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第四章(その1) 水質調整剤

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 戸田が面会室を出ると、拘置所裏手、職員宿舎脇の駐車場で待ちかねていた打越が走りよって来た。
「戸田。あれで上手く流れたか。きっちり吐いたか」
 戸田は笑って首を振った。
「ああ云うおっかないコロさんには、一切喋るなと念を押しただけですよ」
「馬鹿が。じゃあ、当たりを引いたんだな」
「動機に触れさえしなければ、聞いたこと全部喋るでしょうよ。動機は取ってある供述書の文言で十分でしょうし。嫉妬心でかっとなってやった。その方が……」
「その方がなんだ?」
 打越が、口ごもった戸田を促した。
「いや。我々の仕事っていうのは、容疑者を逮捕し、検事が公判を維持できる証拠を集めること。何故やったかなんて、どうやったかに比べれば、微々たるもんです」
 戸田が見やった視線の先には、サツマ・アリーナに併設する公園、その向こう側にに伊地知心療内科病院が見えている。
「三十九条、心神耗弱ってか。それは、俺たちの範疇じゃなかろう」
「ええ、その通りです」
 戸田は大きく溜息をついた。   
 これでまた、打越は甲突川切断事件に戻ることになる。
 稲村は、口を閉ざしていた殺害場所も、そこまでの、そして、そこからの経緯も喋るだろう。結果、公判も順調に進む。唯一気にかかるのは、この事件から試験的に導入された取り調べ状況のビデオテープを判事がどう取扱うかだけだが、それは公判の蓋を開けてみないとわからなかった。
「俺は署に戻って出直すが、戸田。お前はどうするんだ」
「この時期にここへ来てしまったのも、何かの縁でしょうから、島田さんを見舞っていきますよ」
 戸田は、無表情に言った。
 打越は、ほんの少し迷って言った。
「そうか。わかるようなら、よろしく言っておいてくれ」  
「ええ、そうします」

 伊地知心療内科に併設された特別養護老人ホーム伊地知仁清園の待合室には、大きな水槽が置いてあった。
 エアーポンプから吐き出される泡が、紫外線ランプに照らされて紫色に弾けていく。
 戸田や瀬ノ尾には、熱帯魚とだけわかる何種類もの魚が、器用に泡を避けながら泳いでいた。
「島田さん、島田省吾さんに面会したいのですが」
 戸田は受付で尋ねている。
「島田省吾さん?」 
 年配の受付嬢が首をかしげながら聞き返した。
「島田さんの状態は御承知でしょうか」
 戸田はポケットを探って、一通の封書を出した。
 五月一日の日付のある戸田宛で、差出人は島田省吾になっている。
 封は切られていない。
 受付嬢は、不思議そうな表情をして封書の字を見ながら言った。
「島田さんの字ですねえ。今の時間は寝ていると思いますが、起きていても…」
「ええ。知っています。顔を見るだけで十分なので」
 瀬ノ尾を待合室に残して、戸田は教えられた病室の扉を開けた。四人部屋の一番左端のベッドに、島田は目を開けて寝ていた。寝ているというより、この世界に起きていない。そう表現した方がいいのかも知れない。目を覚ましていても同じだったろう。
「島田さん。御無沙汰しています。戸田です」
 戸田は声をかけ、島田の手を握った。なんの反応もない。ゆったりと大きな息づかいだけが室内に響いている。戸田は握っていた手をゆっくりと離した。
「四月は無事に過ぎてもうすぐ六月になりますよ。おれは我を張りすぎてしくじりましたが、ほかには誰も……。あなたにだって何もなかった。あなたが気に病むこと何もなかったんです……。島田さん、また来ます」
 戸田が島田の部屋を辞して待合室を通りかかった時、餌の時間になったのだろう。水槽の脇に立てた脚立の上に年配の男性職員がいて、何やら水槽の中に撒いている。
 魚たちが、慌ただしい水音を立てて、落としたものに群がっていく。脚立の傍らには掃除器具やボトルや袋が、無造作に詰め込まれたバケツが置いてあった。網、ブラシ、数種類の餌、栄養剤や抗菌剤、殺菌剤に水質調整剤……。
 戸田や瀬ノ尾にとって、どれも初めて見るものばかりといっていい。
 ふと、戸田の眼が止まり、
「ずいぶんな諸道具がいるもんですな。これ全部使いこなすには」
 脚立の上の職員に声を張り上げた。
「よほどの専門じゃないと難しそうですが、さすがですねえ」
「ええ、まあ。あれこれ購入する度に、持って来た店の人に怒られ続けなんで」
「そりゃ、ご親切な店で。どこです」
 上を向いて尋ねながらも戸田はしゃがみ込み、バケツの中のボトルを手にしていた。
「下福元の石和田金魚店です。やっぱ、専門ですね。ああ、それ」
 戸田が手にしたボトルに気づくと、
「水質調整剤。光合成分解で悪性有機物を分解するとかで、水槽にはもってこいなんだそうで。いや、詳しいことは、私にはわかりません。勧められたから使っているだけで」
 照れ臭そうに笑った。戸田の左手がポケットの中で動いている。
「石和田金魚店っていうのは、ペットショップも何軒か持ってる」
 ええ、と言いながら餌やりの終わった職員が脚立を下りてきた。
「今はペットショップイシワダなんですが、昔のテキヤの頃の印象が抜けなくて。それ、たいして入ってませんから、よかったら、どうぞ」
 ――すみません。
 と戸田は軽く頭を下げると、ボトルを渡した瀬ノ尾に目配せした。
「悪性有機物を光合成分解する薬品だってよ」 
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