31日目に君の手を。

篠宮 楓

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アオの30日目

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 自宅に戻った私を待っていたのは、何でもない日常だった。

 突然要さんちに逃亡した私を心配した親が電話をかけてきていたのは、最初だけで。その後は要さんが上手くいってくれたから、追求するような連絡はぱたりと止んだ。
 そして突然帰宅した私。
 顔を合わせるのは2か月以上ぶりで。
 何か言われるんじゃないかと、少しは思っていた。

 でも――

「あら、もう帰ったの? 要さんの知り合いの方、もう具合はいいの?」
 キッチンで夕ご飯の支度をはじめていた母親の開口一番言ったことは、それだけだった。追及されなくて安堵したし、改めて要さんに感謝した。

 掘り下げて聞かれたら。
 理由を聞かれたら。

 大学受験の時に美術の道に進むことを強硬に説得しに来ていた聖ちゃんにあまりいい印象を持っていない母親は、その評価をもっと下げてしまうだろう。
 聖ちゃんは母親の姉の息子。近しい親戚だというのに、これ以上疎ましくは思ってほしくない。
 私は荷物をリビングに置いて、カウンターからキッチンを覗き込んだ。
「うん、もう大丈夫だったから帰ってきた。明日、アパートに戻るね」
「あら、ゆっくりしていけばいいのに」
 そう言いながら、母親は既に剥き終わっているジャガイモがあるというのに、新たに数個剥きはじめた。何も言わなくても、私のご飯の分、材料を増やしてくれているのが分かってほっこりとする。

 美大に進まなかったけれど絵の為に一人暮らしをしたいと言った私を、最後まで引き留めたのは父親ではなく母親だった。独り暮らしは危ないとかそういう心配以上に、きっと聖ちゃんに依存している事に気づかれていたからだと思う。

 全く周りを見ていなかった私は、聖ちゃんから離れて、日常から離れて、改めてやっと気づくことが出来た。本当に、あの頃の私は……要さんちに行くまでは……ななしくんに会うまでの私は、何も見えていなかったんだなぁって思う。
 ななしくん効果だなぁ……

 自分の思考にはまっていた私は、視線を感じて瞬きを一つした。
 じゃがいもを剥き終えた母親が、口端を上げてにまぁっと笑って私を見ていたのだ。

「え、何?」

 そんな表情をされる理由が分からなくてそう問いかければ、母親は嬉しそうに笑ってじゃがいもを鍋に放り込んだ。
 既にお肉を炒めていた鍋には玉ねぎと人参も入れられていて。
 肉じゃが、もしくはカレーかな……とのんびり考える。
 母親は……、生憎と料理の腕があまりない。その分苦労しない様にと、私に本を手本にいろいろと教えてくれた。

「ねぇ、いい事、あった?」

 突然聞かれたその言葉に、思わず首を傾げる。
「いいこと?」
 お玉で鍋の中をかましながら、母親はうんうんと頷いた。
「なんか、久しぶりに見る気がするわ。あんたの顔」
「……? 確か二か月ぶりくらい」
「そういう事じゃないわよ。まぁいいから、お風呂に先に入っちゃいなさいな」
 しっしっと追い払うように手を振られて、むぅっと頬を膨らませる。
「どういうこと? なんだか、凄く気になるんだけど」
「私があんたの母親って事よ」
 それしか返答はなく、私は首を傾げながらリビングを出た。



 翌日アパートに戻る私の手には、大量の食材と作り置きのおかずを入れたタッパー。そして電車で帰るという私を、父親がアパートまで車で送り届けてくれた。
「なんだか、二人して過保護さんだね」
 荷物を部屋まで持ってきてくれた父親にそう言えば、ぽんぽんと頭を軽く叩かれてため息をついた。
「私たちが、お前の親だってことだよ」
 ……お母さんと同じこと言ってる。

 父親はそのまま部屋に上がる事もなく、玄関先に荷物を置くと家へと戻って行った。
 その姿をアパートの廊下から見送っていた私は、一息ついて玄関の荷物を片付け始める。
 絵を描くことが前提で選んだアパートは、大学生の一人暮らしにしては広い2LDK。キッチンにある小さな冷蔵庫に食材とおかずを入れて、やかんに水を入れて火にかける。
 しばらくいなかった部屋は、油絵の具の匂いや紙やキャンバスの匂いがこもっていて。窓を開けて換気しながら、洗濯機に洗い物を入れてボタンを押した。

 機械の音と、やかんがたてる蒸気の音と。
 窓の外から聞こえてくる、雑踏の音。

 そして……

「綺麗な、青」

 窓の向こうに広がる、要さんちから見るより狭い青空。

 すっきりと晴れ渡る青空は、とても綺麗だけれど――

「ななしくんの青の方が、もっと綺麗だ」


 ななしくんの、ぼんやりとしていた顔が思い浮かぶ。
「熱、下がったかな……。もう上がっていなきゃいいけど」
 気になるなら、全快してからこっちに戻ってくればよかったんだけど。

 でもそうしたら、理由を話さなきゃいけない。
 帰るねって、言ったら。

 ……まず、私の自宅が要さんちじゃないって事に驚かれて。
 そこから、どうしてここにいるのかって……きっと――

 話したくないわけじゃない、でも、それを言う時は……

 続く言葉を心の中でこらえて、もう一度空に目を向ける。


「ななしくん、本当に、ごめんね」


 ぶっきらぼうに見えても、強面でも。
 まっすぐで世話焼きの、優しい子だから。

 例え私に恋愛感情が無くても、ほぼ毎日と言っていいほど会っていた人が突然何も言わずにいなくなれば、それは気になるよね。

「ホントにごめん、ななしくんっ」

 ぱんっと両手を合わせて、ななしくんに向って頭を下げた。
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