ふたりの男と話している。
「ありがとうございました。わたし以外からもですね、何度も同じことを繰り返し聞かれると思いますが、すみませんが、ひとつよろしくお願いします」 
 戸田はゴミステーションを一瞥すると、ゴム長の足音を立てながら三人に近づいた。
「おそれいります。県警捜査一係の戸田と申します。お話をお聞きしたいのですが」
 会釈した戸田につられるようにふたりも会釈を返したが、若い方の男がすぐに口を開いた。
 男は、三十前後で痩せ形の長身、百八十センチ弱で、やや長目の黒髪、日に焼けた端整な顔立ちをしている。洗濯の行き届いた薄緑色の上下そろいの作業服を着て、生ゴミ袋を下げていた。その手がやけに白かった。
「すみません。通報したのはわたしですが、最初に発見したのは日高さんです。私の方からは話せるようなことは何もありません。下吉さんにも申し上げたのですが、遅刻するとまずいので、そろそろ仕事に行きたいのです。今日だと六時過ぎには仕事も終わりますので、その後でしたらどこへでもお伺いしますので」
 イヤフォン越しに聞いた冷静な声が、もの柔らかに話しかけてきた。その声のどこにも、切り取られた無惨な左足を見つけた動揺の色は窺えない。戸田はさりげなく、だが意地悪く尋ねてみた。
「ふむ。あなたも例の物を、しっかり見ましたか」
 男は、困ったように笑って頷いた。
「やむなく」
 その声音にも表情にも、今し方凄惨なものを見た動揺の欠片も感じられない。むしろ逆に場慣れした様子さえ窺える。戸田は、下吉巡査部長にそれとなく目配せした。巡査部長は大きく深く頷いた。聞くことは聞いてある。問題はない。そう判断している合図だ。戸田は了解した。
「いや、それは朝から大変でした。構いませんよ。何かありましたら、改めて連絡しますので、その時は必ずご協力をお願いします」
 男は軽く会釈をして踵を返した。手にはゴミ袋を提げたままだ。ゴミ袋からわずかに血染みがたれている。間髪を入れず、戸田が背後から声を掛けた。
「そのゴミ袋。差し支えなかったら、こちらで処分しましょうか」
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