あの頃の君へ。

篠宮 楓

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後輩

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 雨の降り始めたことに気が付いて、走らせてたボールペンを置いて窓からの風景を眺める。七月だというのに梅雨の明けない日々が続いて、湿度の高いオフィスの中はなんだか眼鏡が曇りそうな気分。

 この会社に入社して、もう三年。早いもんだなぁ……と、頬杖をつく。大学を卒業したのが、そんなに前の事とは思えない。同期の女の子は、寿退社でいなくなり始めてて。まだ三年だというのに、総務の中では古参に入る。
 うちの会社は、全国に支店を持つ衣料品会社。本来入社してすぐは店舗勤務になるのだけれど、数人だけ本社の事務業務に回される。私もそのうちの一人。

 販売職、結構楽しみにしてたんだけどな。
 でも、この仕事も嫌いじゃない。

 手元の書類に視線を落とす。

 地道にこつこつ、は。
 私の得意とする分野。


 一つ溜息をついて、ボールペンを机から取り上げる。

 さて、頑張ろう。



 そう意気込みながら、机に向かった時だった。

「すみません、取引先の連絡先を調べて欲しいんですが……」
 廊下に面しているカウンターの向こうから、男性社員の声が聞えた。

 今、総務には私しかいない。今日は総務自体は休日で、当番制の出勤。早番の子は、少し前に帰途に就いた。
 持ち直したボールペンを机に置くと、私はカウンターへと歩み寄る。

「はい、どちらの会社ですか?」
 にこやかに笑いながら、彼が差し出したメモを受け取った。

 普通の社員にとって、総務とか経理とかは敷居が高いらしい。緊張しないように、「勤めてにこやかに」が総務のモットー。

 受け取ったメモを見ながら、カウンター下に置いてあった取引先一覧を取り出して順繰りにめくっていく。データ管理されていれば楽なんだけど、今はちょうどその移行を行っている最中。新規さんはすでに登録されているけれど、昔からの馴染みさんとか小口さんはまだ登録されていない場合が多い。だから取引先一覧で調べた方が確実なんだけど、取引先は大量にあるためすぐには見つからないのが常。
 相手も分かっているのか、黙って私の手元を見ているらしい。



 ……ていうか、あまり見られるのも嫌なのですよ。
 緊張するんですが。

 やっと目指す会社を見つけて、ほっと胸をなでおろす。笑顔を浮かべて、相手にそのページを指し示した。

「こちらが連絡先になります。メモを取りますか?」
 カウンター下の引き出しから、ペンとメモ帳を取り出して渡すと彼は何も言わずに受け取った。

 あら。お礼くらいないのかしらね。

 しかも、手に持ったままメモを取るわけでもない。一体何をしてるのかな?

 眉をひそめて、顔を上げる。
「……?」
「……」
 なんだろう。なんか見られてる。凄い無言で見られてる。

 慌てて、視線を手元に戻す。
 なんだかよくわからないけれど、視線が怖いんですが、まだ見てるよね……?!
 
 少し様子を見ていたけれどまったく動き出す気配がないので、小さく溜息をつくと意を決して顔を上にあげた。

「あの、何か? どうかされましたか?」

 私の言葉に、はじかれたように一瞬目を見開く。
 何? 怖いからその反応!

 こっちがびっくりして口を閉じると、相手が伺うように私を覗き込んだ。

「あの、葉月先輩?」
「はい?」

 いきなり名前を呼ばれて、首を傾げる。

 誰だろう、この人。
 なんで、私の名前知ってるの?
 苗字なら、ネームつけてるから分かるけれど。

「あの、どちら様ですか?」

 いぶかしげな表情は、仕方ないでしょ?
 だって、こんな人知らない。

 途端に、私の肩をがしっと掴む。
「葉月先輩だ! 先輩、ここに勤めてたんですか!」

 がしがしと身体を前後にゆすられて、頭がくらくらしてきた。
 おーい、私が置いてけぼりだよー。

「いや……だから誰?」
 何とか言葉を紡ぐと、彼はやっとまともに私の声を聞いたらしい。慌てたように揺すってた手を止めると、人差し指を自分に向けた。

「伊吹です、伊吹義孝! 覚えていませんか?」
 い……いぶき……?

 視線を天井辺りでさまよわせる。
 伊吹……って。
 一人該当者がいるんだけど、こんな奴じゃ……

 悩んでいる私に、トドメの一言。

「高校の後輩だった、伊吹です。葉月先輩、俺の事忘れちゃいました?!」

 そう笑う彼の顔に、思い出の中の伊吹だったはずの表情がかすかに見て取れる。

 でも……
 マジですか……?


「おーい、伊吹。お前、総務で何やってんだよ」
 ありえない状況に頭を片手で押さえていた私の所に、目の前の彼こと伊吹を呼びに誰かが総務に入ってきた。

「あれ、田所さん」
 その声に、入ってきた社員の方に目をやる。そこには、同期入社の田所君が立っていた。

「お前、何こんなとこで迫ってるんだよ。恥ずかしい奴」
 私の肩に両手を置いたままの彼は、そういわれて気づいたらしく慌てて腕を下ろした。そして誤解だとでもいうように、両手を前で振る。

「違うんですよ、田所さん。こんな所で、高校の先輩見つけちゃって」
 田所君は先輩? と呟きながら私に視線を移した。
「なんだ、宮下じゃないか。こいつ、知り合い?」
 まだくらくらしている私は、顔を押さえていた手を外すと、田所君を見上げる。
「田所君こそ知り合い……? 」

 田所君はがしっ……と伊吹の頭に手を置くと、にやっ……と笑う。
「こいつ今年の新入社員で、店舗行かずに俺んとこのシステム管理課に来た奴」
「俺だって、店に出たかったですよ」
 その手をどかしながら、伊吹がむぅっ……と頬を膨らます。
 そんな二人をぼやっと見ていたら、田所君が私のほうを向いてカウンターに手をついた。

「今日の終業後、飲みに行かね? こいつ連れてくし」
「えっ……ご遠慮させて……」
 慌てて断ろうとした私の言葉を、伊吹のでかい声が遮った。

「いいっすね! じゃあ、迎えに来ますから葉月先輩!」
 その音量に耳を押さえていたら、総務の電話が鳴り出した。
「あっ……」

 話途中ではあるけれど、条件反射のように電話の受話器をとる。社名を言ってボールペンを持つと、そこにメモ帳が出てきた。

「?」

 隣には、伊吹の姿。さっき手渡したメモ帳を、置いてくれたらしい。
 耳で電話の内容を聞きながら伊吹の方を見上げると、男2人は手を振ってカウンターの向こう、ガラス扉から廊下へ出て行ってしまった。

「あー」
 思わず出た声に、電話の相手が怪訝そうに私に話しかける。慌てて誤魔化すと、相手の用件を済ませ電話を切った。

 メモした内容を連絡帳に写し取り用事を済ませると、自分のデスクに戻って溜息をついた。

 なんだか一気に疲れた……。

 眉間を指先でもみながら、先ほど再会した伊吹の姿を思い浮かべる。
 でかい身長、でかい身体、でかい声。あの頃と同じなのは、でかい声だけね……。

 もう一度溜息をつくと、ボールペンを手に取る。

 あぁ、あんまり思い出したくなかったのにな。
 ぺらりと、机の上の書類をめくった。
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