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其の参

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『主さま、最近ぼんやりしてることが多いねぇ。何かあったの? 幹の中が腐ってきてるとか?』

 いつもの通り定位置の枝に座っていた私の前に、喜楽がふわりふわりと飛び回りながら一応心配そうに問いかけてきた。
 心配してくれるのは分かるけれど、幹が腐ってとか嬉しく無い言い回しだわね。
 くすりと笑って枝の上に横になる。
『幹が腐っていたら、すでに私は消えはじめているはずね』
 重ねた両腕に頬をつけて喜楽を見遣れば、ショックを受けた様に目を見開いた。
『えぇ、それは嫌だよ主さま。主さまいなくなったら、誰も遊びに来なくなっちゃうじゃないか』
 私よりも自分の心配をするところが、まだ若い精霊らしさが見えて苦笑してしまう。

 生まれたての精霊は、本能で動くから善悪の判断がほぼつかない。言いたい事を言い、やりたいことをする。
 それに対する罪悪感は、一欠けらもない。

 長い年月をかけて、色々なものを吸収して己の自我を形成していくわけだけど。
 喜楽が大人になるのは、いつになるのかしらねぇ……。

 肩にひっかけている袿の衿を軽く指でつまんで引き寄せると、風にふわりと揺れた桃色が目に鮮やかに映った。
 それに視線を流して、私は小さく息をつく。

 確かに、最近身体がだるい。古木となった本体が、やはり少し弱ってきたのかなとも思う。
 花を咲かせることに、力を取られすぎたのかもしれない。
 考えても詮無いことだから、自然の流れを受け入れるだけだけれど。


 まぁ、夏の暑さに入る前に、少しは休めるだろう。
 ゆっくりと本体を眺めた。

 花は少し前に完全に散ってしまい今は葉がしげりはじめ、淡くさくら色だった視界はすでに緑に変わり始めている。

 ふとした時に、思い出す、声。


 もう、ひと月ほどになろうか……。


――あの人の想いが、どうか叶いますように。


 そう願ったあの男の声は、あれから聞くことはできなかった。他人の幸せを願う男の、顔を見てみたかったけれど。



『主さま、主さま!』

 風に揺れる袿の裾を見ていた私の視界に、くるりと喜楽が入ってきた。
 何やら嬉しそう。
『どうした喜楽。何か楽しい事でもあったの?』
 花を見に来る人がいるわけでもあるまいし、そう続ければ喜楽はぶんぶんと頭を横に振った。
『いるよ、主さま! 人が来た! いっぱい来るかな!!』
『ひと?』
 珍しい、花もなく葉も茂っていないこの時期に。
 私はそう思いながら、腕の上にのせていた顔を反対側に向けた。
 そこには、広場の入り口からこちらに向けて歩いてくる、一人の男の姿。

『変わってる奴がいるんだな、こんな時期に。多分一人じゃないかと思うけど』

 もう少し葉が茂れば、日陰の下で本を読んだりお弁当を食べたりする人たちはいる。
 けれどまだ葉はまばらだ。
 木陰というには、随分と隙間だらけ。

『なんでもいいよ! だれか来れば、楽しいし!』

どんな理屈。

 喜んでくるくると舞う喜楽に目を細めながら、すぐそばまで来ていた男に視線を戻す。
 まだ若い……、二十歳前後かしら。
 起こした体を幹にもたせ掛けて、立ち止まった男を見下ろした。



――あの人の想いが、どうか叶いますように。



 どくり


 鼓動が、跳ねた。



 強い強い、想いの言葉。

 強い強い、想いの声。




『あの男だ……』
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