31日目に君の手を。

篠宮 楓

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さいごのおはなし。

アオとななしのさいごのおはなし。

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 個展が終わり……

 色々な後始末に追われていたアオが落ち着けたのは、個展が終わって既に二週間経った金曜日だった。個展開催中よりも、準備と撤収の方が労力も時間も使う。
 しかも今は八月のはじめ。暑さは夕方とはいえ、和らぐ気配はない。
 
 ようやっと自宅にたどり着いたアオは暫く縁側で寝転がっていたけれど、それでも夕飯の支度をしなければと台所へと向う。椅子に掛けてあるエプロンを手に取れば、ひらりと落ちる白い紙片。アオは小さく首を傾げながら、それを手に取った。
「……私、あて?」

 それは小さな封筒で。
 表に、高坂あおいさまと書いてある。覚えのない封筒だけれど、その文字はななしくんのものだ。男の人っぽい大きめの文字だけれど、ちょっと右上がりのとても丁寧な筆跡。アオは封のしていない封筒を開けると、中から小さく折りたたまれた紙を引き出した。
「……どういうこと?」
 そこにはたった一言。

 ――七時にベンチで

 ただ、それだけ。
「ベンチって、土手の?」
 顔を上げれば、時計の針は七時少し前を指していて丁度指定されている時間に近かった。
 どういうことだろう?
 アオは首を傾げながらも、掛けようとしていたエプロンをテーブルに置いて居間へと出る。帰宅した頃は暑かった部屋も、川から吹く風で幾分温度が和らいでいた。

 縁側に出れば外の風景は、すでに夜に変わりつつあった。
 空は濃紺と薄い水色の間のグラデーション。視界はまだはっきりと見えるけれど、じきに闇に塗りつぶされていくだろう。
 アオは縁側からサンダルに履き替えて庭に降りると、突っ切るように歩いて柴垣から土手へと出た。
「……ななしくん?」
 はたしてそこのベンチには、スーツ姿の原田が座っていた。
 アオの声に顔を上げた原田は、どこか緊張した面持ちでアオの胸の中に微かな不安が生まれる。原田の働いている会社は、六時三十分が終業時刻だ。直帰だったのかわからないけれど、生真面目な原田がさぼることはないはず。すると、終わってすぐにここに来たことになる。そんなに急いで帰宅した上に、自分をここに呼び出したその行動。
 どれも初めてのことで、アオは自然と両手を握りしめて原田の前に立った。
「ね、どうしたの? ななしくん……」
 思ったよりも不安そうな声が出てしまって、アオはきゅっと唇を噛みしめた。
 原田はそんなアオにも気づかないのか、そっちはそっちで緊張した表情のままぎこちない仕草でベンチから立ち上がる。そして交代とでもいうように、ベンチにアオを座らせた。

 一体これから何を言われるのか、アオは不安な表情のまま目線を合わせるようにしゃがんだ原田を見つめた。

「あのな、アオ」
 おもむろに口を開いた原田は、そこまで言って大きく息を吐き出した。アオは、何も言わずに原田の言葉の続きを待つ。どうか悲しい事だけは言われませんようにと、それだけを念じながら。
「アオと会って、もう八年だな」
「うん」

 十八歳の原田と、二十歳のアオ。
 出会ったのは、今から八年前の……

 そこまで考えてから、アオはふと些細な……けれどアオにとってはとても大切なことに気付いた。
「ななしくんと会ったの、今頃だったね」
 八年前の、八月のはじめ。場所も、ここ。
 ぼんやりとここに座っていた自分に、……泣いていた自分にタオルを渡してくれた。
 真っ青な、……綺麗な青色のタオル。

 原田はアオの言葉に、小さく頷いた。

「だから、ここがいいかなと……その思って」
「ここがいい?」
 意味が分からずその言葉を繰り返すと、意を決したように原田はアオの両手を握った。大きな掌に包み込まれる自分の手。アオが思わずそちらに気をとられた時だった。

「あおいさん。俺と結婚してください」

「……」

 原田と自分の手を見ていたアオは、思わず目を見開いた。大きく見開いたその眼は瞬きを忘れたように、大きな手に包まれている自分の両手を映している。

「アオの方が甲斐性あるし、飯も家の事もやってくれていて、半人前の俺にはまだ早いのかもしれないけれど。でも、これからもずっと一緒にいたいから」

 アオ、と呼ばれて、ようやっとゆるゆると顔を上げた。目の前には、眉間に皺を寄せて自分を見ている原田の姿。傍から見たら機嫌悪そうに見えるかもしれないけれど、真っ赤な顔が感情をこれでもかとあらわしていて。
 それを見たアオの表情が、ふわりとゆるんだ。
「うん」
 微かに、視界が滲む。
「ありがとう、ななしくん……。じゃなくて、直哉さん?」
 言い直されても疑問形な呼び名に、原田の顔から緊張の色が薄まっていく。
「ななしでいいよ、俺も多分アオって呼ぶから」
「直哉さんって呼べるように頑張る!」
「頑張ることなのか」
 言いたいことを言えて張っていた気が緩んだのか顔を伏せて大きく息を吐き出した原田は、再びアオを見て驚いたように目を見開いた。
「ちょ、悪い。なんかやっぱ嫌だったか!?」
「へ?」
 いきなり焦りだした原田を不思議そうに見るアオは、ぽたりと腕に落ちた水滴にぱちぱちと瞬きを繰り返した。原田は頬に流れたそれを、親指で拭う。
「さすがにタオルはもってないから……」
 そう言いながら拭う原田の表情は、不安の色を隠せない。アオは自分の頬を拭う原田の手に、自分の手を重ねた。
「……嬉し涙、だよ」


 ななしくんと、これからも一緒にいられる。
 今までと何ら変わりない生活かもしれないけれど、そこにできる明確な絆。
 目に見える形で、家族になれる。


「これからも、ずっと一緒にいようね」
 そう言って笑いかければ、ななしくんは嬉しそうに頷いた。





 あの日に繋いだ君の手を、これからもずっとずっと……




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